5月14日 5
「本当に、ありがとうございました」
玄関に亨也を見送りに出たみどりは、改めて深々とお辞儀をした。
「いえ、こちらこそ、コーヒーごちそうさまでした。美味しかったです」
笑顔でそう言ってから、亨也は少しだけすまなそうな顔をした。
「今後も、おそらく似たようなことが起きると思います。その際はまた、お宅をお借りして構いませんか? 病院だと、いろいろと気兼ねが多くて」
「もちろんです。あの子は、うちの子ですから」
みどりがそう言ってほほ笑んだとき、紺野の部屋の扉が開いた。
暗い表情で部屋から出てきた寺崎は、玄関までくると亨也に深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました」
亨也はそんな寺崎に、優しいまなざしを向けた。
「いちおう、あの二人の記憶は抜いておきました。紺野さんの過去に関する部分と、今日のできごとについての部分を。あとは、彼らの意識の変革を待つしかありませんが」
いったん言葉を切ると、寺崎をじっと見つめる。
「それまでの間、彼をお願いしますね」
寺崎はうつむいたままでしばらくは何も言わなかったが、ややあって小さい声で「はい」とだけ答えた。亨也は小さくほほ笑むと、改めてみどりに頭を下げ、寺崎宅を後にした。
☆☆☆
「……自信、ねえよ」
亨也を見送って扉を閉めた寺崎が、玄関先でぽつりとつぶやく。みどりはそんな息子を優しい目で見つめた。
「あいつをお願いされたって……俺にはそんな役、できそうもねえ」
みどりは小さくほほ笑んだ。
「あなたは立派にやっていると思うけど」
寺崎は首を大きく横に振り、荒々しく叫んだ。
「俺は何にもやれてねえ!」
両手を固く握りしめ、振り絞るように言葉を継ぐ。
「今日だって、俺はあいつのことを、結局全然守れなかった。マジでクソの役にもたたねえバカ野郎だ。あいつのそばにいたって、なんの意味もない……」
「そんなこと、ありません」
突然、背後から声がして、寺崎もみどりも驚いて振り返った。見ると廊下の先、部屋の入り口にすがるようにして、血のついたパジャマを着た紺野が、肩で息をしながら立っている。
「紺野さん」
みどりは慌てて車椅子をまわして紺野の側まで行くと、そっとその背に右手を添えた。
「無理しないで。あなた、大けがしたばかりなのよ」
紺野はみどりに頭を下げると、玄関に立ち尽くしている寺崎に目を向けた。寺崎は何も言わず、じっと足元を見つめている。
「寺崎さん。僕は……」
「言うな!」
寺崎が叫んだので、紺野は黙り込んで寺崎を見つめた。
「どうせ、また俺を慰める気なんだろ? やめてくれ! 俺は役立たずなんだ。慰めてもらっても、惨めになるだけだ!」
「……僕は、」
紺野は目を伏せた。
「僕は、あなたに謝りたいだけです」
寺崎は、いぶかしげに顔を上げる。
「何を、謝るっていうんだ」
紺野は目線を落としたままで、小さな声でその問いに答えた。
「今日、僕はあなたに、本当に、失礼なことをしてしまった。あなたの気持ちを踏みにじるようなまねをしてしまって……本当に、すみませんでした」
寺崎は斜め下に目を落とすと、自嘲気味に口の端をゆがめた。
「でも、それは確かにその通りだったんだからしょうがない。俺は役立たずなんだ。おまえに頼ってもらっても……」
「そんなことはありません!」
突然、紺野が声を荒げた。ほとんど初めてと言っていいくらいだった。寺崎は驚いて顔を上げ、その顔を見てハッとした。
紺野の目から、涙が伝い落ちていたのだ。
寺崎は何か言おうとしたが、言うべき言葉が見つからなかったのか、口をつぐんだ。
隣に寄り添うみどりも、紺野を黙って見つめている。
紺野は涙をこぼしながら、つぶやくように言葉を続けた。
「僕は今日、生まれて初めて、逃げようと思ったんです」
寺崎は最初、紺野が何を言いたいのか分からなかった。
「能力を発動できないことが分かって、やられると思ったとき……皆さんのことを思い出したんです。それで僕は生まれて初めて、逃げなければと思ったんです」
寺崎は大きくその目を見開いた。紺野は流れ落ちる涙を拭いもせず、まっすぐに寺崎を見つめている。
「僕は、逃げました。生きたいと……本当に、思ったんです。でも結局捕まってしまって、皆さんにご迷惑をおかけすることになってしまったんですが……」
紺野は足元に目線を落とした。
「三十年以上生きてきて、初めてでした。僕は今まで、死ぬことばかり考えていたのに……生きていてはいけないと、そう思っていたのに」
うつむいている目元から涙が次々にこぼれ落ち、足元に丸い水玉がいくつもできていく。
「皆さんのおかげなんです。僕がこんな風に考えられるようになったのは……特に、寺崎さん」
紺野は涙にぬれた顔を上げると、まっすぐに寺崎を見つめる。寺崎は息をのむような思いで、その視線を受け止めた。
「あなたの、おかげなんです!」
紺野はそう叫ぶと、下を向いて黙り込んだ。
寺崎は黙って紺野を見つめていた。先ほどから微動だにしていない。じっと動きを止めて、うつむく紺野を見つめている。少しでも動いたら、だめだと思った。あふれ出してしまいそうだった。
ややあって紺野は、つぶやくように言葉を継いだ。
「僕があなたにすぐに送信しないのは、僕が臆病だからです。あなたを呼んで、もしあなたに何かあったら……そう考えると、怖くて。信頼していないとか、決してそういうことじゃないんです。でもそれが、あなたのことを傷つけていたようで……本当に、申し訳なかった」
そこまで言うと、紺野は口をつぐんだ。涙に言葉を奪われて、それ以上話せないようだった。滴り落ちた涙のあとが、水玉模様のようにその足元を彩っていく。
と、それまで黙っていた寺崎が、おもむろに口を開いた。
「紺野」
紺野は、涙にぬれた顔を上げた。
「俺は……」
寺崎はいったん口を閉じて喉元の強ばりを飲み下すと、少しだけ目線を落とした。
「俺は今日、本当に腹が立った」
紺野は申し訳なさそうにうつむいた。だが、寺崎があとに続けた言葉はこうだった。
「あいつらが、おまえのことを人殺しの化け物だと言いやがったんだ。俺はぶち切れた。あいつらのこと、絶対に許さねえって、そう思った。その時、俺、分かったんだ」
寺崎は顔を上げると、真っすぐに紺野を見つめた。
「前、俺はおまえに言ったよな。俺にとっておまえは、紺野秀明でしかないって」
紺野は黙ってうなずいた。
「あの時、それは俺の……言ってみれば、努力目標だった。そんなことを言ったって頭の片隅には、昔、おまえがやったことが残っちまってる気が、ずっとしていた」
寺崎はそう言うと、うつむいている紺野に向かって、小さく笑ってみせた。
「でも今日、俺にとってそれは本当のことだって、はっきり言い切る自信ができたんだ」
紺野は驚いたように顔を上げて寺崎を見た。寺崎の顔は笑ってはいたが、その目は電灯の光を反射して、星の瞬きのような光を放っているように見えた。
「俺、あいつらにおまえのことを言われたとき、マジでぶち切れた。おまえらなんかにそんなこと言われたくない、おまえらに、紺野の何が分かるって……そう思ったとき、俺の頭には、いつものおまえの姿しか浮かばなかった」
まなじりからこぼれ落ちた涙が一筋、寺崎の頬を伝い落ちる。
「いつもの……妙に礼儀正しくて、人づきあいが下手で、ちょっと主婦っぽくて、変わってて……でも、ほんとに優しいおまえの姿しか、浮かばなかったんだ。俺にとってのおまえは、俺の目の前にいるおまえでしかない。今ならそう、はっきり言い切れる」
紺野は戸口にもたれ、下を向いて嗚咽していた。何も言えないようだった。
隣で聞きながら、みどりも止めどなく涙を流し続けていた。みどりは本当に、二人とも抱きしめてやりたかった。こんなに素晴らしい息子たちはいやしない。愛しく思う気持ちと、誇りに思う気持ちで、胸がいっぱいだった。
「だからさ、紺野」
寺崎は目線を落とすと、言いにくそうに言葉を継ぐ。
「今日は……ごめん。俺の方こそ、悪かったよ」
紺野は嗚咽しながら、首を大きく横に振った。
それからしばらくの間、三人はそのまま、黙って涙を落とし続けていた。