5月11日 7
誰かが屋上に上がってくる気配を感じて、紺野は足を止めた。気配は二つ。足音はほとんど聞こえない。
紺野はその気配が、寺崎と玲璃のものだとすぐに分かった。ちらりと横目でそちらを見やると、屋上出入り口をさらに厳重に封鎖する。
屋上へ続く階段を飛ぶように駆け上がり、先に到達した寺崎が突き当たりにある扉のノブに手をかける。
が、ノブはぴくりとも動かない。
「あれ? おっかしいなあ。かってえ……」
ドアノブが回らない経験など、ついぞ寺崎はしたことがない。首をひねりつつノブと奮闘する寺崎を見かねたのだろう、あとからやって来た玲璃が「どけ」と短い言葉を発した。心なしか悲しそうな表情で引き下がった寺崎と交代すると、ノブに手をかけ力を込める。だが、玲璃とて同じことだった。どんなに力を入れても、押そうとも引こうとも、ドアはぴくりとも動かない。やけになってがちゃがちゃやっているうちに、ノブだけがアメをねじ切るように引きちぎれてしまった。だが、ドアは一分たりとも動かない。
「これってもしかして、……シールド?」
ちぎれたノブを見つめながら玲璃がぼうぜんとつぶやくと、寺崎はあわてて扉についている小さなガラス窓から外の様子をのぞいた。
十メートルほど先に、誰かが横向きで立っているのが見える。強い風に髪を吹き散らされながら、彼は屋上の左隅をじっと見つめて動かない。その視線の先にあるものの姿は、寺崎達の位置からは見えなかった。
その人物の表情を見て、寺崎はドキッとした。
そこに立っているのは、確かに紺野には違いない。だが、今の彼からは、普段のあの柔らかい雰囲気がまるで感じられなかった。突き刺すように前方を見据えながら、全身の感覚を針のように鋭く研ぎ澄ませて身じろぎもしない。その視線の先にいるのは、恐らく……。
「鬼子、本体だ」
その言葉に、玲璃は息をのんで寺崎を見つめ直した。
その時。
まるで音声のように明瞭な「思念」が、二人の脳を揺さぶるように鳴り響いた。
【オマエハ、死ヌンダ】
その意識が脳を貫いた、瞬間。二人は、体中から冷や汗がどっと噴き出すのを感じた。こんなにも明確な殺意と純粋な悪意を、ここまでストレートに浴びせかけられたことはなかった。自分たちと同じ生き物の感情というより、「怨念」と表現した方がふさわしいかもしれない。加えて、傍受しているだけだというのに、意識の関門を押し流すように侵入してくるあり得ないほどのエネルギー量。能力耐性を持つ玲璃や寺崎でさえ、殴られたような衝撃を感じて一瞬目がくらんだほどだった。
――これが、鬼子本体の力?
玲璃はぼうぜんと立ちすくんだ。指先がわなわなと震え出すのを止められなかった。寺崎も、玲璃と同様、小窓の外を凝視しながら動くことさえできずにいる。
すると、やはり相当に強い――おそらく、普段は抑制されているが、鬼子の力に共鳴して強く表出しているのだろう――送信を傍受した。ただ、今度のそれは強力ではあるが、脳髄をかき混ぜられるような不快感はなく、心なしか優しい、それでいてきっぱりとした意志を感じる送信だった。
【僕は、死なない】
玲璃ははっとして、寺崎の肩越しに窓をのぞいた。窓から見える紺野の目は刺すように鬼子を見据え、いつものあの柔和な雰囲気は全く感じられなかったが、それでもその瞳の奥に、包み込むような温かさを秘めているような気が、玲璃はした。
【少なくとも、おまえが生きている限りは死なない。僕は、おまえをこの世に送り出した責任を果たす必要がある】
そう送信すると、紺野はまた一歩、給水タンクの方に足を踏み出した。
【来ルナ!】
刹那。こん棒かなにかでぶん殴られたような衝撃をうけ、二人は思わず頭を抱えた。それほど強烈な送信だった。同時に、赤い気のエネルギー量が二次関数的に上昇する。
次の瞬間。
屋上一帯が、一瞬で猛火に包まれた。
空気中に含まれる水分を能力で電気分解して大量の水素を発生させ、引火させたのだ。猛火は一瞬で屋上全体を飲み込み、巻き上がる火柱でガラス窓の向こうが赤一色に染まる。視界を遮られ、紺野の姿はあっという間に渦巻く火炎の向こう側に消えた。
「紺野!」
ガラス戸に顔をへばり付かせ、玲璃が叫んだ。ガラス窓のすぐ向こうで火炎が渦を巻いているにも関わらず、頬を寄せたガラスの感触は驚くほど冷たい。紺野の防壁が、衝撃や熱を遮断してくれているのだろう。だが、肝心の紺野の姿は火柱にのまれて確認することができない。息を詰めて必死に小窓に頬を押しつける玲璃の目に、次の瞬間、信じられない光景が飛び込んできた。
あれほど爆発的な勢いで火炎を巻き上げていた屋上が、瞬きをする間に、本当にウソのように鎮火してしまったのだ。
「……マジかよ」
ぼうぜんと呟く寺崎の視界に、先ほどと全く同じ様子で立っている紺野の姿が映りこむ。消化器を使った形跡はもちろん、水をまいたような形跡もない。ただ、いくらか焦げて黒ずんだタイルから、ぷすぷすと灰色の煙が揺らめきながら立ち上っているだけだ。
「水素分子を、奪ったんだ……」
玲璃は小窓の外に頬をはりつけながら、つぶやいた。思い出したのだ、滝川に襲われたあの時のことを。
滝川に襲われたあのとき、自分は呼吸ができなくなった。あれは恐らく、滝川が自分の周囲から酸素分子が奪い去ったために起きたことに違いない。とすれば、同様の能力を持つ紺野も、同じように分子や原子を選択的に操作することができるはずだ。紺野はおそらく、水素分子のみをこの屋上全体(!)から奪い去ったに違いない。あの火炎が渦巻く最中にあって、あの一瞬で。
思わず唾を飲み込んだ玲璃の目に、再び貯水タンクに向かって歩き始めた紺野の姿が映り込む。
【なにをしようが、無駄だ。絶対に逃がさない】
紺野は、貯水タンクのすぐ目の前まで来ると、足を止めた。
【僕はおまえに、どうしても聞きたいことがあるんだ……姿を見せろ】
鬼子はそれには答えなかった。代わりに、含み笑いの気配とともに、こんな送信をよこしてきた。
【オマエ、高校ニ行クノカ】
その投げかけに、紺野は眉をひそめた。
【良クソンナ事ヲ考エタナ。オマエ、自分ノ立場ヲ分カッテイルノカ?】
「あいつ、何言ってんだ?」
イライラしたように、寺崎がつぶやく。
「紺野を動揺させるつもりじゃないだろうな」
【オマエガ学校ニ行ケバ、危険ハ、サラニ大キクナル。オマエハ、私ガ一番殺シタイヤツダカラ】
【そうかもな】
紺野は、無表情に返した。
【おまえが僕を殺したいなら、そうすればいい】
玲璃も寺崎も思わず息をのんだが、紺野は恬淡とした表情で、鬼子の潜んでいる給水タンクを見据えながら、つぶやくような送信を重ねた。
【ただ、僕は一人では死なない。死ぬときは、おまえも一緒だ。だれも巻き添えにはさせない。誰もおまえに殺させない。そのために、生きる。僕が死ぬときは、おまえが死ぬときだ】
玲璃も寺崎も、紺野の覚悟の重さを感じて言葉を失った。
【何デ、オマエヲ一番殺シタイカ、分カルカ?】
一方、鬼子はその言葉に別の意味で触発されたらしい。殺意と憎悪を凝縮したようなその送信は、能力耐性のある玲璃や寺崎でさえめまいを覚えるほど、強烈なマイナスのエネルギーを帯びていた。
【オマエハ、私ヲ生ミダシタ。ダカラダ!】
叫ぶような送信と同時に発された赤い衝撃波が、周囲の空間をゆがませながら紺野を襲う。普通の人間が浴びれば、一瞬で肉体が溶解、気化してしまうほどのエネルギー量だ。さすがの紺野も鈍い音とともに十メートルほどはじき飛ばされ、屋上の低い柵に背中から激突した。古くさい柵が衝撃できしみ、紺野は転落しそうになりながらも、壊れかけた柵にすがって何とか体を屋上に残した。
鬼子はまだ給水タンク裏にいるようだった。衝撃で紺野の遮断に隙を作って逃亡を図ろうとしたものの、かなわなかったらしい。
【おまえは、間違ってる】
屋上の柵にもたれながら、紺野はつぶやくように送信を重ねる。
【もうこれ以上、誰も殺すな】
【黙レ!】
紺野は顔を上げると、給水タンク裏を、射貫くように強い、でもどこか悲しげな目で見据えた。
【……殺してほしくないんだ】
玲璃と寺崎はその様子を固唾をのんで見守っていた。紺野がはじき飛ばされたときはどうなることかと思ったが、なんとか乗り切れた様子でホッとした。だが、鬼子の感情は昂ぶり、それに伴ってエネルギー量も増大しているのをビリビリと感じる。送信を傍受しているだけで、吐き気をもよおすほどだ。このまま、紺野一人を鬼子に対峙させ続けて、本当に大丈夫なのか……不安を抱きつつ、固唾をのんで動向を見守る玲璃の耳が、何者かの足音をとらえたのはその時だった。
「誰か来る!」
玲璃の言葉に、寺崎もすぐさま耳をすます。確かに、何者かが階段を駆け上がってくる気配がする。それも、一人ではない。複数の人間が、何か話をしながら階段を駆け上がってくるようだ。
「さっき、ものすごい音がしたわね!」
「何でしょうね、このビル、屋上は何も使ってないはずだけど」
紺野も、その気配に気づいてハッと目を見開いた。この場に、全く能力をもたない一般人が来る。その事実は、明らかに紺野を動揺させた。給水タンク裏にいる鬼子から、ほんの一瞬、紺野の注意が逸れる。
その瞬間を、鬼子は見逃さなかった。
鬼子の体から膨大な熱量を持つ赤い光が、禍々しい光とともに一気に放出される。拮抗していたパワーバランスが崩れ、赤い気のエネルギー量が白い気をまたたくまに凌駕する。赤い気のエネルギーは紺野の防壁内部に充満し、膨張し、膜を突き破って一気に上空へ駆け上がった。
大量の赤いエネルギーを吸収した空は、数秒間不気味に沈黙していたが、エネルギーを限界までため込んだ雲の表面を稲光が走ったかと思うと、見る間に一点に集積し、紅いエネルギーをはらむ稲妻となって屋上の給水タンクに一直線に突き刺さった。
紅い輝きが辺り一帯を包みこみ、耳をつんざく轟音が屋上一帯を揺るがして響き渡る。
寺崎と玲璃、そして階段を駆け上がってきた記者たちも、爆発さながらの轟音と閃光と鳴動に、手で耳を覆ってしゃがみこみ、目を堅くつむった。
鳴動が収まり、屋上を無音のベールが包み込んでゆく。
玲璃は恐る恐る耳から手を外し、立ち上がって屋上に目を向けた。屋上はまるでウソのように静まりかえっていて、粉々になったコンクリートから薄い煙が緩やかに立ち上る他は、動いているものは何もなかった。
「……紺野は? 紺野はどこだ?」
寺崎も慌てて小窓から屋上を見渡したが、紺野の姿はどこにも見あたらない。
寺崎はやおらノブのねじ切れたドアを力いっぱい蹴飛ばした。古びたドアはちょうつがいごと外れ、やけに軽々と屋上に吹き飛んだ。
屋外の空気が締め切られていた屋上階段に一気に流れ込み、寺崎は焦げ臭い風に髪を吹き散らされながら、白っぽい煙がそこかしこから立ち上る屋上を見渡した。
程なく、屋上の右隅に誰かがうつぶせで倒れているのが目に入る。
「紺野!」
寺崎は表情を凍らせると、紺野に駆け寄り肩を揺すぶったが、ぐったりとしているだけで反応がない。心臓の鼓動が早鐘を打ち始めるのを感じつつ、寺崎は紺野を仰向けにして抱き起こすと、必死で名を呼び、頬をたたいた。玲璃も寺崎の隣に膝をついて座り、まっさおな顔で息を詰めてその様子を見守っている。
紺野はしばらくは力なく揺すぶられているだけだったが、やがてその眉がぴくりと動き、薄く目が開いた。寺崎は全身の力が抜けるような感覚に襲われながら、紺野の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、紺野」
紺野はぼうぜんと中空に目を向けていたが、ゆるゆると寺崎に視点を合わせると、小さくうなずいた。
「……はい。取りあえず」
「よかったぁ……」
寺崎は泣きそうな顔でため息をついた。どうやら、雷鳴の衝撃で気を失っていただけだったらしい。紺野がゆっくり上半身を起こすと、寺崎の隣にいた玲璃も、半べそをかきながら口を開いた。
「……おまえ、えらいぞ」
「え?」
首をかしげた紺野に、玲璃は泣き笑いのような表情をしてみせた。
「ちゃんと防御できたじゃないか。よかった。ケガがなくて……」
その言葉に、紺野が申し訳なさそうなほほ笑みを返した、その時だった。
歯切れのいい軽い音ともに、残像がはっきり残るくらい眩しい光が三人を包み込んだのだ。
それは、プロ仕様の大きなカメラのフラッシュだった。思わず目を閉じてから、三人は恐る恐るカメラをかまえている中年男性と、その男性の隣に立つパンツスーツ姿の女性――須永を見上げる。
「あなたですね! あの事故の時、アルファロメオを止めたのは」
なにがなんだかわからずぼうぜんとしている紺野に、須永は名刺を差し出しながら興奮気味にまくし立てた。
「私、週刊ジャパンサンデーの記者で須永と申します。今日、あなたがとられた勇敢な行動について、ぜひお話をうかがいたいと思いまして」
その間も、フラッシュは間断なくたき続けられている。一定間隔で閃く光に眼をチカチカさせながら、紺野は何が起こっているのか全く分からない様子で、あっけにとられたように須永を見つめている。
「失礼ですが、お名前は?」
畳みかけるような須永の質問に、思考が停止していた紺野は思わず素直に口を開きかける。
「え、あ、はい、紺……」
その口を、誰かの大きな手が突然ふさいだ。
紺野は口をふさがれた状態で、驚いたように上目遣いで自分の口をふさいでいる人物を見上げる。
「個人情報を、簡単に漏らすんじゃないの」
寺崎は紺野の口にその大きな手をあてがいながら、怖いくらいの表情で須永たちをにらんでいた。
「悪いけど、答えたくありません。ということで、どいてもらえますか?」
突然しゃしゃり出てきた生意気そうな若造がつっけんどんにそう言ってきたので、須永は明らかにむっとした表情を浮かべた。
「……あなたは、この方とどういったご関係で?」
「友だち。それ以上は答えたくありません」
短くそれだけ言い捨てると、寺崎は戸惑ったような表情を浮かべている紺野の腕を、有無を言わせず引っ張り上げて立ちあがらせた。玲璃もそれにならって慌てて立ちあがる。
「じゃ、そゆことで」
言い捨てて歩き出そうとする寺崎の行く手を遮るように、須永は立ちはだかった。
「待ってください。どうして答えたくないんですか? この方は突っ込んでくる車を止めて大きな被害を防いだんですよ。本当に勇敢な行動ですし、褒められこそすれ、何も隠すようなことはないと思いますけど」
見る間に、寺崎の表情が凍った。震え上がるくらい怖ろしい目つきで須永をにらみ下ろしながら、低い声で吐き捨てる。
「……しつこいんだよ、おばさん」
迫力に気おされて、須永は言葉を飲み込んだ。寺崎は立ちすくむ須永の脇をすり抜けると、そのまま立ち去りかけたが、突然ぴたりと足を止めると、くるりと振り返った。
「忘れてた」
つかつかとカメラマンに歩み寄り、彼が手にしていた一眼レフカメラをふんだくる。
「あ、君、何を……」
カメラマンの抗議の声を無視して寺崎はSDカードを取り出すと、それを指先で二つに折り曲げた。カードは軽い音を立てて簡単に折れ、あっけにとられているカメラマンの足元に、ポイと投げ捨てられる。
寺崎はカメラマンにカメラをぽんと手渡すと、何事もなかったように屋上出入り口の方に歩き去った。
屋上にとり残された須永達は、しばしぼうぜんとその後ろ姿を見送っていた。
「……何なんだ、あいつは」
無残に破壊されたSDカードを拾い上げながら、カメラマンは忌々しそうに吐き捨てた。
「こんの……って、呼んでたわよね。確か」
彼らが去った屋上出入り口を見つめていた須永は、気を取り直したように携帯に残されたたった一枚の画像を開いた。
カフェの店先でくつろいでいるあの少年の端正な笑顔を眺めやりながら、須永は不敵な笑みを浮かべると、低い声でつぶやいた。
「どこの誰だか、絶対に突き止めてあげるから……見てらっしゃい」