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愛しています、死んでください。  作者: 賀田 希道
悠久ナルキッソス
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ダンシング・トレンチ

 振動が体全体に伝わると同時に黒い奈落がその奥底で爆ぜた。発破をかけたような痛みにヘルガは表情を歪め、徐々に迫り上がってくる奈落の闇を恨めしげな瞳で睨んだ。


 「何をしたんだ?」


 率直な問いにユリウスは不敵な笑みをたたえながら答えた。


 「さっきも言っただろう?こんな人外の街、あっていいはずがない。神代を人類が放逐して幾星霜、今更人外風情が人と同じ街を作るなんて認められるわけないじゃないか。君だってそうだろう?この街が消え去るならそれでいいはずだ。君だって気持ち悪い、そう思っているのだから」


 ぐうの音も出ないほど自分の心の内をとらえた言葉にヘルガは舌打ちをこぼした。ユリウスが今からやろうとしていることはヘルガにとって()()()()()()()()()。不貞を働いた夫を殺そうとする妻を止めることに意味がないように、今ここでヘルガがユリウスの暴挙を止める謂れはない。


 気持ち悪い、この街は気持ち悪いと他でもないヘルガ自身があの夕焼けを浴びる街並みを見て、道行く人々を見て、この街の成り立ちを知ってそういう感想を抱いた。いっそ死んでしまえばいい、滅んでしまえばいいと思った。ヘルガはこの街になんの愛着もない。嫌悪感しかない。街の住民に対してもそれは同様だ。


 ——だが、だ。今の今になって、滅ぼそうとする人間を目の当たりにしてその行為の恐ろしさを自覚し、自分が考えていることの非人道的なまでのフレーズ具合に崩泪(ほうるい)を覚えた。


 だってそうじゃないか。曲がりなりにもリッドヴィーム市には生者の営みがあった。無愛想な老人、昼ごはんを食べた場末のレストラン、真昼間から平気で職務放棄をする警官達、水質調査をする真面目な役人、朝から瓦礫掃除をする老婆、盛況だった闇市、行き交う人々の群れ。言い訳のしようもなく、歪さを残していても、歪さが紙一重で存在しているとしてもこの街には確かに人の姿があった。


 楽ばかりでなく、苦もあり、泣きもあり、怒もある。真面目な奴もいれば不真面目な奴もいた。人間の社会らしく、嫌な奴もいれば良い奴もいた。他の何と一体違うのだろうか、それが。


 リッドヴィーム市の在り方が気持ち悪いというその評は否定しない。元々人間社会だって気持ち悪いと思っていた社会のはぐれものだ。担い手が人外から人類になったところでそこは変わらない。


 日常の世界にとっても、魔術世界にとっても、その奥の世界にとっても中途半端なはみ出し者。色々な世界で反復横跳びを繰り返すだけの亡者、ゆえにヘルガ・ブッフォは寄る方を、標を求める。自分が迷わないように、見失わないように。


 その標をヘルガは失いかけていた。一時(いっとき)の気の迷い、ただ気持ち悪いと感じたから、気に食わないという理由だけでヘルガ・ブッフォはあの街並みを破壊しようとする人間を見過ごそうとしていた。その凶行を自覚した瞬間、胃の底から込み上げてくる酸味の効いた感覚を覚え、反射的にヘルガは左手を口元に当てた。幸い出るものは出なかったが、喉が焼けるくらいに痛かった。なめくじが這いずるように喉の底に落ちていく流動物の感覚に不快感を覚えた。後悔の味は予想以上に不味かった。想像以上に口内を埋める味は酸っぱかった。


 涙と鼻水でむせ返りながらしかしヘルガはユリウスを止める答えを出せずにいた。理由は単純、後悔をいくら重ねようと一度抱いたリッドヴィーム市への評価が揺らぐことはないからだ。後悔もある、負い目もある、憐憫も覚えている。しかしそれのためにどうしてリッドヴィーム市を救わなくちゃいけないんだ?


 理由が必要だった。この街を守りたいな、と思える理由をヘルガは欲していた。


 「——そういえばまだドロシーについて聞いてなかったな。あいつはなんなんだ?」


 不意に、唐突に、前触れもなく、そんな言葉がポロリとこぼれた。意図していたわけではない。理由を探す過程で脳裏をよぎって気になった話題、キィハがユリウスが話すだろうと言ってついぞ言わなかった話題だったが、なんとなしにヘルガはその話題を口にした。


 ユリウスはちょっと驚いたように目を丸くし、ふむ、と思案するようなそぶりと共に逡巡してみせる。数秒の思案、のような仕草を見せた後、ユリウスは肩をすくめ口を開いた。


 「彼女は、『完成体(アウルム)』だよ。文字通り、言葉通りの完成品さ。君も見ただろうキント=リンヴェリウスを唯一操ることができる存在、それが彼女だ。完全なる『少女』のコピー、色々と試したが彼女の吹いた笛以外でキント=リンヴェリウスを操ることはできなかった。1からではなく0からの人の創造はさすがに骨を折ったよ。だが、ふふ。その甲斐はあった。


 キント=リンヴェリウス?はははははははは。そんな人外の獣一匹を操るだけで彼女の器は収まらない!自慢になるが、ぼくはある種完成させたんだ、神を、ね」


 「神を完成させた?ドロシーが神って感じはしなかったけど?」


 「より厳密には神と同等の肉体だよ。神と同じ性質を持った肉体だ。人をして神と同じ肉体を持つ。魔術師の悲願、神の座への到達。あとはぼくが彼女の中に入れば、それは達成される。が、まぁそれはぶっちゃけどうでもいい。今、やらなくてはいけないのはこの街の始末だ。この街の壊滅だよ、君」


 嫌味たっぷりの笑い声を轟かせ、ユリウスはその凡庸な見た目とは裏腹に心底楽しそうに双肩を震わせた。杖をカンカンと何度となく叩き、彼はこれから起こるだろう自分が思い描いた未来に歓喜していた。


 「——具体的にはどうやって?」


 嫌な予感を覚えつつヘルガは一歩踏み込んだ。聞けばきっと敵対する、今の拮抗状態を脱するだろう、となんとなく予想しながら真剣な眼差しをユリウスに向けた。対照的にユリウスは気分がよさそうに冷涼な笑みをたたえ答えた。


 「彼女に限界までキント=リンヴェリウスを使わせる。街一つを消すんだ。これまでの予行練習よりも頑張ってもらわなくてはね」


 「ああ。そう。そういうことか」


 キント=リンヴェリウスと初めて邂逅した昨日の夜、その瞳からは確かな怒りの感情を感じた。明確な殺意と敵意、こちらを殺そうとする意思を肌で感じ、眼で読み取り、ヘルガはキント=リンヴェリウスを敵と認識した。だがキント=リンヴェリウスは何の前触れもなくその怒りを失ったかのように平静さを取り戻しもした。紅蓮の怒りと群青の静けさ、二律背反する感情が突飛に変化するその理由を今、ヘルガはわかった気がした。


 予行練習とユリウスが称したキント=リンヴェリウスによる破壊行為、あんな人でなしがする行為をあのドロシーが命じるとは思えない。天真爛漫に、あけすけなく、純真無垢の赤子のようによく笑い、よく食べた彼女が駄々っ子のそれではなく、怨讐を覚えた(ぐえん)のように手当たり次第に壊そうとするとは思えない。あるとすればそれは彼女が彼女出なかった時くらいなものだ。


 「とはいえ彼女には随分と無理をさせたよ。愛着はないにしても過度に、そう過度に酷使させたから、ふふん。廃人になるんじゃないかな?」


 「へぇ。心配くらいはするんだ」


 「そりゃあもちろん。廃人となる程度ならいくらでも挽回できる。一度できたことは二度目もできる。それができない奴って言うのはよほどの梵蔵(ぼんくら)か製法を忘れた阿呆(あほう)ぐらいなものだろうよ」


 興味がなさそうにユリウスは言うと、杖へと手を伸ばした。ゆっくりと杖を掲げ、彼の杖の先端に黒色の塊が集約していく。それが奈落よりも痛いこと、それだけでヘルガはナイフを構え飛びかかろうとしていた。


 「——ありがとう」


 謝意は斜位を犯すためにある。ナイフは傷つけるから使わない。瞳は世界を平らかに見通すためにある。ならばその(かいな)は何を為すためにある?


 そんなことは決まっているじゃないか。——邪悪を断つためにその腕は存在している。


 礼を口にするとヘルガは即座に奈落へ向かって飛び出した。魔術を使おうとしていたユリウスも、状況を見守っていたキィハもギョッとしてヘルガの奇行に眼を奪われた。逆手に持ったナイフをヘルガは奈落へ向かって突き立て、そしてその刹那、奈落が弾け飛び、拡張されていた空間がゴムのように元の大きさに戻った。


 ガラスが割れるような音と共に閃光が走った。気がつけばヘルガとユリウス、そしてキィハは元々ユリウスが座っていた薄暗い部屋に立っていた。ただ一人ヘルがだけがナイフを地面に突き立てるように身をかがめていた。


 「異界を破った?やるじゃないか」


 「そりゃあんな奈落があればね。世界が定まってない箇所、それが奈落になっていたんだろ?だったらそれを破壊してやれば他もドミノ倒しに壊れるだろ?異界の作成っていうの土地を拡張することじゃなくて『完成した世界』を作るってだけの魔術なんだろ?だったら僕の右手は、刃は通用するよな?」


 「おもしろい眼と右手だな。色々な魔術を見てきたが、そんな魔術を見たのは初めてだ。一体どんな術式なんだ?」


 魔術じゃないんだけどな、とヘルガは困った様子で後ろ髪をかく。だが相手が魔術だと考えているならそれは好都合だ。相手が魔術ふに対抗しようとしているならそれはヘルガにとってカモだ。一体どうして狂犬病に罹患した犬を前にして素肌を晒せるのか、という話だ。


 「だが君は忘れている。ここはぼくの工房、ぼくの胃の中だ。胃液は際限なく出てくるもんだぜ?」


 「じゃぁ聞くけど胃液ってのは死んだ後も出てくるもんか?死んだ後も生成されるもんなのか?」


 「つまりぼくが何かするより早く君がぼくを殺すって?無茶だねぇ」


 次の瞬間、ヘルガはユリウス目掛けて特攻を仕掛けた。抜き身の黒刃が闇に紛れて静謐な軌跡を描き、その瑛刃は吸い寄せられるようにユリウスの喉元へ向かっていく。ヘルガとユリウスの距離は数メートル、一足では詰められないが、二足であれば余裕で足りる程度の距離だ。三足あればなおありがたい。ヘルガのような平均的な身体能力の凡人でも三足も踏めば容易にユリウスの懐に潜り込めるだろう。ユリウスが立ち尽くしたままカカシを演じていれば。


 ヘルガが一足踏み込むと同時にユリウスが杖を掲げる。杖は銀色の蛇へその姿を変えると、ユリウスの手を離れ、名は体を表すが如く蛇行しながらヘルガの両の足首を絡めとった。


 とっさの出来事にヘルガの両眼が数回右と左交互に流転する。ユリウスが放った蛇、それはヘルガの予想を上回る速度で彼の反射神経を超え、右足首に絡みついたその瞬間、今度は左足首を掴み、彼を地面に向かってうつ伏せに倒れさせた。胸部を打たれ、呼吸が苦しくなるヘルガにユリウスは挑発的な物言いで囁いた。


 「どうした?足を取られただけだぞ?」


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