5月16日 1
5月16日(木)
「はあ、何とか間に合ったな」
寺崎は、珍しく息を弾ませながら膝に手をついて息を整えた。紺野も自転車を降りると、荒い呼吸でうなずきながら時計を見やって、驚いたように目を見はる。
「十分かからないで……着いちゃいましたね」
「当然。全速力だったからな」
寺崎は額の汗を拭うと校庭に目を向けた。既に大半の生徒が集まり、準備のできた者からウオームアップを始めているようだ。
「ま、いいか。俺たちはウオームアップの必要はねえから。ジャージも着てきたしな」
つぶやきながら寺崎はさっさとグラウンドに向かう。紺野も慌てて自転車を置きに校舎裏へ走った。
ようやく紺野がグラウンドに戻って来たときには、組ごとに集まって今日の練習メニューを始めるところだった。
「お、紺野。こっちこっち」
寺崎は遅刻し慣れているので、こういうときの対処は速い。もうすっかりみんなにまじって平気な顔で体操なんか始めているので、遅刻したことに誰も気づいていない様子だ。逆に、紺野は遅刻に慣れていないので、明らかに遅れてきたのが他のみんなにもバレバレだった。
「何だおまえ、初日から遅刻かよ」
さっそくそう言ってにらみをきかせてきたのは、二年の中村だった。中村はつかつかと紺野に歩み寄ると、腕組みしながらバカにしたような表情で、自分より低い位置にあるその顔を睨め回している。
「おまえがもしかして、一年の紺野とかいうやつか?」
紺野はうなずくと、無言で頭を下げた。中村はうつむいている紺野を不機嫌そうににらみつけていたが、急にこんなことを聞いてきた。
「おまえ、十秒九って、この間の体力測定で測ったのか?」
紺野は小さく首を振った。
「入院していたので、体力測定には参加していません」
その言葉に中村は目を丸くした。
「は? 入院⁉ いつ退院したんだ?」
「先週の金曜日です」
中村はあっけにとられたようにうつむいている紺野の茶色い頭を見ていたが、あきれたように肩をすくめると、一年B組の面々……主に寺崎を、血走った三白眼でにらみつけた。
「全く、一年はどういう選び方してんだ? マジで信じらんねえな。女子並みに病弱かよ」
吐き捨てるようなそのセリフに、それまで黙って体を伸ばしていた寺崎は聞こえよがしにため息をつくと、中村を鋭く一瞥した。
「ごちゃごちゃ言ってねえで練習始めましょうよ、先輩」
「は?」
「実際走ってみなきゃ、実力なんて分かるわけねえじゃん」
寺崎は腕を伸ばしながら、にやっと笑う。
「案外俺が、先輩より速いかもしれませんよ」
中村はその言葉に、大げさに吹き出してみせた。
「は? おまえが? あり得ねえ。十五秒九の女子並みにんなこと言われる筋合いはねえし」
寺崎は意味ありげに笑っていたが、その笑いを収めると、中村に正面から相対した。中村を見下ろすその目に、震え上がるような気迫がみなぎる。
「……ま、俺はともかく、紺野はついこの間まで大けがして入院してたんだ。四の五の言いやがったら、先輩だろうが容赦しねえからな」
中村は何か言おうとしたが、寺崎の迫力に気押されたのか口をつぐむと、ちっと舌打ちして二年の集団の方に戻っていった。
「ったく、やな感じ」
寺崎はため息をつくと、ちらっと紺野の方に目を向ける。紺野はというと、まるで気にする様子もなく、のんきにアキレス腱なんかのばしている。寺崎はちょっと笑って肩をすくめると、再びストレッチの続きを始めた。
☆☆☆
「それでは各クラス紅白に分かれて、一回走ってみることにします」
体育教師の声がかかると、生徒たちは校庭の真ん中に集まり、クラスごとに並び始めた。中心になっている三年生達が、走順をグループのメンバーに伝え始める。B組赤は例によって水島が順番を記した紙を見ながら指示を出していた。
「第一走者から順に呼ぶから、並んでくれ。……紺野」
紺野は黙って列の先頭に着いた。三須は五番目、アンカーは水島自身であった。
一方の白組は北島が順番を伝えている。出流は三番目で、寺崎が四番目、例の中村がアンカーだった。中村は満足そうにうなずきながら列の最後尾に着く。
他のクラスも全員が並んだようだ。寺崎は首を巡らせて玲璃の姿を探した。玲璃は案の定、A組赤のアンカーである。D組白のアンカーも、予想通り柴田だった。
――へえ。みんなまじめなんだ。
寺崎が感心してうなずいていると、前に立っている出流がちらちらと寺崎の方を見ているのに気がついた。
「何? 村上さん」
すると出流は、申し訳なさそうな表情でおずおずと口を開いた。
「あ、あの……ごめんね、寺崎くん。あたし、遅いから、迷惑かけちゃうと思うけど……」
不安だらけといった表情でうつむいている出流に、寺崎は屈託のない笑顔で笑いかけた。
「大丈夫。俺が次でよかったよ。安心していいからさ」
その言葉に、出流は目を丸くして寺崎の笑顔をまじまじと見つめ直した。
「どんなに遅れても、必ず俺が元の状態まではもどしてやっから。心配すんなって」
出流は何を言っていいのか分からないらしく、その明るい笑顔をただ黙って見つめていたが、やがて真っ赤になって目を逸らすと、「ありがとう」とだけ小さな声で返した。
「それでは、第一走者、準備してください」
各クラスの第一走者がコースに立つ。見るとほとんどが三年生らしく、そう大柄ではない紺野はひときわ小さく見えた。しかも他の選手がみんな半袖短パン姿なのに、紺野だけは長袖長ズボンである。腕を見られたくないことと服のストックが少ないせいなのだが、どうしてもいまひとつやる気がないように見えてしまう。
「あいつ、マジで十秒九なのかよ」
バカにしたようにつぶやく中村の声が聞こえた。寺崎はちらっとそちらに目を向けたが、寺崎自身も紺野の走力については半信半疑だったので、再びスタートラインに立つ紺野に目を向ける。
玲璃も寺崎と同様、首を伸ばして心配そうに紺野の様子に目をこらしている。
「用意……」
軽く鋭い号砲が響き、第一走者が一斉にスタートする。
寺崎は目を見張った。スタートこそ出遅れたものの、紺野はその小柄な体であっという間に他の選手に追随し、一人、二人と追い抜いて、第四コーナーを回る頃には他の選手を大きく引き離し、余裕で先頭を走っていたのである。
「きゃー、紺野くん、かっこいー!」
後ろの方で三須が騒いでいる声が聞こえる。その黄色い声援に苦笑しつつも、寺崎は感心していた。節約するために歩けるところは歩き、使えるものは使って、自分の体を甘やかさずに生活してきたことが大きいのだろう。
――ほんと、意外性のあるやつだよな。
第二走者にバトンを渡して、それほど息も乱さず無表情に最後尾に着いた紺野に、斜め前に座る中村はちらりと目をやった。
「なかなか、いい走りじゃねえか」
紺野は無言で軽く頭を下げる。
「おまえ、まだ高校に入ってからの記録はとってねえんだよな」
「はい」
「このあと、測ってみろよ。いい記録がでるかもしれねえ」
先ほどの紺野の快走を目の当たりにして、中村は自分の優位が不安になったらしい。紺野は曖昧にうなずくと、黙ってコース上に目を向ける。B組赤が一位、B組白はちょうど出流にバトンが渡るところだった。白組の順位は現在二位である。出流はお世辞にもいいとは言えないフォームでよたよたと走り出した。
「……ったく、あの亀かよ」
忌々しそうにつぶやいた中村の言葉通り、出流は次々と抜かれていく。みるみるうちに順位を下げ、寺崎にバトンが渡る頃には、最下位になっていた。
「ざけんなよ、おまえ! これから朝練で特訓すっからな!」
今にも倒れそうなほどぜいぜい言いながら列に並んだ出流に、中村が罵声を浴びせかける。恐怖に出流が身を縮めてうつむいた、その時だった。
「おい、あいつ……なんなんだよ」
周囲から驚愕と興奮の声がわき上がり、様子をよく見ようと列から離れる者が続出し始める。出流をにらみつけていた中村も、何事かとトラックに目をやり……その目を見はった。
寺崎がストライドの大きい流れるような快走で前を走る選手を次々と抜かし、二位に浮上したところだったのだ。寺崎は余裕さえ感じさせる走りで一位の選手にもあっという間に追随し、その背後にぴたりとつける。どうみても、一位に返り咲くのは確実と思われた。
が、寺崎はなぜかそれ以上は追走をやめ、一位の選手の背後にぴったりと着けたまま、余裕とも見える走りで次の走者にバトンを繋いだ。
息ひとつ乱さず列に戻った寺崎は、あっけにとられて自分を見つめる出流と目が合うと、にっと笑ってウインクして見せる。出流はたちまち頭の先から指の先まで真っ赤になって、慌てて頭を下げた。
中村はそんな寺崎を胡乱な目つきでにらみ付けた。
「……おまえ、手、抜いてねえか?」
「え? そうすか? 俺精一杯っすよ」
「だって、全然息乱れてねえじゃねえか……ほんとは一位にできたんじゃねえのか?」
すると寺崎は口の端を上げて薄く笑うと、低い声でこう言う。
「……だったら、何だっていうんすか?」
中村は迫力に気圧されて黙り込む。
「先輩がアンカーなんすから、二位まであげときゃ十分っしょ。それ以上、俺に期待されても困るし。あとは先輩が何とかするんすね」
それから、ちょっと意地悪く付け足す。
「できるんでしょ。あんだけでかいこと言ってんだから」
「き、決まってんだろ!」
心もち顔を赤くしていきりたつ中村が、寺崎は少しだけかわいそうになった。なぜなら、中村は自分の優位性を発揮できないのが確実だからだ。アンカーには、玲璃と柴田が控えているのだから。
――ま、いっか。いい薬だな。
寺崎は肩をすくめると腕を組み、トラックに出てバトンを待つ中村に目を向ける。
B組白は、二年生の快走で一位に返り咲くことができたようだ。中村が一位でバトンを受け取って走り始める。なるほど、確かに普通の人間にしては良い走りだ。
――さて、総代たちはどんな走りをするのかな?
寺崎はにんまりと口の端を上げた。
中村が第一コーナーを回った時、A組のバトンを受け取って玲璃が走り始めた。その後に続いて、D組は五位で受け取る。中村は全力で地面を蹴る。体調は万全で、体も軽い。絶好調だ。中村は瞬く間に流れ去る風景を横目に見つつ、トップを走る爽快感に酔いしれていた。
その時中村は、右後方に何者かが追走してくる気配を感じた。
バトンを受け取った時、あれだけ差がついていたのだ。まさか誰も追いついて来るはずがない。いぶかしく思いつつ、中村はちらりと後ろを見やり……愕然とした。
すらりとした女が、中村の背後にぴたりとつけて走っているのだ。
「おまえ、いい走りしてるな」
女……玲璃は走りながら、そう言ってほほ笑んだようだった。
――何なんだよ、この女!
すると今度は左後方に、もう一人誰かがついた気配がした。女が嬉しそうな声を上げる。
「おお、柴田。やっぱりきたな」
「はい、総代も。じゃ、どこから?」
「そうだな、残り三十メートルで、どうだ?」
「分かりました。じゃ、あの黄色いラインからですね」
黄色いライン? 見ると、ゴール前三十メートルの所に何かで使ったらしい黄色いラインが見える。
――あそこから、何をするっていうんだ?
中村には何のことやらさっぱり分からなかったが、それを考えている余裕もない。ただもう、抜かれないように必死で足を運ぶだけだ。だが、二人は抜いてくる気配もない代わりに引き離されもせず、ぴったりと中村の後ろにつけたままだ。
その間にもぐんぐん近づいてくる、黄色いライン。
そして、三人のつま先が同時にラインに触れた、瞬間。
「行くぞ!」
瞬間、中村は自分の両脇を疾風が駆け抜けるのを感じた。
中村がはっとして前方を見た時には既に、つい今し方自分を追走していた三年の二人が、相次いでゴールしたところだった。
――ウソだろ⁉
中村は目を疑った。確かに寸前まで、二人は自分の後ろを何か話ながら追走していたはず。自分はみじんも力を緩めていない。それなのに黄色いラインを超えた途端、二人はあっという間に自分を抜き去り、残り三十メートルをほんの一瞬で駆け抜けたのだ。
「いやあ、やっぱ速いすね、総代。やられました」
「いや、ギリギリだった。去年より速くなったんじゃないか? 柴田」
三位でゴールした中村はぼうぜんとその場に立ち尽くしたまま、にこやかに談笑する柴田と玲璃を口を開けて見つめていた。