豚狩り
脱獄、もとい格子扉をただ蹴り倒して牢屋から脱出したヘルガとラスカーは劇場通りを走っていく。ガシャ、ガシャーンというけたたましい音が格子扉を蹴り倒した時に激しく劇場通りを反響するが、二人の脱獄者は気にする素振りをみせない。
二つの影が目指す先は劇場通りを見渡す位置にある監視所、普段から警官が一人は駐在している円筒状の小部屋だ。等間隔に吊るされた天井の照明しか光源がないため劇場通りは暗く、監視所からでも近寄ってくれないとはっきりと見ることはできない。しかしそれも換気用の格子窓から差す橙色の陽光で劇場通りが照らされることで解消される。つまり、今の監視所からはラスカーを先頭に突っ走ってくる二人の姿が丸見えなのだ。
——だがそれを気にする二人ではない。
「うおおおおおおお!!!!!!」
猪突猛進、その言葉通りにヘルガとラスカーはなりふり構わず、監視所目掛けて疾走する。慌てる警官、しかし彼が非常用の鈴を鳴らすよりも早く、ラスカーはショルダータックルを監視所の薄い窓へと食らわし、今まさに緊急事態を知らせかけた警官の顔面に彼の体当たりが命中した。重力の法則に従って狭い監視所の中に大の大人二人が体を倒していく。やや出遅れたヘルガが割れた窓から監視所を覗き込もうとすると、完全に白目を剥いた警官と、それをカーペットのように全体重を乗っけているラスカーの姿が覗き込むまでもなく視界に入ってきた。
傲岸不遜にラスカーは衣服についたガラスの破片やほこりを払っていく。その様子をヘルガが無表情で見ていると監視所の奥、つまり警察署の方から複数人の足音が聞こえてきた。監視所のガラスが割れる際にそこそこ大きな音が鳴ったからその音を聞きつけてきたのだろう、とヘルガは予想し憐れみの眼差しでラスカーを見つめた。ラスカーの行為は無駄だったわけだ。失笑もしてしまう。
「どうするんだよ。わらわら来るぞ、青帽子!」
「大丈夫だ。奴らが階段から降りてきたと同時にほの、あ」
刹那、黒い粒がラスカーの頬をかすめた。肌をかすめた時、ジュっと火種をもみ消すような音が発し、監視所の柱にそれは跳ね返った。くるくると宙で回転し、ヘルガが足元に落ちた粒を拾い上げるとそれは先端が潰れた弾丸だった。威嚇目的かな、と淡い希望をヘルガは抱くが、直後彼の期待を裏切るかのように階段の方から無数の発砲音が聞こえてきた。
「うぉ!!」
「やば」
弾丸を避けることなどヘルガはおろかラスカーにもできない。ヘルガは劇場通りへ、ラスカーは監視所へ引っ込み、弾丸の雨をやりすごす。しばらくすると弾丸が切れたのか、発砲音が止み、二人はそっと物陰から顔を出す。
そしてすぐに二人は顔を出したことに後悔した。階段の方角から拳銃を構えた青服の警官達がジリジリと近寄ってきていた。彼らは一様に胡乱げな表情を浮かべ、両手で銃を構えたまま一歩、また一歩とその足を進めてくる。その後ろから隠れるようにカーキ色の肉塊が近づいて来なければ二人が顔を出したことを後悔することはなかっただろう。そう、贅肉の塊ことルードヴィヒ・ヴァルハインが唇をぷるぷるとゼラチン質のデザートか何かのように震わせてこちらに近づいて来なければ。
現行犯逮捕に次ぐ脱獄未遂犯逮捕というさながら刑事ドラマでありそうでなさそうな極めてレアなイベントに心を震わしているのか、それとも絶対的に自分は優位な立場にいることに感極まっているのか、あるいは狩猟の楽しみからくる武者震いか。いずれにしても人間の衣服をまとった豚畜生が文字通りの木偶人形の後ろに隠れている姿はシュールの極みであり、有り体に言えば気味が悪かった。
だがそれはそれとして危機的状況にあることは否定できない。拳銃なんぞ反則もいいところだ。いくらラスカーの身体能力が優れていようと銃相手では相手にならない。
「炎とか風とかそういうのでなんとかできない?」
「私の魔術は四大属性には寄っていない。魔術師ならみんな炎が使えるわけじゃない」
「使えねぇ!」
「私を万能と勘違いした君の敗因だ。言っただろう。今の私はそこまでの魔術師ではない、と」
「じゃぁあれだ。あの影から出てきた黒い奴。あれでどうにかできない?」
廃城の地下でラスカーの影から飛び出してきた影法師、あれがどのような存在なのかをヘルガは知らないが、間違いなく人外のそれであることは視ただけでわかる。しゃべっていたところを見るに最低でも人間レベルの知性も持っている。加えて驚異的な靱性を持つあの影法師が銃弾程度に臆するような貧弱な存在であるようにはヘルガには見えなかった。
それを期待しての発言だったが、ラスカーは小さく首を横に振った。
「私のアレは銃撃戦には向かない。業腹だが遠距離戦に向いていないんだよ、私は」
「じゃぁどうやって。あ、そういやその警官って拳銃持ってる?」
「ちょっと待て。お、持っているぞ。弾丸もちゃんと入っているな。なんだここの警官は。普通は持ってないぞ、こんなもの。メリケンの汚職警官じゃあるまいし」
「使い方わかる?先に言っとくけど僕わからない」
「いや?私も知らない。だが弾丸だけあれば十分だ」
ラスカーの発言にヘルガは失望を覚えたが、その直後の発言に片眉を上げた。拳銃の弾倉を引き抜き、ラスカーは一つ一つ弾丸を抜き取っていく。そして弾丸の尻にあたる部分を親指で圧迫させると、人差し指、中指で弾丸を挟み、近づいてくる警察官めがけてそれを構え、尻を思いっきり親指で弾いた。直後、爆音と共に弾丸が飛んだ。勢いよく軌跡を描き、親指で弾かれただけとは思えない速度で弾丸は飛び、数秒と経たずに警官の一人の肩口から鮮血がほとばしった。
その光景にヘルガが呆気に取られる中、次々とラスカーは弾丸を指で放っていく。次々と放たれるそれは瞬く間に警官達の肩や太ももといった急所ではないものの、当たれば行動不能になる部位を射抜いていき、気がついた頃には階段側で立っている人間はルードヴィヒのみとなっていた。
おずおずと劇場通り側から出てきたヘルガは何をしたの、という動揺の眼差しをラスカーに向けた。するとラスカーはこともなげに「雷管を弾いただけ」と答えた。曰く弾丸の爆発力の方向を操作しただけらしいが、そんなことが普通の人間にはできない。つくづく魔術師ってのはふざけてるな、とヘルガは思いながら痛みで銃を持てなかったり、大腿部を抑えて苦しんでいる警官達へ視線を向ける。
硝煙の匂いと血の匂いが混ざり合い、思わず鼻を抑えたくなる異臭を放つ中、どこか嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をくすぐった。糖類の匂いがかすかに混ざっていたせいですぐにわからなかったが、少し近づきその匂いの正体がわかったとき、うへぇと密かに思いながらヘルガは顔をしかめ、その匂いの根源へ嘲りの眼差しを向けた。
匂いのもと、ルードヴィヒ・ヴァルハインは腰を抜かし、両腕をわなわなと振るわせて自分を見ている、自分だけを見ているヘルガとラスカーに明らかに怯えていた。彼の履いているズボンがしみで汚れるほどの怯えよう、それはまるで豚が人間に戻ったかのようだった。
「癪だよな〜」
「何が癪かは知らんがその辺から拳銃を取ってきてくれるか?この豚野郎を脅すのに使う」
言われるがままヘルガは廊下に落ちていた拳銃を一丁拾い、監視所から出てきたラスカーに手渡した。また弾倉でも抜くのかと思ったが、今度はちゃんとグリップを握り、引き金に指を添えた。スライドを引き、ゆっくりとした動作でラスカーは銃口をルードヴィヒへと向け、そのぱさぱさと感想した頬肉にこれでもかと押し当てた。
「さて、署長?いろいろと聞きたいことはあるがまず一つ、答えてもらおうか?——ユリウス・カリオストロはどこにいる?」
銃口をゼロ距離で押し当てられ、しかも相手が見境なく撃つ相手だと知ってしまったルードヴィヒはしかし嗚咽以外の何ものもこぼせなかった。乳飲み子のように咽び泣き、鼻水をすすり、喉を鳴らすその男はとてもつい昨日、あるいはつい今日の昼方まで傲岸不遜な態度を崩していなかった豚野郎とは思えない惨めさだった。しかしラスカーはお構いなしに発砲する。弾丸はルードヴィヒのこめかみをかすり、床にめり込んだ。立ち上がる硝煙にルードヴィヒの両眼は汗ばみ、ガチガチと歯を鳴らした。
「言葉をなくしたか?私は難しい質問はしていないんだがな。それとも考える脳みそもなくなったか?」
「いy、あいやあ。そんなことはなぁい、いいい。こた、答える。答えるから。ちょっと待って」
「ほら早く話せ。お前との会話なんて退屈なもん、さっさと終わらせるに限る。誰もがそれを望んでいる」
「わか、わかった。そう、そうだ!ユリウス・カリオストロは廃工場にいる。例の廃工場だ。わかるだ、わかるだろう?」
なるほどなるほど、と呟きながらユリウスはしかし銃口をルードヴィヒから逸らすことはなかった。彼が逃げ出さないように、抵抗しないように左足で腹部を踏みつけ、右足を左手首の上に乗せ、ゆっくりと体重をかけてゆく。唯一使えるのは右手だが、それすらも動かせば風穴が自身の頭に空くことがわかっているからか、ルードヴィヒは動かすことはなかった。
「じゃぁ次の質問。お前はどこまでこの街について知っている?そこの警官達が何かも知っているのか?」
「知っている?何を?あいつらは、あいつらは私の部下、そう部下だ!大して役にも立ちしないが」
「最後の質問。ユリウスとお前の関係は?」
「た、ただ!ただのビジネスパートナーだ!だから助けてくれ。死にたく、死にたくな」
もういい、とラスカーは銃でルードヴィヒのこめかみを殴り、気絶させた。殺さないだけまだ温情をかけた方かもしれない。あるいは公的な身分に就いている人間を殺すと面倒だから、という打算もあったのかもしれない。サッカーボールを蹴る要領で劇場通り内の牢屋にルードヴィヒをぶち込んだラスカーは最後、なけなしの弾丸で立ちあがろうとした警官達の大腿部を撃ち抜き、こちらを追うことができないようにした。
「責めないんだな」
「責めても僕には何もできないからね。それに、なんていうか。この街は嫌いだからさ。この街の住民もそりゃ嫌いになるよ」
割り切った返答をラスカーは鼻で笑う。そして二人の脱獄者は颯爽と警察署からの脱出を遂げた。
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