5月13日 1
5月13日(月)
「おはよ……」
寺崎が眠い目をこすりつつよろよろと起きてきたときには、例によって朝食の支度はすっかり調っていて、台所ではみどりと紺野が弁当作りの真っ最中だった。
寝ぼけ眼の寺崎は忙しそうに立ち働く紺野に何気なく目をやり、一気に眠気が吹き飛んだらしい。驚いたように目を大きく見開いて、それから笑い出した。
「な、何だよ紺野、その格好……」
制服の上にかわいらしいエプロンを着けてご飯をかき混ぜていた紺野は、寺崎の反応にちょっと赤くなり、しゃもじを動かす手を止めた。
赤いギンガムチェックの布地にフリルがあしらわれたそのエプロンは、みどりから借りたものなのだろう、寺崎も何となく見覚えがあった。みどりが着るように勧めたということはすぐに想像がついたが、自分が着れば間違いなく噴飯ものであろうそのエプロンを、言われたとおりに着てしまう紺野の素直さに、寺崎はある意味感動すら覚えつつ笑いがとまらなかった。しかも、それなりに似合っているときている。
寺崎があんまりしつこく笑うので、見かねたみどりが助け船を出す。
「笑わないの! だって、紺野さんが手伝ってくれるって言うから……そのままじゃ、制服が汚れちゃうでしょ」
そう言うと、すまなそうに紺野を見やる。
「ごめんなさいね。今度、男の人が着けてもおかしくないエプロン、買ってきておくわ」
「いえ、いいんです。気にしていません」
紺野は慌てて首を振ると、作業の続きを始めた。おにぎりを手慣れた様子で握っている。
「今日はちゃんと中身入れてくれよ」
手元をのぞき込みながら寺崎が言ったので、紺野はびっくりしたようにおにぎりを握る手を止めた。
「……何で知ってるんですか」
「俺は何でも知ってんの」
紺野は苦笑すると、手際よくのりを巻いていく。
「今日は大丈夫ですよ。ちゃんとシャケ焼きましたから」
するとみどりが、弁当のおかずをつめながら、あきれたようにため息をついた。
「あんたねえ、偉そうなことばっかり言ってないで少しは手伝いなさい。洗濯物、表に出してね」
「へいへい。わかりやした」
寺崎は頭をかきながら洗面所に退散する。働かざる者食うべからず、寺崎家では家事を分担しないことには、食事をする資格が与えられないのだ。
程なく弁当作りも終わり、寺崎もやっと制服姿になってダイニングに現れた。
「洗濯干し終わりました〜」
「よろしい。じゃ、いただきましょ」
今日はトーストとハムエッグに、コーヒーが良い香りをたてている。
「ところで、何時頃出ればいいですか」
コーヒーを口にしながら、紺野が寺崎に尋ねた。
「そうだなあ。三十分みとけばいいから、八時前に出ればいいんじゃない」
「じゃあ、ちょうどいいですね」
時計を見ると、七時二十分である。寺崎は苦笑すると、自分もコーヒーをすすりながら何気ない調子で言った。
「おまえ、あとでちょっと顔貸せ」
「? はい」
紺野は何のことだか分からなかったのかきょとんとして寺崎を見たが、取りあえずうなずくと、トーストをかじった。
☆☆☆
寺崎と紺野が高校の正門をくぐったのは、八時二十六分だった。
「おお、ぴったし!」
寺崎が時計を見上げて嬉しそうに笑う。ずっとかなりの速度で走ってきたが、少しも息を切らしていない。
「……あの、寺崎さん」
「何だ? 早く自転車置いてこいよ。先に行ってるぞ」
紺野は緩めのネクタイや、折りあげたズボンのすそを戸惑ったように見つめている。
「どうしても、こうじゃなきゃだめなんですか?」
「だめ。ちょっとそれで教室入ってほしいの。お願い! 今日一日でいいからさ」
寺崎が両手を合わせて拝み倒すので、紺野は渋々承知すると、自転車を置きに校舎裏の自転車置き場へ歩いていった。
紺野の姿が消えると、寺崎はほくそ笑みながら先に教室へ急いだ。ちょうど寺崎が教室に入ると同時に予鈴が鳴り始めたので、他の生徒たちも着席し始める。
「おはよ。寺崎」
荷物を机にしまっている寺崎に声をかけてきたのは、隣の席の三須である。前下がりのショートボブが似合う、さっぱりしていて明るい性格の、友だちの多い女子だ。
「相変わらずギリだねー」
「仕方ねえじゃん。今日は家から走ってきたんだから」
その言葉に、三須は目を丸くした。
「は? マジで? 寺崎んちって、確か上南沢……」
「ちょっと訳あって鍛えてんの」
「マジで? 訳あってって、ひょっとして、体育祭?」
面倒くさいので適当にうなずいてみせると、三須は「マジかー」とかなんとか言いながら感心したように寺崎を見ている。
その時、ガラリと前扉が開いた。何気なくそちらに目をやった三須は、その目を大きく見開いて動きを止めた。
「……え? 誰? あの子」
寺崎は下を向いて必死に笑いをこらえている。入ってきたのは他でもない、紺野だったからだ。
「うそ……あんな子、いたっけ? このクラスに……」
紺野の髪は、今朝、寺崎が丁寧にスタイリングしたおかげで、美容院から出てきたばかりのようにきれいに仕上がっている。軽く緩めたネクタイ、二の腕の絶妙な位置にまくり上げた袖、折り返したズボンの下からのぞく靴下のセレクトもバッチリだ。もともとの素材の良さも手伝って、四月の地味で目立たない印象からは考えられない変わりようである。まあ、紺野本人はそれらの何がいいのかすらよくわかっていないのだが、そんなことはとりあえずどうでもいいのだ。
「覚えてない? 紺野くん。四月当初火事にあって、一カ月入院してたの」
寺崎は高校側に伝えた通りの話をすると、にやにやしながら三須の反応を見る。三須は口を半開きにして紺野に見とれながら頭を振った。
「全然、覚えてない……そうだったんだ」
横目で他の生徒の反応もうかがう。皆それなりに興味を持っているらしく、隣どうしで話をしたり、ちらちら紺野の方を見やったりしている。
寺崎がほくそ笑んでいると、担任教師が入ってきた。
寺崎の号令であいさつをすると、担任は出欠を取り始める。
「今日は、ええと……そうそう、みなさん、四月初めに火事でケガをしてずっと入院していた紺野さんが、先週の金曜日に退院して、今日から登校してきました」
担任の紹介をうけて、紺野は軽く頭を下げた。
「自宅が焼けてしまったので、彼は今、寺崎さんの所に下宿して、そこから学校に通っています。みなさん、分からないことや困ったことがあったら、教えてあげてくださいね」
担任の言葉に、三須は目を丸くした。
「あの子、寺崎んとこに下宿してんの?」
「そ。遠い親戚なの」
魁然と神代はある意味親戚みたいなものである。すると三須は目をキラキラさせて両手を組み、はち切れんばかりの期待を込めて寺崎を見つめた。
「ね、あとで紹介して。超かわいいじゃん、紺野くんて」
寺崎は自分の思惑通りにことが進んでいるのが面白くて仕方ないらしく、鷹揚にうなずいてみせながら、こみ上げてくる笑いを必死でこらえていた。