異能殺しⅢ
突如現れた白い巨兵は有無を言わせず、その純白の腕を振り下ろす。
ぐるぐる巻きになったヘルガはその拳をなんとか避けようと跳ねる。わかってはいたことだがさながらノミのように木床をわずかに上下移動するくらいしかできなかった。それを見かねたのか、アルバが彼をぐるぐる巻きにしているシーツをつかみ、手元へ引き寄せた。
白い剛腕が自分の目の前を掠めたとき、ヘルガは心の底から恐怖を感じた。特に剛腕が直撃した後のベッドを見てしまえば自分が当たっていたかもしれない未来を想像していたかもしれない。
いや、そもそもアルバが拘束などしなければそんな恐怖を味わうことはなかったのだが。どこぞの海上リゾートホテルではシャークコースターというサメが泳ぎ回る水槽にダイブする自殺志願者必見のアトラクションがあるらしいが、それと同じくらいの臨場感を味合わせてくれてありがとう、と嫌味たらたらに言いたい気持ちを我慢して、ヘルガは視線をアルバから白い巨兵へと移した。
頭部はチェスのビショップを思わせ、三つの黒い穴が顔の部分に開いている。肩部はルークの上部を半分に割ったかのような肩当てを装着し、腕は手首に近くなるにつれ表面積が大きなり、成人男性の胴体くらいはありそうな巨大な手がなんとも特徴的だ。
上半身はまだ人間味を残しているが下半身はぶくぶくと膨れ上がり、皮膚病をわずらったかのようであり、足の爪先はピエロが履いている靴のように曲がっており、なんとも不気味だ。おおよそ奇抜さをすべて白で統一したかのようなおかしなその白い巨兵は黒い穴から光を明滅させ、ヘルガとアルバを交互に見ているかのようだった。
「対象、ノットパペット、ノットマスケリア。アンダーアレスト」
意味のわからない英語の羅列と共に白い巨兵はヘルガとアルバへ突進してきた。ヘルガを持っていてはかわせないと判断したのか、アルバは縛ったままのヘルガを勢いよく自身の進行方向とは反対側へとぶん投げた。
「おいてめぇ!」
「邪魔なんだよ。ガムテープくらい燃やしてやるから隠れとけ」
言うが早いか、紫色の炎がヘルガめがけて放たれる。その炎を視認すると同時に、いや実はもっと前から熱くなっていた両目が激痛と共に世界を黒く染め上げる。アルバがギリギリかわした白い巨兵は影法師に、紫色の炎は黒い炎へと変化した。
明らかな恐怖、明らかなる絶望、明らかなる拒絶。それが自分に迫ってくるとなればヘルガが逃げようとするのは当然だ。それでも彼が逃げる間もなく、炎がその体にまわり瞬く間に彼を縛っていたガムテープとシーツを焼き尽くしていった。もっともそれで済めば炎なんていう自然の暴威は暴威として認識されない。自分がやっと解放されたとホッとするのも束の間、自分の体にまで火が回っていることにヘルガは気づき、キャーと女子更衣室に男子が入ってきたときのイマジナリーガールさながらの叫声を上げた。
着ていた白いワイシャツの背中が熱くなり、ズボンにまで黒い炎が這うように取り巻いてくる。ふざんけんな、とアルバを呪う一方どうすればとヘルガはパンパンと右手で炎を叩いた。
刹那、跡形もなく炎が消え去った。なんで、と自問自答するが自問で終わり、自答は未答に終わる。それくらいに普通の少年は驚いていたし、このときばかりは周囲の喧騒は聞こえていなかった。だって普通ありえないだろう。なんで手で叩いだだけで炎が消えるんだ?
試しにズボンの炎も叩いてみるが、やはり消えた。それもバシュンというブラックジャックで革製品を叩いたかのような鈍い音を発して。当惑するが答えなんて出ないし、事実だけを受け止めるしかなかった。それでもまだ困惑していた。
そんなこんなで炎が消えたことでわずかに痛みが和らぎ、安堵と困惑が入り乱れる中、文句を言おうとヘルガがアルバに振り返ったと同時に彼の頬を飛んできた炎が掠めた。狙ったんじゃないかと思うくらいには正確であり、頬がジュワリと水が蒸発したときの音を発した。それが血の蒸発した音だとヘルガが気づいたのは鋭い痛みが襲ったときだった。
「逃げてろよ!オレだって万能じゃぁねぇんだ。クソガキはクソガキらしく隠れとけ。もしくは逃げとけ」
自分の周囲に黒い炎を漂わせ、アルバが黒い巨兵と御伽噺さながらのファンタジーな戦闘を演じながらヘルガに警告する。その矢先、黒い巨兵は大ぶりの掴み取り攻撃を放つ。大きな横振りの攻撃を老人とは思えぬ俊敏な動きでアルバはかわし、バク転の要領で一回転し扉のあたりまで退避する。
黒い巨兵は距離を詰めようと一歩踏み出す。その挙動を待っていたかの如く、アルバは指を鳴らした。気取った学士のごとく。
炎が突如として大地が吹き出し、巨兵の体を焼いた。離れていても熱さで溶けそうなほど絶大な熱量の黒い炎を前にして老人の恐ろしさをヘルガは実感する。冗談で殴りかかれば自分もああなると炎の中で悶えているように見える巨兵へ視線を集中させた。
だがすぐに視線を逸らした。どういうわけか巨兵だったり炎だったりを見ていると目が痛む。他のもの、例えば壊れたベッドだったり壊れた石壁だったりを見ていても全く痛くはないのに、眼球の中でサイダーが弾けているかのような圧倒的な痛覚がヘルガを炎の熱さとは別の意味で苦しめた。なにせ炎の熱さとは別に眼球が熱いのだ。それはまるで過剰過動させたコンピューターのように、ブゥーブゥーうなるくらいの熱さだ。
よろける彼だったが、轟音と共に顔をあげた。
「マジかよ」
体から煙を上げながらも平然と立っている黒い巨兵を前にしてアルバが舌打ちをこぼした。即座に彼の手のひらに新しい炎が生成されるが、それを放つよりも早く、巨兵は巨大な右手で彼の襟首を掴み取り、木床に叩きつけた。
瑞々しい勢いに対して響いた音は乾いており、アルバの息を吐く音が響き渡る。それでもなお動こうとする彼を巨兵は引きずり上げ、空いている左手で殴ろうとした。
——そして振り下ろした拳は乾いた破砕音と共に砕け散った。
アルバが持ち上げられたと同時にヘルガは駆け出していた。それは決して彼が老人愛護の精神に目覚めただとか正義の心に目覚めただとか、ヒーローになりたいだとかいう崇高な目的ではなく、アルバが倒れれば次は自分だと理性的に自覚したからに過ぎない。
打算。合理。この二つに尽きる。
すなわちヘルガの右手の拳が巨兵の黒い腕と激突し、力の有無など関係なしに巨兵の腕は崩れ去った。その瞬間、ヘルガの赤熱していた眼球はより一層熱くなり、彼の黒い瞳を赤、緑、青の三色に塗り替える。
突然の出来事に巨兵の何かが狂ったのか、穴から光が点滅する。
「対応。ブロークン。アイ。ロスト。ノンストレングス。アイデンティティ。ロストヒプノ?アンヴィヴァレンツ」
意味のわからない単語の羅列。壊れたロボットのようにひたすらに光子の点滅を繰り返す巨兵が動きを止める中、好機とばかりにアルバが動いた。がっちりと自分を掴んでいる巨兵の右腕を掴んだかと思えば、彼の手のひらから黒い炎が出現し、どういう原理か右腕の中からも同じ色の炎が噴き出した。
内部からの突如の破壊に巨兵は動じ、壁に空いた穴まで退避する。そして再び光子を点滅させ、独特な機械音を体の各部から発した。
「結論。カルネアデス。オブジェクトアンスローター。NAO」
「うるせー黙れ」
一体誰が話し合いは万象を解決すると言ったのだろうか。話し合いの余地すらなく、アルバはヘルガの襟首を掴むと人間砲弾さながらに彼を巨兵めがけて投げつけた。突然のことでヘルガは絶叫することすら忘れ、右手を黒い体めがけて伸ばした。
バシュンと乾いた音が鳴り響く。
それは彼の中の異能殺しが眼前の敵を叩き伏せた音に他ならない。異能殺しが触れたと同時に巨兵の胴体部分は消失し、その頭部が木床を跳ね、下半身が糸が切れたマリオネットのように倒れ伏した。
「殺す気かよ!」
「死んでねーからいいじゃねぇか。てかこのやりとり何回目だ?」
「二回目だよ!」
力の行き場をなくしたヘルガは思いっきり壁の穴から外へと放り出される。哀れ、少年は真正面から芝生と土にファーストキスを捧げることになった。口内を茶色と緑に染め、アルバに抗議するその姿はまさに道化そのもの。奇抜なファッションの自称環境活動家が伐採業者にまさかりを振り上げているかのようで滑稽だった。
そんなヘルガを圧倒的に無視し、アルバは巨兵の頭部を拾い上げた。大体ボーリングの球くらいの大きさのそれをアルバは興味深そうに様々な角度から眺めるが、それを見ていてもつまらないとヘルガは文句を垂れる。
なんだったんだ今の巨兵は。なんだったんだ僕の力は。なんだって言うんだこの世界は。なんなんだアルバが起こした炎は。
そんなパーキングエリアを出る都度わめく三歳児のようなとりとめのない疑問、質問あるいは愚問の類がそれはもう色々とヘルガの口から行進していくる。それこそファンファーレを鳴らすパレードのように騒がしく、だ。
「うるせーなぁ。わぁーったよ。色々説明してやっからとりあえず寝とけ。ってあー無理か。しゃークソ。とりあえず昨日お前がゾンビとバトったリビング行っとけ。そこでレアリティが帰ってくるまでは話を聞いてやるし、聞きたことも話してやる」
「——じゃぁもうなんも話せないじゃない」
間の悪いことに部屋の扉を開け、中に入ってきたレアリティをアルバの失笑が出迎えた。
✳︎