5月15日 1
5月15日(水)
亨也は速足で病院の廊下を歩いていた。このあと、手術の予定が入っている。九時までに担当患者の回診を終わらせなければならないのだが、一人、血液検査の結果が思わしくない患者が出て、その対応に追われているのだ。
朝早い時間にもかかわらず廊下には人があふれ、長椅子に座りきれずに立って診察を待つ患者の姿も見られる。
と、人混みをすり抜けて歩く亨也の目に、前方から歩いてくる、父母に付き添われた高校生らしき男の姿が映った。
「雅文、のどは乾かない? お母さん、ジュースか何か買ってこようか?」
そう言って顔をのぞき込んだ背の低い母親らしき女性を、その男はうるさそうに怒鳴りつけた。
「いらねえよ! ったく、俺にしゃべらせんな! 頭痛えんだから」
威張りくさって、父親らしき人に荷物を全部持たせて、ふんぞり返って歩いてきたが、廊下の向こうから歩いてきた亨也にふと目を留めると、息をのんで立ちすくんだ。
「……!」
すれ違いざま、亨也は薄く笑うと、無言でその男の脇を抜け、歩き去った。
「どうしたの? 雅文。頭が痛いの?」
「あいつ、どこかで会った気がする……」
高校生……宮野は、恐る恐る後ろを振り返った。だが、診察室にでも入ったのだろう、すでに亨也の姿は見えなかった。
「うわぁぁぁ!」
突然、宮野は頭を抱えて叫んだ。
彼は昨日の細かい出来事は一切覚えていない。だが、亨也の姿を見た瞬間、何かとてつもなく恐ろしい感情の記憶がよみがえったのだろう。叫びながら廊下の真ん中に座り込んだ彼を、おろおろと母親がなだめ、父親が看護師を呼びに走り、病院の廊下を行く人々がいぶかしげにそんな三人を見やっていた。
☆☆☆
パソコンで必要な情報を検索していると、奥の診察室から沙羅が顔を出した。
「おはようございます、総代」
「おはよう、沙羅くん。昨日は、すまなかったね」
亨也はすまなそうに頭を下げた。昨日、彼は紺野を助けるために、残務を全て沙羅に託して病院をあとにしたのだ。すると沙羅は、にこやかに笑って首を振った。
「いいえ、私でお役に立てることがあれば嬉しい限りです。で、昨日は大丈夫だったんですか?」
亨也は、パソコン画面に目を向けながらうなずくと、送信で答えを返した。
【ぎりぎりだったけどね。あと数時間対応が遅れていたら、死んでいただろうから。病院に運ばれていたら、また数週間入院だっただろうね】
ため息をつくと、沙羅も送信で返事をする。
【ほんとうにあの男、防御できないみたいですね】
【防御に限らず、普通の状態では自由に能力を発動することが難しいようだね。明らかに鬼子が関係していて、しかも自分以外の誰かが危険にさらされていないと、発動することが難しいとみえる】
亨也はパソコン画面から目を離すと、苦笑混じりにため息をついた。
【これはもう、精神科の領域だね。私には手の施しようがない】
沙羅はそんな亨也を、心なしか優しい目で見つめている。亨也はその視線に気づいて苦笑すると、肩をすくめた。
【まあ、何とかしてもらうしかないね。動き出してしまったからには】
【そうですね】
沙羅はうなずくと、手にしていた書類を差し出した。
「昨日の報告書です。お渡ししておきます」
「ありがとう。今日は早く帰っていいよ。昨日の分、残務は私がやっておくから」
沙羅は首を振ると、意味ありげに笑ってみせる。
「一緒にお仕事させてください。総代が独身なのも、あと数カ月なんですから」
一礼し、診察室に戻る沙羅を見送りながら、亨也は複雑な笑みを浮かべていた。
☆☆☆
登校した寺崎は、教室の前に誰かが立っているのに気づいて足を止めた。
ずいぶん長い間、そこで待っていたのだろう。彼女――玲璃は寺崎を見ると目を輝かせ、待ちかねたように駆けよってきた。
寺崎は、さえない表情で頭を下げた。
「おはようございます、総代……じゃなくて、先輩」
「寺崎、おまえ、昨日は何があったんだ?」
あいさつもそこそこに、玲璃は早口で切り出した。
生徒会の会議中に、部屋を飛び出した寺崎。玲璃は会議が終わったあと、すぐに彼を探しまわったのだが、その頃にはすでに全ては終わっていたらしく、寺崎の姿を見つけ出すことはできなかった。携帯にも何度もメッセージを入れたのだが、なにも返してはもらえなかったのだ。
寺崎は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すんませんでした。昨日はちょっといろいろありすぎて、さすがの俺も、そういうことをする元気がなかったというか……」
玲璃は心配そうに表情を曇らせた。
「なにか、裏門の方で一年生が二人倒れていて大騒ぎになっていたんだが、あれと関係があるのか?」
寺崎はうなずくと、声をひそめた。
「あいつらが鬼子にあやつられて、神代総代が助けてくれたんです」
「享也さんが?」
玲璃は目を丸くすると感心したようにため息をついたが、ふと、紺野の姿が見えないことに気づき、あたりを見回した。
「……そういえば、紺野は?」
寺崎は考え込むように黙っていたが、ややあって小さくうなずくと、顔を上げた。
「先輩に知らせて心配させるのもどうかと思ったんですけど……でも、今回のは先輩が狙われたわけじゃないし、紺野ももう心配ないんで、伝えますね。実は昨日、鬼子に操られたあいつらに、紺野がひどくやられたんです。俺一人じゃどうしようもなくて……そうしたら、神代総代が来てくれて、あいつらの催眠も解いて、原状復帰も全部やってくれて」
玲璃は目を見開いたままで言葉を失っていたが、ややあって、心配そうに問いかけた。
「……で、紺野は、もう大丈夫なのか?」
「神代総代がばっちり治してくださったんで、大丈夫っす。大事をとって今日は休んでますが、明日は登校できると思います」
「そうか」と短く答えると、突然、玲璃は深々と頭を下げた。思いがけないその反応に、寺崎は驚いて目をまん丸くする。
「すまなかった。私は何にもできなかったな」
「そんな、とんでもないっす……俺の方こそ、何にもできなくて」
「でも、つらかっただろ」
寺崎はその言葉に、思わず心臓が跳ねた。優しく自分を見つめる玲璃の澄んだ瞳に、何だか吸い込まれてしまいそうな気がした。
「よく分かるよ。あいつがやられると、ほんと、つらいもの……おまえ一人にそんな思いをさせてしまって、申し訳なかった」
胸がいっぱいになって何も言えずにいる寺崎に、玲璃は元気づけるような笑顔でにっこり笑いかけた。
「じゃあ、今日は紺野なしだ。寺崎、よろしく頼む。がんばろうな」
「は、はい! よろしくです」
寺崎は真っ赤になって勢いよく頭を下げた。
なんだか頭があげられなくて、しばらくそのままの姿勢で廊下の床を見つめていたが、おずおずと目線を上げると、玲璃が去った廊下の向こうに目を向ける。
すでに玲璃の姿は見えなかったが、寺崎はそのまましばらくの間、廊下の真ん中に突っ立って、ぼんやりと玲璃が去った方を眺めていた。