5月14日 2
結局、放課後まで何事もなく一日が過ぎた。
紺野は帰り支度をしながら、斜め後ろにいる寺崎に、この日何度目かの視線を投げた。
寺崎は紺野の方を一顧だにせず、黙々と帰り支度を続けている。
紺野は支度をすませたあとも、ためらうようにその場にたたずんでいたが、やがて意を決したように顔を上げると、寺崎の方へ一歩踏み出しかけた。
と、机上整理をしていた担任が紺野に声をかけた。
「あ、紺野さん、申し訳ないんだけど、このゴミ、捨ててきてくれます?」
大人しい紺野なら引き受けてくれると踏んだのだろう、担任は袋いっぱいのゴミを差しだして満面の笑顔だ。紺野は戸惑うようにごみ袋を見て、それから背後の寺崎に目を向けたが、無言でそれを受け取ると、教室を出て行った。
寺崎は、紺野が部屋を出る瞬間だけちらりとその後ろ姿を見たが、何を言うこともなくリレー選と係分担が書かれた名簿を手にすると、やはり無言で教室をあとにした。
☆☆☆
ゴミ置き場にごみ袋を置くと、紺野はため息をついた。
遠くから、運動部だろうか、ランニングのかけ声がかすかに響いてくる。
紺野は暗い表情で足元を見つめていたが、ゆるゆるとその顔を上げると、校舎の奥に目を向けた。旧校舎の二階、ちょうど生徒会室のあるあたりだ。
薄曇りの空を映した窓は白っぽい光を反射していて、中の様子は全く分からない。それでも紺野はしばらくの間、鈍く光る灰色の四角を見つめていたが、やがて小さく息をつくと踵を返し、目線を落として歩き始めた。
その視界に、何者かの靴が映り込んだ。
まるで行く手を阻むように、誰かがそこに立っている。紺野はやむを得ず足を止めると、視線を上げた。
そこに立っていたのは、宮野だった。
にきびだらけの頬に厭らしい薄笑いを浮かべ、斜から紺野を見下ろしている。
紺野は無表情に目線を外すと、宮野の脇を抜けて歩き去ろうとした。が、まるで紺野の行く手を阻むように、宮野が体をずらして立ちはだかる。紺野は困惑ぎみに動きを止め、今度は左に足を向け直した。だが、宮野は即座に体を移動して、通そうとしない。
「あの……」
言いかけて、ハッと息をのむ。微弱な赤い気が、宮野の周囲を覆っているのに気づいたのだ。
あの子どもだ。
鋭い緊張を走らせつつ、身構えながら状態を探る。催眠だろうか? でもその割に、意識がはっきりしているような気がする。赤い気も非常に微弱で、出所までは判別できないほどだ。
宮野はその顔に非対称な薄笑いを浮かべながら、こんなことを口にした。
「おまえ、人殺しなんだってな」
紺野はその言葉に打たれたように立ちすくんだ。
目を見開き、息を殺して宮野を見る。
「しかも、化け物らしいじゃねえか」
言いながら、宮野は動けずにいる紺野の胸ぐらを突き飛ばした。やけに強い力だった。吹っ飛ばされた紺野は、ゴミの山に背中から突っ込んで、後頭部を壁面に打ち付ける。宮野はそんな紺野を、ニヤニヤ笑いながら見下ろした。
「化け物の本性、見せてくれよ」
そう言ってから、慌てたようにつけ足す。
「おっと、人殺しの本性は見せなくていいからな。殺されたくねえから」
宮野は、捨てられていた高飛び用のポールを拾い上げ、折れた切っ先が鋭くとがったそれを、立ち上がろうとした紺野の頭上に高々と振り上げる。
薄曇りの空に、ポールの切っ先が黒く伸びる。紺野は防御しなければと強く思った。だが、重力の加速で勢いを増したポールは、鈍い音をたてて紺野の肩口にめり込んだ。
頭部への直撃はギリギリで免れたものの、紺野は衝撃で膝をついた。宮野はその頭を目がけて、今度はポールを横ざまに振り切る。ポールは不気味な音をたてて風を切り、紺野の側頭部を直撃した。折れてとがった切っ先が側頭部の皮膚を切り裂き、紺野は横合いにすっ飛ばされて倒れ込んだ。
地面についた両手の上に、音を立てて鮮血が滴り落ちる。
側頭部の焼けるような痛みと、流れ出す血の温かみを感じながら、紺野はぼうぜんとしていた。防壁が全く張れない。宮野がほとんど催眠の影響がない素に近い状態だということ、そして、自分の過去を知っているというショックから、能力の発動が完全に抑えられてしまっているのだ。
宮野は催眠をかけられているのではない。その証拠に、自分自身としての意識をはっきり持っている。宮野を覆う微弱な赤い気は、彼が本来持っている残忍な本性をあおり立て、紺野に対する敵意を増幅させているのだ。しかも、紺野の過去をかなり深いところまで知らされている。
――逃げなければ。
紺野は、寺崎やみどり、そして玲璃の言葉を思い出していた。
『おまえ、死んだらダメだからな』
紺野は弾かれたように立ちあがると、転がっているリュックをつかんで校庭の方に走り出した。大勢の人がいるところまで行けば、そうそうおおっぴらに手出しはできないと踏んだのだ。
だが、そんな紺野の目の前に、倉庫の影から出てきた男……山根が、にやにやしながら立ちはだかった。
「どこ行くつもり? 化け物さん」
その言葉に、紺野は目を見開いて立ちすくんだ。
山根は動けずにいる紺野の前髪を、血で滑らないように絡みつけるようにしてつかむと、無防備なその腹に、渾身の右ストレートを力一杯たたき込んだ。低くうめいた紺野の手からリュックが滑り落ち、重い音とともに地面に転がる。
「逃がすかよ。俺たちには、化け物を退治するっつー崇高な使命があるんだからな」
山根はつかんだ前髪を引いて紺野を地面に引きずり倒した。顔から地面に突っ込んだ紺野を蹴り転がしてあおむけにすると、振り上げた右足を無防備な腹にたたき込む。足裏が垂直にめり込み、嫌な音を立てて内臓が潰れる。紺野が体を丸めて腹をかばうと、今度は背中や頭に重い蹴りを打ち込む。頭を抱えて守ろうとすれば、再び腹に攻撃を加える。それが繰り返されるうち、耐え切れなくなったように紺野は吐いた。血の混じった吐物で靴が汚れるのを恐れた山根は、そこでようやく足を引いた。
「うっわ。きったねえなあ。こっち来な」
宮野は紺野の後ろ襟をつかむと、荷物でも引きずるようにして歩き始めた。宮野の視線の先には、百三十段はあろうかという、裏門へ続く長い階段がある。
「おまえ、なかなか死なねえらしいから、念入りにやらねえとな」
されるがままに引きずられ、半分意識を失いながら、その時、紺野は寺崎のことを思い出していた。
『ひとこと、送信してくれてもいいだろ?』
『そんなに俺のことが信用できねえのか?』
言い捨てて、無言で去っていった彼の背中。
紺野は引きずられながら、薄れゆく意識を必死で集中した。
「さて、このへんでいっか」
宮野が足を止めた。
そこは百三十階段の降り口にほど近い、掃除用具置き場だった。階段からもゴミ置き場からも死角になり、見えにくい場所だ。宮野は紺野を放り出すと、ポールを両手で持ち直した。横向きに倒れていた紺野を山根が蹴り転がして仰向けにし、「きったねえなあ」とぼやきつつ、地べたに投げ出された右腕と、血だらけの頭を足で踏みつける。
「人殺しの標本、作ってやるよ」
宮野は両手でポールをつかみ、高々と差し上げた。動きを止めて狙いを定め、渾身の力で一気に振り下ろす。
ポールは鈍い音とともに、紺野の腹に深々と突き刺さった。
低くうめいた紺野の口から、血が重吹く。
ポールを背中まで貫通させたいのか、宮野はなおも力を込めてねじ込み続ける。ポールが体に沈み込むたび、紺野は苦痛に身をよじるも、頭と右手は山根に踏みつけられていて動かせない。左手だけがむなしく空をつかんでいたが、徐々にその動きも小さくなっていった。
ようやく地面の堅い手応えを得たのか、宮野は満足そうな笑みを浮かべると、ポールから手を離して額の汗を拭った。腹にポールを直角に突き立てて動かなくなった紺野を見下ろすと、バカにしたように嘲笑う。
「ほら、人殺しの標本だ」
山根も声を立てて笑うと、頭を踏みつけていた足を地面に下ろし、「手間かけさせやがって」などとつぶやきながら蹴りつける。血と泥で汚れた顔は、蹴られた衝撃で思い切り右に傾いたが、固く閉じられた目が開くことはなかった。
山根は満足そうに自分たちの凶行の結果を眺めていたが、何に気づいたのか眉根を寄せると、こんなことを言い出した。
「おまえさ、ちょっと位置が下すぎんじゃね? 心臓狙わなきゃダメじゃん」
「そっか?」
「そうだよ。こいつ、しぶといんだろ。ちょっと俺に貸してみ」
宮野と場所を代わると、山根はポールを両手で握って一気に引き抜いた。強烈な刺激に意識を引き戻されたのか、紺野は低くうめいてのけぞった。出血の速度が倍加し、薄汚れたワイシャツがみるみる深紅に染まっていく。
「心臓って、右だっけ? 左だっけ?」
「左だろ、確か」
「じゃあこっちか」
つぶやきながら、山根は握りしめたポールを高々と差し上げ狙いをつける。
紺野は目の前が暗くなっていくのを感じた。山根の声も、どこか遠くで聞こえる気がした。もう何を言っているのかすら、よく分からなかった。