ナイフ・ライフ・グライフ
笑いながらノルガドが手を伸ばす。ヘルガに向かって手を伸ばす。それをナイフで迎え撃とうとヘルガは体勢を低くする。そして前へ向かって飛び出し、すれ違いざまにノルガドの手の筋を断とうとする。勝てない、と最初の戦闘でわかったからこそ、初手で相手の攻撃手段の一つを封じようと走った。
途端、ノルガドの笑顔が歪んだ。途端、ヘルガは彼が笑顔を浮かべるよりも早く、無理矢理に身を翻し直後に地面を蹴った。その刹那、それまではただ黒いだけだったノルガドの右腕部がまるでハリネズミのように無数の棘を発生させた。
地面を蹴ったことが幸いし、ナイフをまだ構えたままにしていたことがなお幸いした。右手首を返し、出現した棘をナイフの線ではなく、面で受けようとする。吸い込まれるように、あるいは吸い込まれてしまうように、ノルガドの右腕から発生した棘はナイフへと向かっていく。そしてガラスの破砕音と共にそれらは暗闇の中へと消えた。
確認するようにヘルガは右手に再び視線を向けるが、ちゃんと赤いタイツと黒い鎧は砕けていない。つまり出現した棘はそれ自体が炎や風のような独立した魔術ということだ。もっともそんなことはヘルガの知るところではないのだが。
ナイフを持つ手に力を入れると、血流が沸き立つ。相手の魔術がどんなものかはヘルガには関係ないが、純粋な戦闘能力は極めて低い。ノルガドの一挙手一投足を見逃すまいと両眼が燃え上がっているのかと錯覚するほどの高熱を帯び、それが全身へと伝い、迫り来る狂気に対して立ち向かわせた。
「あっらぁ。随分と、器用なこと、するわ、ねぇ!」
驚くでもなく、当たり前のように。激昂するでもなく、刺激を感じるように。ノルガドが迫る。再び彼の右手が黒を帯びる。形状は爪。爪のような影法師がヘルガめがけて振り下ろされようとするその刹那、彼とノルガドの間に割って入る影があった。
ガキン、と鉄と鉄がぶつかり合う音が鳴り響く。影の正体はラスカーだ。影から取り出した黒い鉄パイプを振るい、ノルガドの爪を受け止めた。否、受け止めたのではない。相殺したのだ。黒い軌跡を描き、斜め左下側から斜め右上にかけて振り上げられた鉄パイプは一瞬の拮抗の末、ノルガドの爪を跳ね上げた。
ヘルガの眼で追うことはできても体は追いつかない一歩上の速度の世界、それはただの一撃であっても容易に力の波動を巻き起こした。その一瞬の拮抗だけを視たヘルガはまずラスカーが受け止めたと誤解し、次ぐラスカーがノルガドの爪を跳ね上げた光景を目にして初めて両者の力が互いに相殺されたことを知った。
「うっふ。ずいぶんと力、落ちてるわね。今のあなたなら殺せそうだわ」
「余裕だな。随分と。こんな鉄パイプしか使わない私では相手にならない、とでも言っているようだ」
「断言はしないわぁ。でも明言はしてあげるわぁ」
「ほざけ」
振り下ろされる両手の黒い爪、それをラスカーが黒い鉄パイプで相殺する。だがそれはあまりにも防戦一方だった。ラスカーの鉄パイプがノルガドに振り下ろされることがないのだ。ノルガドの口角が歪み、一層苛烈に攻めてくる。後ろ姿からラスカーが苦しむ姿が見える。打開しようとヘルガは背中の後側から飛び出し、ノルガドの脇腹めがけてナイフを走らせた。
「あっら。あたし3Pは好きでなくてっよ!」
見越していたのか、それとも単純に反射神経が異常なのか。ノルガドは飛び出してきたヘルガに対してラスカーを攻撃したまま、蹴りを繰り出した。マジか、とそれを視界に収めたヘルガはやや驚くが、それは予想できたことだ。速度においてはあの街のあの凶人に遠く及ばないが、ヘルガよりも身体能力が高い相手の行動パターンを彼が予想しないわけがない。
蹴りが当たる寸前、姿勢を低くし間隙を縫う。そして垂直に構えたナイフをその強固な太腿部めがけてすれ違いざまに交差せた。かすかな抵抗、それを強引に力で突破し、ヘルガは廊下を駆け抜ける。確かな手応えを感じつつ、ヘルガが振り向くと、そこには右足を抑えるノルガドとその体を両肩部を鉄パイプの先端で抑えるラスカーの姿があった。両者の力が拮抗しているのか、それとも右足の痛みで力が出せないのか、鉄パイプを退かそうとするノルガドはしかしラスカーから逃れることはできなかった。
「さぁ、どうする。奥の手があるなら見せてもらおうか?」
「うっふふ。随分と、余裕ねぇ。それともユリウスが気になって気になって仕方ないからさっさとあたしとのダンスを終わらせたいのかし、ら?」
「何か話したいことがあるなら聞くぞ?」
「うっふふ。そりゃ、あるわ、よ!」
直後、それまで退けることすらできなかったラスカーの両手の鉄パイプが握りつぶされた。見るといつの間にか右足の傷は塞がっており、黒い鎧もまた起動していた。
「見せて、あげる、わ!あたしのほ・ん・きぃぃぃぃぃぃぃぃっぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!」
それが人として、あるいは誰かとしてノルガドが発した言葉だった。瞬間的にノルガドが大きくなったように見えた。それが錯覚だとヘルガが認識した時、すでに彼の姿は異形へと変貌しつつあった。
さっきまでそこにいたノルガドの姿がない。暗闇が彼の体の中から溢れ出し、それは首を伝い、腕を伝い、脚を伝い、体全体へと満遍なくまとわりついていく。ボキボキ、ボキボキと骨格が軋みを上げ、ノルガドの体型そのものが変わっていっているように見えた。いや、事実ノルガドの体は変形していた。
ノルガドの体はたっぷり一分をかけて変形していった。人間としての両腕は黒い大きな、大きな爪が生えた腕部に、胴はより太く、しかし猫背に、脚は太く、だがそれは人間が太った程度で成る太さではなく、爪先は巨大な爪が鋭く生えてきた。
黒い影法師、あるいは黒い大蜥蜴。顔が黒で潰れ、狐やトカゲを思わせるほど出っ張り、それは長い首を持っていて、それもただ長いだけでなく、ものすごく長いのだ。大体4メートルほど。尾骨部分から生えてきた不可思議な黒い触手と長さは同じ、天井を破り、落石を避けながらその姿を視界に収めたヘルガの前には巨大な翼なき竜の影法師が現れていた。
「龍鱗武装の最骨頂か」
「なんだっけ?龍と同じ強度を得る魔術、だっけ?」
「そうだ。だが実際のところはそんな魔術ではない。龍鱗武装は本来は神話存在である龍になるための魔術だ。肉体強化魔術と獣化魔術のハイブリット、歴史としては三百年程度のまだ新しい魔術だが、型にハマればこれほど厄介な魔術はない。西洋魔術の基本原理である『模倣』をこれほど如実に表した魔術もないだろうからな」
「てことは今のノルガドは龍になったってこと?」
痛みが走る。尋常ではない痛みが視神経を刺激する。烈火の如き高温が眼球を熱してくる。潤んだ瞳、それは視界をぼやけさせ、同時にキリキリと脳がプレス機で閉めているように締め付けられた。激痛と表現する以外に言葉がない。さながらスパークを発するような、血管が怒張し破裂するような、そんな幻痛めいた感覚に襲われてもなおヘルガはまだ正気を保っていられた。慣れ親しんだ痛みということもあるが、それ以前にノルガド、ノルガドが変移した竜はつい一週間以上前に対峙した「神の成り損ない」よりもまだ与えてくる痛みの質は低かった。
痛みの質だなんてマゾヒストめいたことを考えている自分に嫌気が差す。だが事実として今まさに対峙しているノルガドの脅威レベルはあの腐れ野郎よりも低いことは事実だ。なんと形容すればいいのか。ひりつく怖さが目の前の黒い竜には欠けていた。
「いや、違う。そう。違う。アレは龍じゃない。竜だ。龍に足るエネルギーを内包していない龍の下位種だ」
その感覚を裏付けるようにラスカーが警戒の眼差しでつぶやいた。すでに鉄パイプは影の中に消え、代わりに警察署の遊戯室に飾られていた刃を潰した大剣が握られていた。思えば随分と影の中に仕舞い込んでいた気がする。多分自分が見ていない部分でも影の中に色々と仕舞い込んだのだろうな、とヘルガは冷静に今のラスカーの戦力を分析しつつ、目の前の竜とどうやって対峙するかを考え出した。
リーチという意味でヘルガとラスカーは大きなハンデを負っている。未知という点でヘルガとラスカーは大きなハンデを負っている。既知という点でヘルガとラスカーは大きなハンデを負っている。二人の目の前にいるのは裕に10メートルを超える巨大な竜だ。首をもたげさせ、五階建ての薬品工場を破壊し、階段も破壊し、左右の部屋も何もかも破壊して、それは立っていた。
大きさという点ではほぼ昨夜の怪物と変わらない。二人がかりで、しかもラスカーが万全な状態ですら攻めあぐねたあの怪物と同じ大きさというだけで戦意はダダ下がりだ。戦うことすら馬鹿馬鹿しく感じられる。
「でもあれを突破しないとユリウス・カリオストロのところに行けないからなぁ。仕方ないよな」
「それなんだが、ヘルガ。一つ作戦がある」
ぜひ聞こうじゃないか、とヘルガは首をラスカーへ向けた。
「恐らくだが中央棟、左右棟含めてユリウスの施設は上階にはない。あるとすれば地下だ。少なくともあのノルガドが所構わず施設を破壊しているのがその証拠だ。地下駐車場だってあるんだ。少なくともなんらかの空間はある、はずだ」
「それで?」
「私があれを全力で足止めする。その間になんとしても地下への通路を探せ。恐らくは地下駐車場を避ける形で地下室はあるはずだ。ならば建物の左側、カフェテリアなんかがあった位置にある可能性が高い」
ぐずぐずと迷っている時間はヘルガにはなかった。踵を返し、ヘルガはまっすぐ背後の廊下めがけて走り出した。背中越しに聞こえるのは竜の咆哮、対応するように大剣が空を切る音が聞こえてくる。そしてラスカーの声が聞こえてくる。
「——さぁ、ここからが竜退治の始まりだ。聖剣もない。聖鎚もない。聖槍もない。だがそれで十分だ。十分すぎるんだよ、クソッタレ」
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