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愛しています、死んでください。  作者: 賀田 希道
停滞トランジット
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星空の下、僕は彼女と出会った

「私はあなたを愛している。例え世界中の全人類を殺してもあなたを手に入れるの」


 それはデイルアート市を舞台に繰り広げられる時間の戦い。四柱の妄想の産物の先、絶対的なる時間の支配者は君臨し、殺し屋、死神、魔術師は都市を解放せんと縦横無尽に駆け回る。


 ただ一つのものを手に入れたい思いは同じであるはずなのに、決定的に両者の思いはすれ違う。これは嫉妬、義憤、憤怒、堕淫、愛欲、悲哀の感情が入り混じった物語。時間の支配者の悲恋の物語。


 

 少年はナイフを持って闇夜の市内へ躍り出た。


 軽やかに踊るように、普段被っている理性という名の仮面を放り捨て、自由を謳歌した。


 ガス灯を模した街灯が敷かれた歩道を疾走し、車道を横切り、民家を縦横無尽に駆け回る。深夜の車道を通る車はなく、彼が周りに注意を払うことはない。学校のダンスの授業で習ったワルツを足取り軽やかに踊り、ステップに合わせてナイフが弧を描く。


 街灯の鈍い光に照らされて、刀身はオレンジ色に光る。月ひとつない夜は街灯の灯りがよく映える。真下だけをオレンジ色に照らし、さながらスポットライトのごとく踊る少年を照らし続けた。誰を傷つけるでもなく、夜のひとときの自由を謳歌する少年は、陰惨な笑みをたたえてナイフを振り回し、振り回し、振り回し。


 ちょうど街灯の近くに現れた赤髪の女を目に留めた。


 とても綺麗な、筆舌つくしがたい美しい女性だ。飾り一つつけない赤いロングストレートヘアー、瞳はスピネルを削ったかのような怪しげな光を宿している。白砂のごとき柔肌に包まれた無駄な贅肉のない肢体は非常に艶かしく、彼女が赤いドレスを着ているからこそ白い素肌がよく生える。


 歳の頃は10代とも20代とも30代とも見れる。あるいはそれ以上かも。とかく妖艶にして異性の心筋をなでる美しさの彼女は、闇夜の中にあってでさえその美しさが失われることはない。むしろ闇の中のたった一つの光にさえ感じられた。


 彼女を見ていると心なしか胸が熱くなっていく。石火の滾りが少年の心の中で発火した。おもむろに彼は双眼で彼女を見据え、その肢体を舐めるように観察した。


 まさに美としての究極系がそこにはあった。これまで出会ってきたすべてがミジンコか出来損ないの腐ったじゃがいものように感じられるほどに彼女は隔絶していた。ああ、これほどの存在があったのかという感動とそれを味わいたいという欲望が交互に押し寄せ、舌の裏から涎がだらだらと溢れ出る。


 その意識がもし自分に向けられたのならもうダメだ。抑えなんて効くわけがない。アイドルのライブに行き、目が合ったと喚き散らしてステージに上がろうとする頭のおかしな人間のように、興味の対象から意識を向けられることはすなわちゴーサインと言っても過言ではない。ことごとくにおいて浅慮は道徳と倫理を凌駕し、普段は理性的である人物でさえ狂った野獣の一派へと塗り替える。


 ゆえに月明かりの真下で無防備に首を、素肌を、表皮を、ふくらはぎを剥き出しにして男の情欲を掻き立てる艶かしいまでの彼女の体を隅々まで観察し、その意識が一瞬でもこちらへ向く瞬間を少年は待ち続けた。。待ち続ける中、何度となく生唾を嚥下し、ナイフを握る指を開いては閉じ、開いては閉じを焦れた子供のように繰り返した。


 さながらお預けを食らった犬のように、彼は何度となく体が熱くなっていくのを感じた。鼻息はどんどんと荒くなり、もう九月であるというのに首元が熱くて熱くて仕方なかった。赤熱化した情熱的な眼差しで見つめる彼女はもはや見ているだけで多幸感をもたらし、あれを味わった後におとずれる更なるエクスタシーなど想像できなかった。だからこそ味わいたいと思った。


 もはやそれは姦淫だ。強姦と呼んでも差し支えないかもしれない。少年の年頃の人間が見るにはあまりに刺激的で私慾の心を激しく掻き立てるほどに重厚にして透過的な彼女を前にしてどうして怒張を抑えられるのだろうか。超新星爆発の光日は地球に届くまでに何百倍にも希釈されるものであるはずなのに、それを間近で浴びたかのように雑種雑多な幾千幾万の刺激を凝縮した肢体の彼女は敢えて言おう。情欲の渇きを少年に覚えさせていた。


 彼女を見る目に血が流れ、彼女をねぶる目は細身をおびたり太身をおびたりと安定せず、嚥下する唾をなくし、渇きを覚えた少年の喉は息をするごとにヒョォヒョォと無機質な音をあげて鳴いた。首を伝う汗は止まらず、目は泳がず沈み、彼女の魅力に囚われた少年の意識は浮上しようとはせず、ただ小刻みにポケットの中のナイフの柄を握らせ離しを繰り返した。


 そうやって自分を見つめる少年に気がついたのか、女の視線が彼を射止めた。何かを言いたげに彼女が口を開く。直後、少年は平行移動でもするかのような無駄のない流麗な体捌きで彼女に近づき、その肢体にナイフを突き立てた。


 「え?」


 ナイフが空を走る。空気がいななき、悲鳴を上げる。しかしその悲鳴は目の前に立つ赤髪の彼女には届かなかった。誰がなんと言おうと届かなかった。死を切望する人間が死神の蹄鉄が大地に刻まれる音を聞こえることと対照的に異邦の風は彼女の耳が聞こえるはるか彼方から舞い降り、容赦無くその命に手をつけた。


 瞬く間に少年の凶刃は彼女の肉に食い込んだ。バターを切り取るよりもたやすく、蟻の手足を引き抜くよりも多感情に、しかし冷徹に冷静に心は落ち着いていた。氷と炎が入り混じった相反する心境の果て、ヘルガは彼女の美しくも艶かしい、芙蓉とも月華とも例えられるその肢体を陵辱した。


 それを少年は問答無用で廿一の肉片に変えた。ゼリーをスプーンですくうかのような気軽さで切り裂いた。


 灰色のコンクリートにびっしゃりと赤い液体が飛び散っていく。廿一のパーツがところ彼方へと飛び散っていく。首、頭部、右肩、第二右手関節、右手中指、胸部左乳房、胸板、左腋窩から左を腹部は半月形に、左腕部前腕、左手くすり指、腰部をえぐりとり、左上腕三角筋をななめに、右鼠径部を切る、性器を切り抜き、左転子部に刃を立てる。左膝蓋部から膝窩に向けてを突き抜き、右足首、左踵、左つま先を網の目を縫うように細かく丁寧に切り揃えた。


 刃にべっとりと血がのり、彼女の体がぐちゃぐちゃと肉塊らしい音を立てて街灯の真下に崩れ落ちる。落ちた衝撃でさらに体はつぶれ、ついさっきまでの美しさはなくなり醜い肉塊が散乱した。


 「え?」


 ——驚いたのは少年だ。目が覚めたら目の前に人がバラバラになって死んでいた。手にはナイフが握られ、生暖かい赤い液体が右手にべっとりと付いていた。死屍累々、屍山血河の大通りに少年は立っていた。


 「なにこれ」


 右手と死体を交互に見つめ、少年は小さな嗚咽をこぼした。


 胃の中の内容物が胃酸と共に込み上げてきて、少年の喉奥を焦がしながらそれは口外へと吐き出された。黄色と薄茶色の混合物が泥血の水溜まりにこぼれ落ち、飛沫を上げる。それが途絶えてもなお、まだ喉奥が引き締まる感覚が拭いきれなかった。


 そもそもからして理解が追いつかなかった。いつものパジャマ姿でサンダルを履き、手には血塗れのナイフを握っていて、目の前にはバラバラ死体がある。その字面だけで少年の脳細胞は壊死しかけていた。


 かつて味わったことがない衝撃に彼は理解することをやめた。わけがわからなくて考えることを完全に放棄した。とたんに乾いた笑い声が自然と出てきた。ついさっきまでちゃんと人の形をしていた名前もわからない誰かを殺した後だというのに心は澄み渡っている。昨日までの自分ではない新しい自分に生まれ変わった気分だ。全能感を感じていると言ってもよかった。


 そして全能感を感じたまま少年の意識は閉ざされた。精神がどうあれ、体はストレスで疲弊していた。過剰な脳内麻薬の分泌により、少年の意識は暗い闇の中へと落ちていった。


✳︎

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