Fire
メラメラと炎が揺れる。まるでこの世すべての憎悪を吸い込んだかのように小さかった種火は見る見る内に巨大な火球へと変わり、発火元を中心に獲物を追う邪悪な悪魔が如くホテルの外壁に広がっていった。階下の部屋がいくつか燃えていく。それは次の火種を求め、どんどん上へ上へと伸びてきていた。
ベランダから火事の様子を見ていたヘルガが部屋の中に入ると、着の身着のままレアリティを急かしながら部屋の外へと出た。幸いと言うべきか、煙はまだ廊下には見えなかった。エレベーターへと走ろうとするレアリティを非常階段へと引き戻し、先導する形でヘルガは階段を降りていく。
その最中もヘルガは思考を巡らせた。どうして火事なんて、と。
真っ先に疑ったのは例のレアリティを狙っているという殺し屋だ。灰色の男、Alpha-Nameと殺し屋兄妹、Hyde und Seekの三人をどうにかしたばかりだというのに、今度は放火魔と来た。全く脳と体を休ませないことに関しては一級品と言える。
思えばあの殺し屋達はどういうわけか常にレアリティの潜伏先を看破し、彼女の前に凶刃と狂笑を携えて立ち塞がった。なんらかの手段でレアリティの位置を把握している、と考えるべきだ。その方法が現代技術に拠った方法なのか、それとも魔術なんかに拠った方法なのかは今のヘルガにはわからないが、どうにかして最低でもその方法を知る必要があった。
今、火災を起こしているのがレアリティのことを狙う殺し屋だと仮定すると、そいつをすぐに殺すのはまずい。普段は絶対にしないことを考えるとそれだけで頭が痛くなる。レアリティを殺そうとする人間を殺さず、あまつさえ少しの間とはいえ生かすなど、普段のヘルガであれば絶対にしない。
もしこれが殺し屋とは全く関係のないただの事故による出火だったのならば、いいのだが、と心にもない逃避をしつつ、ヘルガは一階の非常扉を開いた。すでに多くの人間がわらわらとホテルの外へと逃げていた。その中に混ざろうとヘルガはレアリティを先導するが、当のレアリティが彼を引き留め、野外へ退避する宿泊客と従業員らを尻目に二人はホテルの敷地から逃げ出した。
「なんで人ごみに紛れ込まないんだよ」
「関係ない人は巻き込めないって」
じゃぁ自分はどうなんだ、と窓ガラスに突然突っ込んでくるというダイナミックエントリーをかましたレアリティをヘルガは睨む。ヘルガは確かにレアリティを愛しているが、だからと言って全肯定しているわけではない。彼女の言葉に突っ込めることがあれば容赦無く突っ込む質の悪さを持っている。
しかし同時に変なところでポジティブに物事を捉えてしまう間の悪さも持つ。閉口しつつも、心のどこかでヘルガは「それはつまり自分はレアリティにとって関係の深い人という意味なのでは」とあらぬ妄想に酔っていた。
ホテルの敷地から脱出した二人は街中を歩く。やけにサイレンの音がうるさいのは消防車が近づいているということなのだろう。サイレンを鳴らして急ぐ消防車、救急車を何食わぬ顔で見送り、二人は再び会話に戻った。
「それでこれからどうする?このまま街を歩くにしても限度ってもんがあるでしょ」
「そうね。私達の居場所をどういうわけか敵は把握できるようだし、また人気のないところに誘き寄せて、あら?」
レアリティが何かに驚いて歩を止めたので、ヘルガもまた歩を止めて彼女の目線を追った。二人の進行方向には交通規制が敷かれてた。それも車道だけではなく、歩道も封鎖されていた。何があったのだろう、とヘルガがテープの前に立っていた作業員に聞いてみると、電柱が突然倒れて危ないから区画一帯を封鎖している、と返ってきた。
嫌な事って続くもんだな、と思ってヘルガがテープの向こうを一瞥すると、確かになぜか不自然に停電している建物が多くある地区がちらりと見えた。電線が切れたのならば確かに危ない。区画を封鎖することは迅速な対応と言える。
「嫌な事故だなぁ」
「そうね。おかげで今来た道をまた戻らなくちゃいけないもの」
不承不承と踵を返してさっきまで歩いていた道を歩き出し、ヘルガとレアリティは今度は左折した。あてもなく歩いていれば事故に出くわすこともある。
ヘルガも学校に向かうバスの中で、何度意味のわからない渋滞に巻き込まれて立ち往生したか知れない。事故とは予測不可能なものではあるが、それが自殺者だったりが出る人身事故だった時は不用意に車に突っ込んだ野郎の顔面に膝蹴りをかましたくなる。どうせ自殺するなら「鉄の貴婦人塔」から飛び降りるとか、入水自殺するとか、あまり迷惑がかからない方法をとって欲しい。
交通機関、特に車とか電車とかに突っ込んで「死なば諸共、私の死をいろんな人に刻んでやるわ」みたいな死に方はやめてほしい。迷惑千万だ。
「そんな奴らはいっそ生まれてきた事が罪なんじゃないかって思うよ」
「それだと私も、ヘルガ君も生まれてきた事が罪よ?そもそも、誰かに迷惑をかけないで生きている人間なんていないわ。あるのは大小の違いだけで、罪は均等にあるものよ」
ぶっきらぼうなヘルガの発言をレアリティは優しく諭す。それでもヘルガは首を振って固辞した。
「いや、でもさ。立ち小便した奴と、自殺のために大勢に迷惑をかけた奴、どっちが嫌よ。絶対に後者じゃん」
「変わらないわ。どちらも変わらない。等しく、他人に迷惑をかけてるんだもの」
「えー。一と百どっちに迷惑をかける方が悪いなんて、一目瞭然でしょ?」
「そんなことじゃないの。どっちの方が悪いってわけじゃなく、そういうことをした時点でまず”悪い”のよ。それだけで社会から爪弾きにしてもいいくらいにね。言ったでしょ、罪は均等だって。それにね、ヘルガ君の言っている事って東洋の大陸じゃ「五十歩百歩」って言うのよ。もっとひどい言い方をすれば「目くそ鼻くそを笑う」ってところかしら」
これはもっと東の島国の慣用句だけど、とレアリティは補足する。雑多な民族主義の国は言葉も雑多で俗なのか、とヘルガは閉口したくなるが、レアリティの言葉の本質はそれではないことをすぐに思い返し、眉間に皺を寄せた。
確かに一理ある話だ。立ち小便と自殺は一概に同列には語れない。ならば二つの共通点を探せば、それは「迷惑」「悪い事」だ。なるほど、確かにどちらも人にいい印象を与えない。そこに優劣をつけるのは間違っているのかもしれない。
だけど、社会ってそういうものではなかろうか。自分達よりも下を作らなくちゃ、平静を保てない。下は勝ち負けだったり、優劣だったり、絶対的正しさで決まる。神だって優劣をつけるのだから、いわんや人は、と言ったところだろう。アベルとカインの話を引き合いに出すまでもない。
「じゃぁ、レアは」
「あ、見て」
ヘルガが何かを言い返そうとした矢先、レアリティは彼の肩を叩いた。まるで羽ペンで撫でられ方のような柔らかい手つきだった。その肌触りを堪能したい情欲をこらえ、彼女が指差した方角にヘルガも視線を向ける。
目の前には人だかりができていた。この街のすべての人間を集めたような群衆、人がたくさん群がり、何事かとヘルガがジャンプをして先頭を睨むと、事故でも起きたのか大型の車が一台、歩道に乗り上げ、街路樹に激突していた。つまり集まっている群衆はすべて野次馬だ。車から運転手を降ろし、救命活動をしている正義感あふれる人間も数名見えたが、それよりもはるかに自前のスマートフォンのカメラ機能を使うに忙しい人間の方がはるかに多い。
幸い運転手は生きているようで、傷付いてはいるが息はしていた。早く救急車を持って来い、とゲルマン諸語で救命活動をしていた男性がスマートフォン越しに怒鳴っているが、それは難しいだろうことはホテルの火事から逃げてきたヘルガにはよくわかる。あの火事がなければ今頃、サイレンの音が前後のどちらかから聞こえてきただろう。
「また、戻る?いい加減歩き疲れたわ」
人だかりのせいで通れないことと、その人だかりがはけるまでにもう少し時間がかかることを知ったレアリティは年相応の少女のように不機嫌そうに腰をかがめた。もし表情が見えるのなら、頬くらいは膨らませているかも知れない。
「仕方ないよ。そこの小路に入ろう。道沿いに歩いて行けば僕が泊まっていたアパホテルに着くと思うから」
「そう。じゃぁそうするわ。それにしても付いていないのね、私達。一度目は火事、二度目は電柱の傾倒、そして三度目は自動車事故で色々と振り回されるなんて」
「今日が特別なだけでしょ。だって例の殺し屋達のせいできっと警察とかは大忙しだろうから、色々と手が回らないんだよ」
「そうかしら。まるで誰かに突き動かされているようで怖いのだけど」
まさか、とレアリティの懸念をヘルガは一笑する。もしレアリティの言っていることが事実ならば、ホテルの火事も電柱の事故も自動車事故も誰かが仕組んだことになる。どれも人の手でやれないことはないが、そこまでして何がしたいのかがわからない。
事実、最初の火事以外でヘルガとレアリティは巻き込まれこそすれ、実害を被ったわけではない。ただ進路妨害をされただけだ。
「あ、ここもね」
小路に入り、もう少しでアパートメントホテルというところで、二人は交通規制に引っかかった。有体に言えば立ち入り禁止、突然の街路樹の倒木によって道が塞がれていた。乗り越えられないこともなかったが、人の目がちらほらとある中で目立つことは避けたかった。
「仕方ないな。あ、そうそう。この近くに中央公園があるからそこ行こう。遠回りにはなるけど、一応はアパホテルにつながっている、と思う」
この街に到着し、駅からアパートメントホテルに行くまでの道程を確認した際にさらっとロードマップを見ただけの知識だ。おもむろに携帯を取り出して自分の発言をヘルガは確認するが、マップを見た限り、記憶違いではなかった。ヘルガに言われるがまま、レアリティは右折して中央公園へと行く。
中央公園はこの街では一番大きな公園だ。規模はセントラルパークの八分の一もないが、自然豊かで街の住民にとっての憩いの場所でもある。公園の中央には噴水があり、噴水を彩るように象れた彫刻はかつての皇帝に仕えた騎士が模られている。
「やぁ、ヘルガ君。夕方ぶり、かな。覚えてる、あたしのこと?」
ほのかなオレンジ色の灯りが点る街灯の真下、噴水に腰掛けた雨色のツインテールの少女はヘルガに笑いかけた。左手には土色のグローブを付けた赤目の彼女はまるでヘルガ達がこの場所に現れるのを待っていたかのように悠然と構えていた。




