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輪廻  作者: 代田さん
第二章 友達
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5月12日 1

 5月12日(日)


 翌朝も、紺野の熱は下がらなかった。


「三十八度四分か……」


 枕元で体温計をにらみながら寺崎はつぶやいたが、一転して明るい表情になると、不安そうに自分を見上げている紺野の顔をのぞき込んだ。


「仕方ねえ。今日の買い物は、俺が全部しといてやる。その代わり、俺の趣味で勝手に買うぞ。いいな」


 紺野は申し訳なさそうに目礼した。


「当然です。でも、いいんですか? お忙しいのに……」


 寺崎がいつも「忙しい」と口癖のように言っているのを思い出したらしい。寺崎は思わず吹き出した。


「ホントおまえって、冗談通じねえなあ。大丈夫だよ。今日はそのために、一日空けてあるんだから」


 寺崎はそう言うと、台所で洗い物をしているみどりに声をかける。


「おふくろ、紺野のこと、よろしくな」


 みどりは茶わんを洗いながら苦笑する。


「言われなくても大丈夫よ。任せてちょうだい」


「そっか。じゃ、俺、行ってくるわ」


「今日はどこに行くの?」


「教科書買うから新宿。今日は電車で行けるから楽だよ。早めに帰ってきて、食料の買い物もするから」


「助かるわ。気をつけてね」


「寺崎さん」


 部屋を出て行きかけた寺崎を、珍しく紺野が呼び止めた。振り返ると、紺野は半身を起こし、心配そうな表情を浮かべて寺崎を見ている。


「何かあったら、意識を送ってください。すぐに行きますから」


 寺崎は苦笑してきびすを返すと、紺野の頭を大きな手でぐしゃぐしゃとなで回した。紺野は思わず目をつむって首を引っ込める。


「余計な心配しないで、寝てろ。俺は大丈夫だから」


「でも……」


「おまえ、俺のことを信用しねえのか?」


 寺崎が怖い目つきでにらみつけるので、紺野は慌てたように首を振った。


「信用していないなんて。ただ、相手が相手ですから……」


「わかった、わかった」


 寺崎は苦笑しながら、はいはいと言うようにうなずいて見せる。


「おまえの方こそ気をつけろよ。あいつはどっちかというと、おまえを狙うはずだから」


「わかっています。みどりさんは絶対に……」


「おまえもだぞ、紺野」


 そう言うと、寺崎は紺野の顔を真剣な表情で見つめる。


「おまえも絶対に無事でいろ。ケガもするんじゃねえ。いいな」


 黒い瞳に超至近距離から見据えられ、紺野はあわてたようにうなずいた。

 寺崎は笑うと、紺野に軽く手を挙げて部屋を出て行った。



☆☆☆



 その頃、魁然家では、プロのシェフを迎えての料理教室が開催されていた。

 とはいえ、玲璃はシェフに料理を学ぶ以前の基礎が全くできていない。シェフは流れるような動作であっという間に見本を見せるのだが、同じことを玲璃がやろうとすると、果てしなく時間がかかってしまうのだ。


「それでは、人参の下ごしらえをしましょう」


 シェフが笑顔で投げかけるも、玲璃は鈍く光る包丁を握りしめ、ごくりと唾を飲み込むと、人参をにらみながら呼吸を整える。


「では、切ってみてください。まずは縦半分に、その後、半月型に五mmくらいの幅で」


 玲璃は左手で人参を握り、おそるおそる包丁の刃をあてる。

 刃物を扱うこと自体が、魁然家の顕性能力者である玲璃にとっては凄まじくハードルの高い行為だ。刃物というのは、指先の力を鋭い刃先に最大限に集約してその能力を発揮する道具だ。つまり、ほんのわずかな力加減の差が、切れ味に大きな影響を与えてしまうのだ。

 魁然家の顕性能力者は傑出した身体能力を誇るが、その能力のコントロールは繊細さが必要とされる。うまく制御できなければ簡単に触れたものを破壊し、ヘタをすれば相手を傷つけてしまう事にもなりかねない。そのため、魁然の顕性能力者は、微細な能力制御を幼少の頃から継続的にたたき込まれる。ドールハウスづくりやプラモデルづくりなどの指先を使った細かい作業も、制御法の一環として積極的に奨励されている。だが、それでも刃物に関してだけは、カッターやハサミなど、比較的扱いやすいものに関してしか訓練は行われない。刃先へ小さな力を集約させる刃物の性質自体が、魁然家の能力と非常に相性が悪いからだ。「刃物は、戦闘目的以外ではできるだけ持たない」ことが、魁然家の顕性能力者である男性に一貫して課せられてきた縛りだった。そのため、魁然家では、料理は基本的に不顕性能力者である女性がその役割を担う。一族内に家父長制的な古臭い気風が強く出てしまうのは、そういった肉体的特性も強く影響してのことだった。

 しかし、玲璃は一族では唯一、女性の顕性能力者だ。しかも、結婚相手は魁然家とは特性が全く異なる神代家の人間である。家父長制的気風の強い一族の価値観からしても、特性を言い訳に料理をしないわけにはいかない。そんなわけで、彼女は魁然家で最高の能力者でありながら「刃物を自在に操る」という非常に高いハードルを超えねばならない使命を課されてしまったのだ。憂鬱ゆううつになるのも道理だった。

 ほんの少し力を入れ過ぎれば、まな板もろとも机を真っ二つにしてしまう危険と隣り合わせながら人参に包丁を入れる。力加減が読み切れず、ともすると力を抜きすぎて包丁が滑り、人参を握っている指を切りそうになる。そのたびにひやっとしながらも、何とかまな板を切らずに縦半分に切り終える。が、細い方は随分大きさが違ってしまった。


「えっと、次は……」


 頭の中で猫の手、猫の手と繰り返しつつ、丸めた左手に包丁を沿わせるようにして切っていく。ときおり、まな板に包丁がさくりと突き刺さるたびにゾッとする。どうしても、年寄りがつえをついて歩いているようなスピードにならざるを得ない。

 隣に立ってその作業を補助する珠子は、なにも言わない。玲璃の不慣れな包丁さばきを、眉一つ動かさずに厳しい目つきで見つめている。


「……いたっ!」


 突然、玲璃が叫んだ。珠子はハッとしたようにほんの少しだけその目を見開く。

 玲璃は包丁を放り出し、左手の中指を口に含んだ。包丁に擦り取られたように皮がむけて、血がにじんでいる。珠子は無言で救急箱とタオルを持ってきた。傷口を水で洗い、タオルで押さえ、絆創膏を巻いていく。終始無言だった。

 玲璃はその顔に、おずおずと目を向けた。


「あ、ありがとうございます、珠子さん……」


「いえ。お気をつけください」


 珠子は短くそれだけ言うと、救急箱を片手にすぐに奥へ引っ込んだ。

 その後ろ姿を見送りながら、玲璃は小さくため息をついた。自分の不器用な包丁さばきに珠子がいらいらしているような気がして、落ち着かなかった。

 奥の部屋で救急箱を片付けながら、珠子もため息をついていた。

 珠子は今まで、玲璃とは距離を保ってきた。複雑な家庭環境もあいまり、彼女と距離を近づけすぎることで、軋轢あつれきが生じてしまうのがわかっていたからだ。

 玲璃を引き取る際、彼女はあえて自分を「家政婦」という立場に位置付けた。そう割り切ってしまえば、義虎が別の女性との間に産んだ子でも、一定の節度を保って接することができると考えたからだ。

 だから、あえて珠子は玲璃を「総代」としか呼ばない。玲璃はあくまでも自分が家政婦として仕える「総代」でしかない。それ以上の感情は持つまいと心に決めている。それ以外の感情を抱いた瞬間、あの女……裕子に対して抱いている複雑な感情を、玲璃に転嫁してしまいそうな気がしていたからだ。それだけは絶対に許されないと、厳しく自分を律して彼女はこれまで生きてきた。

 だが、玲璃の花嫁修業に際し、珠子は大きな役割を担わざるをえなくなってしまった。玲璃とふれ合う機会も飛躍的に増えている。今まで目をそらしてきた、玲璃の意外な一面を発見するたびに、玲璃に対して「総代」以外の感情が芽生えてしまう気がして、珠子は怖かった。

 もし万が一自分の中に玲璃への憎しみが芽生えてしまったら、今まで丹念に積み上げてきた日常が、一瞬にして崩れ去ってしまう。自分も、珠洲も、恐らくは義虎自身も目をつむって守ってきた全てのものが。その恐怖心ゆえに、この時間は珠子は心を殺し、できるだけ事務的に……結果的に冷たく、玲璃に接するよう心がけてきた。

 だが、不思議なことに、珠子は自分の中に芽生える新たな感情が、憎しみばかりではないような気もしていた。不慣れな手つきで材料を切っていれば不安にもなるし、手を切れば心も痛む。うまくできなかったことができた時には、思わず笑顔になったりもする。心の底で激しく憎んでいるはずのあの女の面影が色濃く残るこの娘に、そんな感情を抱いている新たな自分を発見し、珠子は戸惑いを覚えていた。


     

☆☆☆



 紺野が寺崎に借りた数学の教科書をベッドに腰掛けて読んでいると、ノックの音がした。


「はい」


 教科書から顔を上げて居住まいを正すと、みどりが車椅子に据え付けられた簡易テーブルに昼食のトレイを載せ、ゆっくりと車椅子を操りながら入ってきた。みどりは慣れているのでなんということもないのだが、紺野はそれを見てびっくりしたようだった。


「申し訳ありません」


 慌てて教科書を放り出してベッドを降りると、トレイを受け取って机の上におく。


「すみませんでした。持ってきていただいて……」


「いいえ。大丈夫ですよ。それより、ご気分はいかがですか?」


「はい、だいぶ良いようです。ずっと横になっていたので。本当に、ありがとうございます」


 紺野は頭を下げると、先ほど放り投げた教科書を拾い上げ、ベッドに戻った。


「たいへんでしょう、だいぶ休んでしまったから」


「寺崎さんの話によると、この辺まで進んでいるらしいですね。でも、一度やっていますから、分かると思います」


 みどりは感心したようにうなずいた。


「紘に教えてやってくださいね。あなた、よくできるって一度紘から聞いたことがあります」


 紺野は赤くなって首を振る。


「とんでもないです。こんなに休んでしまったので、僕の方が寺崎さんに教えていただかないと」


 その言葉に、みどりは苦笑して肩をすくめた。


「それは期待しない方がいいかも。あの子は運動はともかく、勉強はからきし駄目だから」


「でも、あの高校は一応、都内では優秀な方で通っていますし……」


 みどりはうなずくと、何やら遠い目をした。


「あの子があの高校に行きたいって言いだしたときは、絶対に無理だと思ってました。とても行けるレベルじゃありませんでしたもの」


 紺野は黙ってみどりの言葉に耳を傾けた。


「でも、総代の護衛をするには、あそこへ行かないと駄目だからって言って。受験は、あそこ一本でしたね。他は行ってもしょうがない、受験料の無駄だって言って……それで本当に受かったから良かったものの、落ちていたらどうなっていたことやら」


「寺崎さんは、本当にみどりさんのことを大切にしているんですね」


 紺野の言葉に、みどりは恥ずかしそうに笑ってみせた。


「ありがたく思ってます、素直に。あの子には本当に助けられてますから」


 みどりはそう言うと、トレイの上に目を留めてはっとした。


「あ、ごめんなさい。のびちゃうわ。少しでもおなかに入れてくださいね」


「はい。ありがとうございます」


 頭を下げると、トレイの上の昼食に目を移す。温かいうどんから、白く優しい湯気がゆっくりと立ちのぼっている。

 寝ていると、食事が運ばれてくる。紺野にとってはもうそれだけでありがたかった。病院ではその分入院費を支払うのだが、ここではその必要もない。


――これが、家庭。


 紺野は運ばれてきた昼食を見ているだけで、なんだか胸がいっぱいになるのだった。

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