首の皮一枚で繋がっています
「違うのよねぇ……」
呆れを含んだ溜息を吐きながら、目の前の美女は金髪に染めた髪を乱して首を左右に振った。
誰も身じろぎすら出来ないほど重苦しい空気に包まれていたセット――――大正時代に実際に建てられていたという、どこか日本的な美しさを残した白亜の洋館を模したその場所で、美女と向かい合っていた黒い振袖姿の女が自身の不甲斐なさに華奢な肩をがっくりと落とす。
裾や肩に散らされた銀糸の織り込まれた幾枚の桜の花びらが、照明の光を弾いて瞬く。
暗雲垂れ込む心とは裏腹に、眩しいほどに輝く衣装が今の彼女――――業界でも悪い意味で名前が知られている女優、本宮 桜にはプレッシャーとなって途轍もなく重く感じられた。
「そんな有様だと貴女また言われちゃうわよ、『顔だけ女優』って」
「……監督のおっしゃる通り、です」
「あぁもう! 違うのよ、あのねここは納得するんじゃなくて、反骨精神を見せるところでしょうがッ」
「受け入れてどうするのよ」と愚痴りながらも、彼女は両手をパンパンと叩き周囲にいたカメラスタッフへ一時解散を指示すると、今後のスケジュール調整を行うためか背広姿のスタッフの下へと駆けていく。
勿論、桜にはその場に残るようきっちりと言い含めて、である。
(どうしよう……)
その様子を見ていた桜は薄く紅を塗った唇を噛みしめようとして、慌てて我に返った。
まだまだ撮影は続くのだ。演技がまともに出来ないばかりか、化粧を故意に崩したとあっては……どれほど周りの顰蹙を買うことか。
ただでさえ今回のドラマの役を桜の所属している事務所が最後のチャンスと意気込んで営業に営業をかけて取ってきたきたことで、方々から不興を買っているのだ。
『あんな顔だけの女優に、若林監督の作品は不相応だ』と。
今彼女が撮影をしている2時間ドラマ……昭和初期を舞台に男女の純愛をテーマとしたそれの脚本家と監督を兼任しているのが、今しがた桜を叱責した金髪美女こと若林 日奈子。
登場人物の心の機微を丁寧に表現することで知られている彼女は、ドラマを作れば局始まって以来の視聴率を叩き出し、映画を作れば邦画歴代一位の観客動員数を記録する等々……所謂ヒットメーカーとしても有名なのだ。
そんな若林の作品に出演することは、名を売るどころか芸能界での成功が約束されたも同然で。オーディションを行わず、自ら声をかけ有名無名問わず役者を集める彼女の目に留まろうと誰もが努力する中、対して実力も無いのに事務所の力で役を得た桜に対し批判が集まるのは当然といえば当然であった。
(だからといって、今更投げ出すことが出来る訳でもないし……これは私にとっての最後の作品だもの)
幼い頃から夢見ていた女優業。中学生の頃に雨宿りをしていた公園でスカウトされてこの業界に跳び込んだまでは良かったのだが……桜には致命的な欠点があった。
――――彼女は極度のあがり症だったのだ。
緊張しやすい性格であることは自分でもよく分かっていた。発表会だけでなく、家族以外の人と会話をすることも苦手だった。しかし、訓練すればそれらは何とかなると信じていたのだ。桜も、事務所も。
けれどいくら場数を踏もうと、人と会おうとも、心配した事務所が専門のトレーナーをつけてくれようとも、何故かカウンセラーを連れてきても少しも改善することはなく自身の意識に反して無口無表情になってしまう。
大根役者を通り越し、最早置物。セットの一部と化す状態の桜が演じることなど出来るはずもなく……いつの間にか女優としての仕事は無くなり、モデル業が主となって早数年。そのモデル業だって、同じ表情しか出来ない桜の需要は年を追うごとに減っている。
潮時、なのだろう。
そう言ったのは事務所の社長が先だったのか、桜が先だったのか。
13歳でスカウトされ、今年で10年目。次の生き方を考えるならば、23歳というのは丁度良い頃合いなのかもしれない。
双方納得の上での円満退社に向け、事務所は桜の引退を華々しいものにするためにメディアへの露出を増やし――――彼女の夢だった、主演を取ってきてくれたのだ。
感謝してもしきれないその恩に報いるため、桜は1年かけて役作りに勤しんだ。
桜が主演を務めるドラマの舞台は明治時代……時の政府の推薦によりドイツへ留学した華族令嬢・桜子がとある茶会で若き青年将校・ヴォイチェフと出会い恋に落ちる。
しかし彼女は国費で留学している身。ドイツに残ることは許されず、学んだことを本国へ持ち帰り、国の更なる発展に尽くさなければならなかった。
折しも力なき国が次々と列強諸国へと飲み込まれていく様を目の当たりにした桜子は、日本で享受していた『当たり前の日常』を守るためには、他国から侮られてはいけないことを……第三国からの干渉を跳ね除けられるくらいに国を強く豊かにすることの重要性を痛感していた。
そして、自分がドイツで学んだ世界最先端の知識やモノの見方が必ず役立つこともまた、確信していたのだ。
さらに華族令嬢である彼女は帰国後、家にとって有益な人物のもとへ嫁ぐことが決められていた。国際結婚など今よりもっと珍しかった時代。彼との結婚は当然家から受け入れられなかった。
青年将校への想いのは狭間で、時代や身分、そして己の役割に葛藤しながら桜子が選ぶ先にあるものは――――
という筋書きで進んでいく物語のヒロイン・桜子は生粋のお嬢様。
内気で人見知り、けれど実は誰よりも好奇心旺盛な彼女。武家の流れを汲むからか、いざという時は肝の据わった譲らない一面を発揮するところがギャップなのだとか……。
あがり症で人見知りな部分のある桜は内気な部分は共感出来たが、基本臆病な彼女に肝が据わる感覚はよく分からない。
さらにご令嬢は文武両道、礼儀作法も完璧でその所作には『流れるように美しい』という形容詞が付いていた。
がさつとまではいかないが、スマホのゲームにはまってからは猫背が気になる桜にとって、ご令嬢・桜子は全くもって未知の領域にある存在。
そのため、1年かけてあらゆる稽古をつけてもらった。礼儀作法に関するレッスンは勿論のこと、合気道や薙刀にはじまる武術や料理、着付け、琴やピアノ(ドイツ留学時に覚えるのだとか……)等々。
おかげ様で指先一つ一つに意識を集中すれば、なんとなくご令嬢に擬態することは出来るようになったと桜自身も思っている。事務所の社長やマネージャーからも太鼓判を押してもらえた。
いざ撮影が始まっても、緊張せず役を演じることが今までよりは可能になり、桜は密かに安堵していたのだ。自信を持つには至らないけれど、なんとか撮影を終えることが出来るだろうと……。
だが、それは甘い幻想でしかなかった。
撮影が進み、件の青年将校・ヴォイチェフとの絡みが出てくると、監督から溜息を吐かれることが増えた。何度もリテイクを要求され、スケジュール通りに進まなくなっていく。
段々と重くなっていく現場の空気を肌で感じながらも、桜にはどうすればよいか分からなかった。
監督の要求しているものは桜にだって理解出来ている。が、それを自分の感情に落とし込めないのだ。
『もっと切ない眼差しでヴォイチェフを見つめなさい。同じ時を生き、目の前で微笑み合いながらもその手をとることが許されない……何より自分自身が許すことが出来ない、その甘美でありながら悶えるほどの葛藤を星を抱く大きな瞳で、ペンダコの浮かぶ細い指先で、そして揺らぎを押し込めた低い声音で表現して』
真摯な若林監督の言葉が桜の胸に過ぎる。
言われたとおりに演技しているつもりだが、何度もリテイクを要求されるということはきっと監督の納得するモノにはなっていないのだろう。
(仕方がない……だって私にはヴォイチェフに対する桜の気持ちがこれっぽっちも分からないんだもの)
桜の生い立ちや頑張っている事柄に今の自分を重ね合わせ、演技することはなんとか出来る。
が。ヴォイチェフを想う、その気持ちだけが全く理解できないのだ。
このヴォイチェフ、幼い頃から武術だけでなくあらゆる才に秀でていた。なんでも簡単に熟せてしまうだけでなく、均等のとれた筋肉質な体躯や冷たいがお人形のように整った美しい顔立ちもまた完璧で、彼がそっと微笑むだけで人々は彼の虜になる。
彼にはこの世の全てがくだらなく、退屈なモノに映っていた。
胸を熱くするモノも、手に入れたくて焦がれるモノも何一つない――――何故なら、全て簡単に手に入ってしまうから。
そんな望まれることを淡々と熟していた彼が出会った、唯一つ思い通りにならなかった存在、それが桜子なのだ。
文化の違いから周囲の誰とも異なる言動をする桜子がヴォイチェフにとっては新鮮で、傍に居る内に気弱な癖に時に矜持高く凛とした一面を見せる彼女の矛盾した部分を好ましく、やがて愛しく思うようになる。
……が、そこに至るまで、ヴォイチェフは基本無口無表情。
日本人男性に比べ遥かにガタイの良い体躯に、ニコリともしない厳めしい顔つきは彫像のように美しくとも――――率直に言って、非常に怖かろう。
まず、威圧感溢れる男に何故桜子が懐くのか。桜には理解が及ばない。
冷ややかな態度を取られても果敢に話しかけていくなど……桜子は勇者に違いない。
(私ならそんな人、怖すぎてさっさと逃げているわよ……)
台本を読む限り、桜子はヴォイチェフのそんな不器用な面を可愛いとすら感じているようで……視力が悪いのかな? もしくは相当の箱入り故に色々と認知が歪んでいるのか。
いずれにしても、桜はヒロインの主に恋愛面の行動原理が理解不能なのである。
しかしこの物語の根幹は、ヒロイン・桜子のヴォイチェフを想う純粋故に真っすぐで切ない感情。揺らぎながら、時に形を変え増していくそれをどれだけ繊細に、丁寧に表現していけるのかにあった。
カメラワークやセリフの言い回し、衣装の一つを取ってもすべてそれに集約している。
桜子そのものである桜だけが表現しきれていない現状に、監督が呆れ、スタッフは焦り始めていた。
白金の懐剣を挟んだ黄糸で織られた帯の上、絢爛豪華な銀糸の翼でしなやかに舞う鶴達をそっと指先で辿り、桜は思う。この鳥のように、何処かへ飛び立ってしまえないかと――――現実逃避である。
そんな彼女の心情を察しでもしたのか、背広組との話し合いを終えたらしい若林監督が俯く桜の背中をバシン、と中々強い力で叩いて現実へと引き戻した。
「ぼんやりしない。時間をあげるから、ちょっと役と向き合ってきなさい……それでダメなら、残念だけれど貴女に役を続けてもらう訳にはいかないわ」
「どれくらい、お時間を頂けますか……?」
「悪いけどスケジュールは押しているの。待てて明日の朝までよ」
きっぱりと言い切られ、桜は慌ててガラス窓の向こうへと視線を遣る。
高く昇っていた日が落ちていつの間にか茜色に染まりつつある世界がそこにあった。
(もう夜来そうなんですけど……ッ、持ち時間もう数時間しかないのに私に何を成せと!?)
いっそこの場でクビを言い渡さ荒れたほうが良いような……と一瞬思ったが、もしかするとこの数時間で奇跡が起こり、何か桜子の気持ちを掴む切っ掛けが掴める、かもしれない。
限りなくゼロに近いそれに、しかし今の桜は賭けるしかなかった。
「貴女は桜子に成るため、私が課した厳しい稽古を最後まで愚痴の一つも言わず完璧に熟してくれた。今まで育ててきたどの女優よりも貴女が頑張っていたことは知っているから……時間をあげる、なんて言葉初めて口にしたわよ」
視線を右に左に忙しなく動かし、いつもより早口で言葉を紡いだ若林は手に持っていた三つ折りのパンフレットを桜の帯の隙間にねじ込んだ。
「あとこれ、この辺の観光名所のマップだから。近くに神社があるみたいよ……時には神頼み、なんてのも良いんじゃない」
気分転換がてら行ってみなさい、と言うだけ言って、若林は呆然とする桜を残しさっさとセットを出ていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送った桜は帯からパンフレットを取り出し、恐る恐る広げてみた。
「……本当にただのマップだ」
若林のことだから、トンデモナイ内容(心霊スポットだったり、えげつない展示品で溢れている資料館だったり)の観光案内マップかと思ったが、この辺りのおすすめカフェスポットだったり、パワースポットだったりが碁盤の目状になった土地に可愛らしいアイコンで表示されている。
若干拍子抜けしつつも何時までも此処に居座る訳にもいかないため、桜は監督から言われた通りにパワースポットの一つ、古の土地神を祭っているらしい神社を目指すことに決め、通りすがりの白Tシャツ姿のスタッフへ声をかけた。
「すみません、私……少し出てきます。衣装は脱いだ方が良いですよね」
「ひっ、あ、桜さん! いっいえいえ大丈夫ですよ、衣装スタッフが今出払ってまして、あの、他のスタッフは脱がせることが出来なくて」
若干スタッフが挙動不審なのは、悲しいがいつものことだ。
桜の顔が無表情なのが恐ろしいのだろう。
(わかる。無駄に整った顔の無表情って迫力あって怖いよね……私だって話しかけられるとビビるよ)
それでも対応してくれるだけで有難い。本来ならスケジュールが押している大元凶の桜へ文句の一つでも言いたいだろうに。
「衣装のことは気にしないでください! それ基本ポリエステルで出来てるので見た目ほど高価ではないんですよ」
「……そう、ですか」
だからといって、この絢爛たる衣装を汚せば……もう方々に迷惑をかけまくっている身は腹を切って詫びるしかないだろう。
絶対に汚さないとの決意を込めてスタッフへ頷き、桜は静かに踵を返してセットを出た。
すれ違うスタッフや演者へ軽くお辞儀をしつつ、マップを頼りに橙色に染まった石畳の道を歩いていく。草履でも靴と同じように歩けるようになったのは、ここ最近の事で。歩く訓練だなんて役に立つのかと思ったが……時間がない今、草履でも素早く移動できるのはとても有難かった。
観光客で賑わう表通りに面して建つ、年季の入った町屋風の土産物屋やカフェテリアを幾つも通り過ぎ細い裏路地へと入る。
石造りの急な階段を着物の裾を持ち上げ、慎重に一段一段登った先。突然開けた視界に、桜は詰めていた息をホ、と吐き出した。
「こんな場所があったんだ……」
こじんまりとして素朴な、それでいて長い年月この地を守ってきたのだろうと思わせる、どっしりとした風格を漂わせる社がそこにあった。
苔まじりの白い玉砂利を踏みしめ、茶けた大繩のかかる石の鳥居を見上げる。
(なんでか鳥居の上に小石が積んでるけど……なんか意味があるのかな)
落ちてきたらどうしようとドキドキしながら鳥居を潜り、数歩先にある手水舎で作法通りに手を清める。そうして拝殿の前に立ち、着物の袂から財布を出して賽銭箱へそっと気持ちばかりの500円玉を。
ちょっと錆びついている鈴から伸びるこれまた埃まみれの縄を揺すって二度のお辞儀。次いで柏手を二回。
願うのは、芸の向上……なにより桜子の気持ちの機微が我が事として感じられること。
だがそんな経験もしていないこと、ある日突然理解することが出来るようになるだろうか?
ぐるぐると考えていた桜は、つい魔がさした。
答えを見つけられない自分に疲れていたのだ。
だから、自分が楽になるお願いを心の内でしてしまった。存外、強く、深く。
(神様!お願いします、桜子の気持ちがポンコツの私にも分かるように……この私に『ヒロイン・桜子のように愛し愛されながら立場や身分の違いから結ばれない』そんな切ない体験を是非とも! させて頂きたいのです!)
他力本願この上ない願いを神様が叶えてくれるはずがあるだろうか――――否、ない。
分かり切ったそれに力なく笑って桜は最後に一礼し、さて次はどこに行こうかと思案する。
「お土産屋さんももう閉まる時間帯だし……こうなったら、このあたりのパワースポットでも制覇するかな」
もうどうにでもなーれ。自暴自棄になりつつ、来た道を戻り鳥居を潜ろうとした時だった。
ふ、と差した小さな影。
なんだろうと思い顔を上げて、小さく悲鳴を上げて反射的に顔を横に倒す。
頬を熱い熱が掠め、砂利に落ちたそれが大きく音を上げるのを桜は呆然と見ていた。
「い、石が落ちてきた……」
予兆もなく、突然鳥居の上に積み上げられていた石が一つ、落ちてきたのだ。
思わずその場にへたり込んでしまったが、天辺の石が落ちたことでバランスを崩したのか、ぐらぐら、残りの石も揺れているではないか。
(や、やばいやばい! 逃げないと、いやそもそもなんで急に……怒ってるのかな!? 自分勝手なことばっかり言うから神様がお怒りあそばされたと!?)
風もないのに揺れる積み石。
パニックに襲われた桜は周囲に視線を巡らせて、自身の帯に挟まったままの白い懐剣に気が付いた。
「こ、これで打ち返せば……!」
掌サイズの石を野球経験者でもない桜が打ち返せるはずもなく、それより張ってでもこの場を離れた方が良かったのだが……普段以上に回らない頭では、これ以外の解決方法が思いつかなかったのだ。
懐剣を袋から引き抜いた桜が、さあこい! と構える。
それにまさか答えた訳ではないだろうけれど、バラ、と崩れた石が次々と落っこちて。
一つなんとか跳ね返し、油断した瞬間。
「……んぐっ!」
視界に星が散った。側頭部が吹き飛んだのではと疑いたくなるほどの衝撃に、体が後方へと沈む。
痛い――――よりも、熱い。
体制を立て直すことも出来ず、砂利の上にべしゃりと背中から倒れ込んだ。
髪をまとめていた簪が外れでもしたのか、サラサラと広がる黒髪が――――目が眩むほどの黄色い閃光が視界を埋める。
(え、黄色……?)
大量のフラッシュを焚かれた時のように、刹那視界が白に染まって、桜は強く目を閉じた。
(なんだろう今の……い、石が爆発したのかな)
どんな危険物を積み上げていというのか、あの社は。
頭も痛いし、チカチカとした光のおかげで意識も飛びそうだ。
それでも手に持った懐剣をぎゅうと抱きしめ、一回、二回とゆっくり瞬きを繰り返す。
鮮明になってきた視界でまず見えたのは、揺れる橙色の炎。
「……はい?」
それはぐるり、桜を囲むように描かれた円に沿って等間隔に配置された蝋燭に灯された光だった。
薄暗い空間。鼻孔を過るのは、何かが焦げた鼻をツンとつく嫌な臭い。
よくわからない液体が散った木目の床の上、座り込んでいた黒いローブを纏った男達……見える範囲では多分5人ほど。
目が合った。飢えた獣のように、瞳孔の開いたギラギラとした目だった。
「×××××!!!!」
何やら一人が野太い声を上げる。言葉として理解できない音だったが、たぶん喜びの類の何かを言っているのだろう。
ドッと笑い声が――――楽しそうではない、怖気が走るような狂った耳障りなそれに、桜はへたり込んだまま後ずさる。
(なに、なになにこれどういう状況、え、もしかしてこれが神様、こんなヤバそうな人なの!?)
「×××……××」
ローブの隙間から見える男の唇がニィ、と歪む。
蝋燭の先から延ばされる腕を桜はただ見ることしかできない。
(く、来るな! こっち来ないで……ッ)
キッチンなんかでお目見えする、あの黒い物体Gを前にした時のように、桜は万年反抗期の表情筋に命じて出来る限り恐い表情を作る。
ビク、と伸ばされた男の赤黒い液体に濡れた(なんの液体かは考えてはいけないのだろう)手が揺れた。
「これ以上近づけば……正当防衛でき、切ります!」
手にしていた懐剣を握り込み、男の前に翳す。鞘から引き抜いてはみたものの、対人格闘の実践は皆無な桜に小太刀で切れるもの等ない、完全なハッタリである。
が、男達には有効だったのか、皆一様に動きを止めた。
そのまま膠着状態が続く――――かと思われた、そんな時だった。
ドガン! だかバコンッ! だか、とにかく背後で大きな音がしたのだ。
風圧に髪が舞い上がり、幾つかの蝋燭の炎が消える。
今度は何がやってきたのだと、泣きそうになりながら振り返って、桜はヒっ、と喉を鳴らした。
「×××××! ××××」
鬼が居た。
いや、野生の熊か。ライオンか。
薄暗い中で煌めく黄金色の髪。オールバックにセットしているから、それの端正なはずなのにギリギリと吊り上がった目じりと太い眉のおかげで随分と凶悪な人相が際立って見えた。
盛り上がった筋肉のラインがよく分かる、黒い詰襟姿の筋骨隆々な男……が冷めた瞳で周囲を卑下し、無骨な作りの剣をブン、と一振りする。
「×××――――!」
「×! ××××……ッ」
途端、周囲で怒号と悲鳴と、みたくもない赤……多分血しぶきが上がって、ピ、と桜の頬を伝った。
殺される。
問答無用で嬲り殺しにされる、今すぐに。
「待ってください! 私、怪しいものじゃなくて……ッ」
理解されないと分かっていて、恐怖に固まりそうになる喉からなんとか言葉を絞り出す。
応じてくれる気があったのか、男は緩慢な動作で桜を見下ろした。
彫りの深い、二重瞼の下に収まる冴え冴えとした湖面のような青い瞳のなんと冷たいことか。
男の目からビームがでるならば、きっと桜など一瞬で氷漬けにされてしまうだろう。
(選択を誤れば……死!)
良好な人間関係を築くには、まず第一印象をよくすることだと言ったのはとあるハウツー本の先生だ。そうして重要なのは誰が見てもわかる、はっきりとした笑顔なのだと。
強固に固まる表情筋に全神経を集中し、桜は緩々と口角を上げ、眉は下げて微笑みを作った。
恐怖のあまり、抜身の懐剣を抱きしめたままと気付いたのは首筋に触れる刃物特有の冷たいそれを感じたから。
(や、ヤバい! 刃物抱えて微笑む人なんて、ただの危険人物じゃない……ッ)
真っ先に排除される対象になってしまうと焦る桜に対し、男は大きく目を見開く。
「×××……」
肉厚の唇が震え、何事か言葉を紡ぐ。
え。今なにを言いましたか、殺すとかじゃないですよね、と恐慌していると、視界から男が消え――――グ、とお腹に強い圧がかかって息を詰めた。
「××、××××」
感情の読めない、静かな……低く甘い声音はきっとバリトンボイス等と表現するのが適切なのだろう。
耳元で囁かれたそれの意味を問うよりも前に、桜の意識はブッツリと途切れたのだ。