無双戯画
爪先が鉄格子を、そう無機質に無表情に無個性に縦に下ろされた鉄格子の表面を伝っていく。胡坐をかくヘルガが無造作に伸ばした右手はそう伸ばして間も無く、鉄格子にぶつかり、意味もなくいずれの思考もなく、鉄格子の表面をなぞり、カン、カンと爪と鉄格子がぶつかり合う音を劇場通りとも形容すべき無味無臭で伽藍堂の拘置所内に響かせた。
ハープを奏でるが如く、何度も左右へ謳うように右手を動かし、そして大いにため息をつく。さながら惰眠を貪るカカシ小僧のように、ヘルガ・ブッフォは盛大に臆面なく、すべてを諦めたようにため息をついた。
時刻は夕刻、牢屋の天井近くに取り付けられた鉄格子がはまった換気用の窓から橙色の灯りが首筋に当たり、ジリジリと痛む。かゆいと言ってもいい。牢屋に入れられた時点で手錠は外され、手足の自由は保証されているが、しかして行動範囲は限られ、当のヘルガには牢屋から抜け出す術はない。つまり詰んでいた。この上なく、見事なまでに。
ヘルガ・ブッフォは所詮ただの人間だ。手から炎を出すことができるわけでも、鉄を切断する空気の刃を作り出すことも、あるいは鉄格子を引きちぎる怪力があるわけでもない。こういう何の変哲もない、有り体に言えばどこにでもある牢屋に閉じ込められる方がヘルガには一番効く。あの豚野郎にそんな知恵があったかどうかは知らないが、今の状況では確かに妙手と言えた。
「で、僕はいつまでこうして鉄格子ハープを奏でてればいいわけ?」
長い間手を伸ばしていると主に二の腕が疲れてくる。二の腕を包むように重石が乗っかっていくような感覚と共にそれまで水平に伸ばしていた肩が何もしていない、自分の意志と反するにも関わらず、自然と垂れ下がっていく。まるで使い古されたプラモデルのように、プラスチックが摩耗したように、活力なく。
ヘルガはジト目でしおれた右手を一瞥し、一拍も置くことなく視線を左へズラす。壁一枚隔てた向こう、自分と同じように捕まっているであろう落ちぶれた舞台俳優のような容姿の男、ラスカー・タルシュ・ラフォーラントならばこの状況を打開することは造作もない。その男がこうも静かに自制している理由があるのではないか、と思いヘルガもまた暴れることなく大人しくしていたが、すでに半時間は経過している。何か狙いがあるにしても説明くらいはしてほしいと思った。
「なぁラスカー?」
「別に出たいならば出ればいい。問題はそれをしたところであまり意味がない、という点だ」
静寂に焦れてヘルガが再度呼びかけると、ややめんどくさそうな語調でラスカーが返答した。その意味がわからずシドが「どゆこと?」と聞き返すと同じ語調でラスカーは答えた。
「私達の目的はドロシー・ジューローゼの奪還、あわよくばユリウス・カリオストロの打倒することだ。そして今の私の個人的な見解によるとそいつは難しい。私は私の魔術のタネを景気良く使ってしまったからな」
「魔術のタネ?魔術ってのは瘴素ってのがあればいくらでも使えるんじゃないの?」
「極めて単純な、そうそれこそ焚き火を熾すのに必要な魔術くらいならな。私の魔術は道具を使う。道具と言ってもナイフや懐中電灯、まぁ色々だ。とにかく人間が作ったものであればすべてが私の魔術の適用範囲になるが、とにかく今はそのストックを切らしている」
魔術師というより手品師だな、とラスカーは自重気味に説明する。ヘルガからすればちんぷんかんぷん、何言ってんだこいつといった話ではあるが、わからない部分がないわけでもない。魔術に詳しくない、というだけで別にヘルガの地頭はそこまで悪いものでもないのだ。
つまり一言で言えば今のラスカーは役立たず、ということではない。彼が得意としている魔術が使えないだけでそれ以外は使えるということではないか。
「だったらまだ勝機はあるだろ。僕の右手があれば」
「そう。それだ。まだ勝機はある。だがその勝機はあまりにか細い。有り体に言えば可能性が低い。私達の敵がユリウス・カリオストロ単品ならば問題はなかったが、向こうにはノルガド・デラ・ロベルスクがいる。戦闘能力で言えば万全の私よりは劣るが、今の私とならば軍配は向こうに上がる。あれと戦っている間に逃げるぞ、ユリウス・カリオストロは」
「そんなこと言われてもね。僕としてはさっさとドロシーを助けてこんな田舎からはさっさと帰りたいんだけどね。ぶっちゃけこの街のことを考えるとまともな裁判を受けるかどうかも怪しいし」
「まぁいざとならば男二人が逃げ出せるくらいのことはしてやる。その程度は造作もない。その後にどうするかは君次第だがな」
「わかった。じゃぁさっさとドロシーを助けに行こう。さすがに大の男が二人いて女の子一人を助けられませんってのはちょっとかっこ悪い」
それは決定事項。目的に沿った目的そのものだ。考えなしだとか、思考停止だとかではなく、単純に考えるまでもないことだ。「走行する電車の進行上に女の子一人と男女のペアがいます、どちらかしか助けられません、どちらをすくいますか」のような頭を悩ませる質問ではなく、「あなたの目の前に毒に苦しむ人がいます、解毒剤はあなたが持っています、打ちますか、打ちませんか」というくらいにはシンプルな問題だ。ほら、考えるまでもないだろ?
勝てる、勝てない。苦労する、苦労しない。逃げる、逃げない。手こずる、手こずらない。そんなものはどうでもいい。どうでもいいからとっとと救いに行くべきだ。そうでなくては色々ともやもやする。こんな隣国の片田舎まで来て手ぶらで帰るなんていう思考をヘルガ・ブッフォは持ち合わせてはいなかった。
勝てなくてもやるんだよ。苦労してもやるんだよ。逃げてもやるんだよ。手こずってもやるんだよ。だってそうしないと自分で自分を信用できなくなる。肯定できなくなる。すごい奴だと思えなくなる。他人からの期待だとか称賛だとかそんなものはどうでも良くて、ただただ自分の自己肯定のためにヘルガ・ブッフォはドロシーを救うと決断した。その様をまざまざと見せつけられたラスカーは何がおかしかったのか、それまでヘルガの前では見せたことない快晴の笑い声を上げた。
「くっははははははははは。そうか。そうか。そうだな。それもそうだ。そもそも巻き込んだのは私だ。私が君を巻き込んだ。君の歪な日常を壊してやった。その責任をまだ私は果たしていなかったな。魔術師としての実力ばかり気にしていて肝心なところで君への責任を忘れていた。私が動くには十分な理由だ」
「そうだよ。僕を巻き込んだのはラスカーお前だ。僕はまだお前を許していない。だからラスカー、僕の望みを叶えてくれ。ドロシーを救い出し、ユリウス・カリオストロを殺させてくれ」
そして、そしてそうなった時。
「僕はお前のことが少しだけ許せるようになるかもしれない。責任の一端を果たすことによって」
その宣言と同時にラスカーは立ち上がり、無造作な仕草で鉄格子の扉を蹴りつけた。刹那、シャーンというシンバルを落としたような音と共に扉は向かい側の牢屋に跳ね返り、くるくると回転しながら牢屋と牢屋の間の通路に落ちた。
「さぁ脱獄だ。そしてさっさとユリウス・カリオストロをとっちめに行くぞ」
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