拘束
城から出ると太陽がわずかに西側へ傾き、仮面雲一つない無貌の空が群青と水色のコントラストを描き、わずかな淡い橙色の陽光が光輪を広げていた。12月の寒風が颯爽と吹くと同時にかすかに空に浮かぶ波状の陽光が揺れ、それが首筋を伝うと背筋が震えた。
寒さから気を紛らわそうと廃城がある丘からリッドヴィーム市へ視線を向けると、はるか山の向こうにまで視界が及び、一際白楊を思わせる霧煙が濃くビロードのように裾野まで広がっていた。やはり規模としてはそこまで大きい街ではない。廃城のかつての荘厳さを思えば分不相応だ。西日を受けて輝いている今という時間帯であってもその評価は変わらない。小汚い浮浪者がいくら着飾ったところで生来の下品さを拭い去ることはできないのだ。そんな場所に建てられた城がまともな最後を遂げられるわけもなかった、という話だ。
「ひどい言い草だ。君だって似たようなものだろうが」
「僕だってひどいことを言ってると思ってるよ。でもさ、あんなものを見せられた後じゃぁね」
あんなもの、地下で見つけた龍の遺骸の成れの果てとも言うべきあの巨木はさんざん使い潰された挙句、静かにその生涯を終えた。巨木を地下に隠した魔術師達もそれをわかっていて、ただのサンプルとして保管するにとどまっていた、と杭一つ打たれていない表皮を触りながらとうとうと語っていた。少なくとも倫理観がおかしい魔術師の方がまだまともな保管意識を持っていたなどラスカーからしても珍事なのだろう。説明している時のラスカーはなんとも言えない微妙な渋面を浮かべていた。
魔術師にも渋面を浮かべさせるなんて一体どんな扱いをしてきたのか、想像するだけで恐ろしい。生殺し、あるいは精神的苦痛のあらんかぎりを尽くしたことは傷一つない樹皮を見ればなんとなくわかるが、詳細まではわからない。とかくひどい扱いをしたんだな、と残っていた魔術師の地下基地にある資料を確認したラスカーの講釈を聞き流していたヘルガはそう解釈した。
「まさに血牛に群がる種牛ってお−いちょっと待ってって」
そんなヘルガの気もそぞろな中、ラスカーはすでに山下りを始めようとしていた。それを呼び止めようとヘルガは足を一歩踏み出すが、しかしその一歩はただの一歩のままにとどまった。代わりにそれまで坂道の上端だけを見ていた視線がわずかに下部を向いた。
「おぃやぁ、おぃやぁ?なんともまぁ随分と奇遇ですなぁ」
豚だ。豚だ。豚だ。そう紛れもない豚だ。豚舎に行けばいつでも会える豚だ。その大小便は肥料と硝石以外に使える用途はなく、その肉をアラビアンナイトの世界にぶん投げればレッツ焼肉パーティーならぬレッツ人肉パーティーを繰り広げる程度にはヒャッハーな産物、とどのつまりは永劫に争いの種だ。無論、宗教戦争を始めようとするならば、だが。
つまり何が言いたいかと言えば豚の具現化、豚の化身、豚の王様ことヴィクトール・ヴァルハインことリッドヴィーム市警署長様が左右に十人からなる警官を率いて悪辣というべきか、意地が悪いというべきか、とにかく人間にしては醜くて下卑た笑顔を浮かべ、腕を組みガニ股で立っていた。カーキー色のガウンを羽織った豚男はぶひぶひと鼻息を荒くして、これはしたりと言った表情で大股でラスカーに近づき、その目の前で歩を止めると右手のポケットから銃器を取り出し、その下腹部に銃口を突きつけた。
「ヴァルハイン署長。これは一体どういうことでしょうか」
「ふむ。実は近隣住民から騒音がする、と苦情があってな。それの調査に来たのだが、どうやらその必要はなかったな。まさか主犯と共犯者を現行犯逮捕できるとは」
あながち間違いでもなければ言いがかりでもないことがたちが悪い。廃城の管理所を壊したのは誰か、廃城の一階部分、より具体的には玄関ホールを壊したのは誰か、と問い詰められればそれはヘルガの視線斜め左先に立つ男だ。後ろ姿だけで表情はわからないが、内心は冷や汗をかいているに違いない。
誇らしげな表情でこちらを見上げるように腰を低くし、じゅるりと舌舐めずりをするヴィクトールはさながらリズムでも刻むようにラスカーの寛骨の付近を銃口でコツコツと叩く。その姿をわずかに離れて見ているヘルガでも背筋の震えが止まらないのだから、間近で直視しているラスカーは一体どれほどのおぞけを味わっているのだろうか。こればかりは同情を禁じ得なかった。
「現行犯?この私が。一体なんのことかわかりませんな」
「ほぉほぉ。ではこちらの惨状はどう説明なさるので?」
無理矢理ラスカーを振り向かせ、ヴィクトールは廃城の方へと歩を進めていく。ヘルガも彼の部下に背中を押される形でその実況見分とも言える行動に同道した。廃城の前に立ち、ヴィクトールは崩れた玄関ホールの床を指差し、にまにまと得意げな笑顔を涼しげな表情を浮かべるラスカーにキスをするかしないかの間近に近づけた。
「これは、お前等がやったことだろう?少なくとも一昨日まではこんな風にはなってなかった、と私は記憶しているが?」
「さて。なんのことだか。これは老朽化によるものですよ。私達が廃城を訪れた時にはすでに崩れていましたよ?」
「何を言うかと思えば。そんな冗談は通じんよ。お前らは城へ入る許可を得ていないではないか。それどころか貴様らは管理所を襲撃し、そこに常駐していた職員に暴行を働いた、という証言が出ているが?」
「なんと。あの場所にそのような人間がいたのですか。扉を叩き、中に入ったが誰もいなかったのでてっきり無人かと」
「はぁ。残念だな。おい、お前ら。この二人を警察署の牢にぶちこんでおけ」
これ以上の口論は無駄だと悟ったのか、それとも自尊心を保ったままでいたかったのか、早々にヴィクトールはラスカーとヘルガの手首に手錠をかけた。思いのほかラスカーは抵抗することもなく手錠をかけられたので、ヘルガもそれに倣う。手錠をかけられた際に魔術でも付与されているのか、とも思ったがそんなこともなかった。代わりに内ポケットをまさぐられ、アーミーナイフを奪われた。その際に金髪の豚がこれはしたりとばかりに顔を近づけ「なんですかな、これは」と詰め寄ってきたが、護身用ですよ、と一点張りでヘルガは誤魔化そうとした。
もっともそれは「おい、そういえば暴行を加えられた者には刃物による傷もあったな?」とか言うマジもんの言いがかりによって意味をなさなくなった。より具体的にはさらに面倒臭い状況になってしまった。
「これはより一層貴様らへの嫌疑に拍車がかかったようだな。まったく、世の中はわからぬものだ。このような年端もいかない小僧が刃物を持ち、人を傷つけるなど考えただけで恐ろしいことだからな」
意地の悪い、気味の悪い、底意地の悪い笑みをより一層強調させ、にまにまと笑顔が抑えられないヴィクトールは嫌らしい手つきでヘルガとラスカーの背中を押し、彼らを自分の部下へと預けた。そしてそれから三十分も経たない内にヘルガとラスカーは仲良く警察署内の拘置所に収監されてしまった。
✳︎