エンディング
こと切れたユリウスの頭蓋からナイフを力任せに引き抜くと、頭蓋が砕ける音と共に僅かに睨むように彼の瞳が動いた。走る痛みのせいでゾッともしない。ようやく殺せたのに何の感慨も湧かない。死屍累々の果てに掴んだ勝利、それはやっと終わったという安堵と戦いの疲れが波のように取り止めもなく押し寄せて、感情の整理がつかない極めて雑多な勝利だからだ。
おぼつかない足取りでヘルガは大樹へ向かって歩を進めた。彼が右手に握るナイフはその歩の末にただの歩行の振動にすら耐えられなかったのか、大樹の根元に到着したと同時に砕け散ってしまった。柄だけになったナイフを路傍へ投げ捨て、アーミーナイフをヘルガは取り出すと、静かに樹皮にその鋒を突き刺した。
鋒を突き立てられると病原菌がワクチンから逃げるように樹皮がみるみる内に避けていった。瞬く間にぽっかりと木の洞が形成され、ヘルガは何も疑うことなく、大樹の中へと足を踏み入れた。
大樹の中は黄緑色の空洞になっていて、その中央にヘルガがリッド=ヴィーム市に来た理由である金髪金眼の少女が虚な瞳で唇を歪な形の笛に付着させていた。彼女は巫女を思わせる薄手の衣装に身をつつみ、黒ずんだネックレスとブレスレット、そしてアンクレットが際立ってヘルガの眼を引いた。
ただの大樹と化したキント=リンヴェリウスの本体の中にあって彼女を縛る黒輪は明らかに異常だった。否、実際のところキント=リンヴェリウスはまだ死んではいないのだろう。ただヘルガの両眼のフレーム外にその体が移動しただけ、言うなれば母体である地下の巨龍とほぼ同じ状態に成ったにすぎない。どういうからくり、どういう因果で大樹となったのかはヘルガにはわからなかったが、少なくともユリウスが死ぬまでは禍々しい黒色だった大樹が今になって色を帯びたということはそういうことなのだろう。
おもむろにヘルガは金髪金眼の少女、ドロシー・ジューローゼの首筋にアーミーナイフの鋒を向ける。刺すのではなく小突く形で彼はネックレスを、ブレスレットを、アンクレットを壊していく。彼のナイフの鋒が触れただけでドロシーを縛っていた枷はすべてガラスが割れた音と共に破壊され、崩れ去る。最もそれでドロシーの虚な瞳に光が宿るのなら苦労はない。
枷を壊してもドロシーは笛から口唇を話そうとしなかった。がっちりと掴んだそれを無理矢理取り上げようとヘルガは手を伸ばすが、まるで万力で掴まれているようでいくら引っ張っても外れる気配がない。仕方なくナイフを取り出し、ヘルガは笛めがけて振り下ろした。
カン、という乾いた音を上げてドロシーが握っていた笛が地面に落ちる。図鑑で見たことがあるような渦巻き状の貝殻を思わせる形状の笛はコロコロと地面を回り、ヘルガの足元で停止した。
ドロシーが手からこぼれ落ちた笛を拾おうとすることはなかった。強く握りしめていたはずなのに、手の内からなくなった瞬間、まるで壊れたおもちゃだったかのように興味を逸していた。これ幸いとヘルガは足元の笛めがけて傷ついた左足を振り上げ、無感傷に無感動に踏み潰した。
白い破片が空洞中に飛ぶ。それは何度も何度も振り下ろされたヘルガの左足が笛を砕くに連れて多くなっていき、やがて彼の足元には陶器の粉のような白い塵の山が生まれた。
「……なにをしているの?」
予期せぬ声にハッとなってヘルガは顔を上げた。視線を塵の山から声が聞こえた方へと向けると、蜂蜜のような滑らかな瞳を潤ませ、彼女はヘルガを見つめていた。
何も、とヘルガは嘯く。何も起きていないわけがないことは彼の足元の塵や、今二人がいる異様な黄緑色の空間を見れば明らかだ。ぼんやりと周囲を眺め回す彼女にとってもそれは自明だろう。しかし彼女はヘルガの意を汲んでか、あるいは本当に何が起きているのかわからなかったのか、そうだね、とこぼした。
「えーとそういえばあなたはだぁれ?」
思えばヘルガは彼女に、ドロシーに名乗ったことがなかった。顔は合わせているが、それは朝食のひと時だけで、ただ一方的に彼女のことを知っている関係と言っても過言ではなかった。嘆息と共にヘルガは彼女の目線に立ち、自分の名前を口にした。
「ふーん、ヘルガっていうんだ。女の子みたい!」
そう言われるのが今では懐かしく感じた事実にヘルガは鼻で笑った。あの街にいた頃は度々言われたセリフだ。その度に苛立ちを覚えていたことを鮮明に憶えている。何も言い返さないことがより拍車をかけて「お前ついてんの」とも言われた。
発言を咎めると、うぅ、とドロシーは肩をすくめ申し訳なさそうに首を垂れた。それは可愛らしくもあり、まるでまだ世界を見たことのない子供のようだった。
彼女の手を取り、立ち上がらせる。足元はヘルガと同じかそれ以上におぼつかない。仕方なくドロシーを背負うと入ってきた時と同じ道から大通りへと出た。大通りには街灯の灯りのない夜の闇だけが寝そべるように敷かれていて、ついさっきまでの苛烈な出来事が夢現のように感じられた。
「あれ、ここってえっとあの街?なんで私あの街にいるの?」
寝ぼけ眼をごしごしとかきながらドロシーは疑問符を浮かべる。それは彼女がこの街に来てからずっとあの状態だったという証左に他ならない。柄にもなく他人のことで苛立ちを覚えた。
キョロキョロと辺りを見回すドロシー。それを気にせずにヘルガはまっすぐ傾斜した大通りを降りていく。煌めく蒼月の下、さして肉体年齢の離れていない男女が降りていく。片方は世界の色を物珍しそうに、片方は世界の膿を憎々しげに見つめながら。
瓦礫の中、路傍が樹木ばかりの大通りのちょうど中間地点、ちょうど昨日の今日、ヘルガとラスカーがキント=リンヴェリウスが対峙した地点に差し掛かったところでヘルガとドロシーは互いに見知った顔に出会った。だがそれは月明かりに照らされてもすぐに彼女だと把握はできなかった。それくらい、彼女の体は激しく損壊していた。
だらりと力なく垂れた両腕は片方が千切れ、片膝の皿は破れ、瞳は半分が垂れ、顎が外れ骨同士の癒着でかろうじてつながっていた。原型をとどめていない、そんな言葉はもはや陳腐な表現方法でしかありえない。禿げた頭蓋の中身が伽藍洞の眼孔から漏れ出てしかしまだ痙攣している状況を、ただの「原型をとどめていない」なんて一言で表現するには余りある。
「きーは」
短く彼女の名前を呟くドロシーの声は涙ぐんでいた。面識があったのだろう。キィハはそんなことを一言も言わなかったが。あるいは聞いたがヘルガが忘れているのかもしれない。
キィハ・ヴァイスロゼだったそれを見つめながらヘルガは彼女の足元に転がっているリコーダーを手に取った。まだ吹き口が濡れている。キィハのよだれの痕、彼女がついさっきまで吹くことをやめなかったという証。例え支配権を奪われても奪い返さんと彼女は奔走したのだ。その証を補強するように大通りの地面から生えた無数の樹脂の顎には互いに喰い合ったように絡み合っているものがいくつもあった。
彼女は喰われながら、体を痛めつけられながらもヘルガ達が戦いに集中できるようにずっとリコーダーを吹き続けた。リコーダーが握れなくなるまで彼女は吹き続け、そして最後に笑顔で死んだ。
胸が締め付けられる。そんなことはなかった。ただ途方もない罪悪感が胸からこぼれ落ちたようで、ヘルガはふと左手の手のひらを見つめた。何もない左手を見て、自然とヘルガはぎゅっと手を握りしめた。初めて人を殺した時のことが思い起こされてくる。
——あの日、あの場所で、あいつを殺した時のことが。
それこそ自分の手で命を絶ってしまいたくなるほどに。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。先に立たずなんてことはない。先に立っていると思いたくないから目を逸らしているだけじゃないか。あの時こうすればよかった、と考えるのではなく、あの時こうできたの間違い。連綿と続く後悔、その繰り返し。ああ、人間にはボトムアップなんていう高度なことはできず、常にトップダウンしかできないんだ、とまるで三菅合唱を聞いている時のように嫌味に感じた。
「どうしたの、へるがー」
不思議そうに覗き込んでくるドロシー。彼女はそのビー玉のような金色の瞳を潤ませながら、しかし口元には震える微笑を浮かべていた。ユリウスは言っていた。彼女は神だと。神ならば人の感情を把握できるものなのだろうか。年甲斐もなく、そんな信心深い信者が聞いたら首を縦にふりそうなことをヘルガは妄想しながら、キィハの前を去ろうとした。
眼下の駅を見ながらキィハのことを忘れるためにヘルガは帰路について思案する。あいにくとヘルガの持ち金は少ない。老夫妻の家に戻るどころか、まずこの国の首都に戻ることすら難しい。一人なら無銭乗車を繰り返せばできたかもしれないが、ドロシーを連れてとなるともう不可能だ。ちらりとヘルガは潰れたグローサリーストアを見る。もう無人に等しい街ならレジからお金をちょろまかしても問題ないのではなかろうか。そんな盗人根性たくましい考えが彼の脳裏を駆け巡った。
まぁそれは最終手段だ、と頬を叩く。どのみちもう敵はいない。焦ることもない。ユリウスという巨悪を絶った今、残ったのは様々な後悔だけだ。
「——そう思ってるんだろう?背中がガラ空きだぞ?」
その声が途切れると同時にヘルガのうなじを焼けるような痛みが襲った。反射的に振り向くとそこには蒼月を背後にたたえた冷笑を浮かべるラスカーの姿があった。
✳︎
まだもうちょっと続きます。




