5月11日 2
頭上を覆う高速道路の高架下を、車が列をなして走り去る。排ガスだらけのほこりっぽい空気は、行き過ぎる車に攪拌され巻き上げられながらも、辺り一帯に充満し続け消え去る気配もない。
お世辞にも空気のいいとは言えないそんな道路脇の歩道を、寺崎と紺野は歩いていた。もう、かれこれ二十分近く歩いているだろうか。少々疲れ気味の紺野を尻目に、寺崎は鼻歌なんか歌いながら上機嫌だ。
「大丈夫か? 紺野」
後ろを振り返って声をかけてきた寺崎に、紺野はあいまいな笑顔で小さくうなずいてみせた。
「がんばれ。今、半分くらいまで来たところだ」
「……寺崎さんは、元気ですね」
「それだけが取りえだからな、魁然系の人間は。疲れたら言えよ、負ぶってやるから」
寺崎が笑顔でそう言ったので、紺野は慌てて首を振った。
「僕も歩くのは慣れてますから」
「つったって、昨日退院したばかりだろ。無理すんなよ」
寺崎は少し歩行のスピードを緩めると、ポケットから携帯を取り出して何やら指を忙しく動かし始めた。
その流れるような動きを感心しきって見つめている紺野の気配に、寺崎は携帯に目線を落としたままで、ふと思いついたようにつぶやいた。
「そうだ、おまえ、携帯も持った方がいいな」
紺野は、とんでもないとでも言いたげに慌てて首を振る。
「いいです。そんなお金……」
「分かった分かった。それは取りあえず初給料が入ってからにしよう」
言いながらも、指は素早く操作をし続けている。
送信すると、寺崎は画面から顔を上げてにやりと笑った。
「さて、今日は面白いことになるぞ」
紺野はいささか不安そうに、そんな寺崎を見上げていた。
☆☆☆
遮光カーテンの隙間から漏れる明るい日差しが、白木の家具で統一された温かみのある部屋を薄ぼんやりと照らし出している。
窓の下のベッドでは、まるく膨らんだ肌掛け布団が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。
その静寂を打ち破って、能天気な携帯の着信音が鳴り響いた。
すると、肌掛け布団がもぞもぞと動き出して、中からボサボサ頭がゆっくりと出てきた。
ボサボサ頭の持ち主……玲璃は思い切りのびをすると、気だるげに枕元の携帯を手に取る。
送信者の名前を見て、玲璃は首をかしげた。
――寺崎?
ベッドに横になった姿勢で画面を開いて、ぼんやりした頭で読み始める。
――そっか。昨日、紺野が来たんだよな。で、何だって? ……渋谷?
いくぶん頭がはっきりしてきたらしく、携帯画面に目を向けながらゆっくりと体を起こす。
『渋谷に向かって歩行中』
『いつでもいいんで、合流しませんか?』
――歩行中? なんで歩行?
言っていることはよく分からなかったが、渋谷で会うということだけは理解できた。玲璃はぼやけた目もとをこすりながら返信する。
『了解。着いたら連絡します』
☆☆☆
ビルの合間を歩きながら返信を読んだ寺崎は、にんまりとほくそ笑んだ。
「どうしたんですか?」
不穏な気配を感じたのか、紺野がいぶかしげにそんな寺崎を見る。
「いや、何でもねえよ。個人的な連絡だよ、個人的な……。つか、そろそろ着くぜ」
駅前に出たのだろう。ゴチャゴチャした通りを抜けた途端、急に視界が開けて大通りに出た。バスや車が列を成して目の前を行き過ぎ、歩道には、朝っぱらから何の用事か大勢の人間が目指す方向に一斉に流れていく。オレンジ色や緑色の電車が高架をにぎやかに走り抜け、大きなビルが幾つもそびえ立っている。寺崎の後ろをついて歩きながら、紺野はどこか怖々と、そんな辺りの様子を見回していた。
駅前にある、どっしりとした外観の老舗百貨店の店先に到着すると、寺崎は後ろを歩く紺野を振り返った。
「まずは制服な。ここの八階で扱ってるはずだ」
言いながら寺崎は携帯の時刻表示に目をやり……その目を見はった。まだ十時十五分である。
「すげえ。開店直後来店かよ」
感心しつつ、何気なくエレベーターの方へ向かう寺崎に、紺野はおずおずと声をかけた。
「階段か、エスカレーターにしましょう」
紺野に言われて、寺崎ははっとしたように歩みを止める。
「そうだったな。そうしよう」
寺崎的には階段でも別になんということはなかったが、退院直後で十キロメートル近く歩いてきた紺野のことを考え、二人はエスカレーターで八階に向かった。
八階で制服をあつらえると、結構な額だった。会計で言われた金額に目を丸くしている寺崎に、紺野は恐縮しきって頭を下げた。
「すみません。本当に、ありがとうございます。お金は、必ずお返ししますので……」
そんな紺野に寺崎は首を振ってみせると、その顔にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「実は、神代から制服用の金、もらってるんだ。だから、安心しろ」
よほど驚いたのだろう、目を丸くして固まっている紺野に、寺崎はにっと笑ってみせる。
「言うなって言われてたんだけど。じつは神代総代が、初期投資がかかるだろうからって、口座に十万振り込んでくれたんだって。だから、全然気にしなくていいから」
そう言うと寺崎は、肩をすくめて苦笑まじりにため息をつく。
「あーあ、言っちゃった。また、おふくろから怒られんな」
「そうですか。神代さんが……」
「辛気くさい顔すんなって」
申し訳なさそうにうつむく紺野の背中を、寺崎は音がするほど強くたたいた。軽いつもりだったのだろうが、紺野は前方につんのめるような格好で思い切りよろけてしまう。
「おまえが気にすることじゃねえよ。とにかく、その金でおまえを改造する。次は服だ。そのユニシロジャージ姿から卒業しろ」
体勢を立て直しつつ、紺野は慌てて自分の姿に目を向けた。
「いけませんか? 楽なんですけど……」
「楽ばっかりしてると、早くじいさんになるぞ。ただでさえおまえは中身が年取ってんだから。せっかく肉体年齢は若いんだから、それらしくしてろ。そのあとは十一時半から予約を入れてある。急げ」
寺崎はそう言ってにっと笑うと、紺野の左腕をつかんで繁華街の方に向かって歩き始めた。
☆☆☆
玲璃が渋谷に着いたのは、十二時をまわった頃だった。
改札を出ると、公園通りに出る。さっきのラインに、通り沿いにある美容院にいるようなことが書いてあったのだ。
――なんで美容院?
首をかしげつつ、目的の美容院へ向かって坂を上る。渋谷は普段、あまり縁がない。玲璃は、はやりものには特に興味がないのだ。今日の服装も、ジーンズにゆったりとしたトップスを重ねただけのの何気ないものだ。とはいえ、都心に住んでいるせいか、それほど流行とかけ離れた格好をしているわけでもない。その何気ない感じが、彼女の素材のよさをさらに引き立てているのは確かだった。
交差点が青信号に変わると、人々がそれぞれの方向に一斉に歩き始める。その流れに乗って歩き始めた、その時だった。
「あのぉ、すみませーん。ちょっといいですかぁ?」
着崩したスーツに金に近い茶髪の男性が、歩いている玲璃の後ろからその顔をのぞき込みつつ、軽薄な口調で話しかけてきた。のばし気味の語尾に変な余韻を感じる。
少し離れた位置から玲璃の動向を見守っていた護衛たちに殺気が走るのに気付き、玲璃は男に気づかれないよう、手を出さなくていいと目で合図する。どう見ても鬼子の気配は感じない。普通の人間を相手に、いちいち大立ち回りをされてはたまらないのだ。
「失礼ですがぁ、モデルか何かやってらっしゃいますぅ?」
「あ、いえ」
繁華街にあまり出ない玲璃は、こういった勧誘の対応に疎い。さすがに立ち止まりこそしないものの、思わず言葉を返してしまう。
「そうなんですかぁ? うわぁ、意外ですぅ。てっきり何かやってらっしゃるかと……実は私、こういう者なんですがぁ」
男はそう言って、全体に派手なピンク色の花柄が入った悪趣味な名刺を差し出す。
「モデル事務所?」
玲璃が不審そうにそのピンクの名刺を眺めると、男はたたみかけるように話し始めた。
「実はですねぇ、新人のモデルに欠員がありましてぇ、今ちょうど探しているところだったんですぅ。あんまりおきれいなんでぇ、ご興味はないかと思いましてぇ、お声をかけさせていただいたんですけどぉ」
「あ、私、そういうことに興味ないですから……」
玲璃はそう言い捨てると、足を速めて歩き去ろうとする。
すると男は突然、去りかける玲璃の右手首をむんずとつかんだ。軽薄なその口調とは裏腹に、やけに強引で力強い動きだった。
「そんなこと言わないで、もう少し話を聞いてくださいぃ。今回、事務所に同行していただければぁ……」
護衛たちが戦闘態勢に入った気配を感じてゾッとした玲璃は、飽きもせず語尾を伸ばしまくる男を、絶対零度を感じさせる鋭い目線で一瞥した。
「離せ」
男は、玲璃の変化に全く気づかない様子で、にやけ顔と語尾のばしを相変わらず継続する。
「やだなぁ、顔に似合わないからやめてくださいよぉ。すごんだって、全然怖くなんか……」
「離せと言っている」
低い声でそう言うと同時に、玲璃は捕まれている左手の甲を上げ、手をつかんでいる相手の手首をひねった。
「……!」
その意外なほどの力強さに相手が息をのんだ次の瞬間、玲璃は手刀のようにして男の手を振り払い、踵を返した。一瞬の出来事だった。
追ってきたら走って逃げようと思ったが、男は見かけによらず武道の心得でもあったのか、あの一瞬で玲璃との力の差を感じ取ったらしい。忌々し気ににらみつけながらも、追ってはこなかった。
護衛たちの殺気も、どうやら収まったようだ。大騒ぎにならずにすんでよかったとホッとしながら足を速めた玲璃の耳に、携帯の着信音が届いた。急いでカバンから携帯を取りだすと、画面を開く。
『美容院終了』
『お昼ご一緒しませんか』
『マークタウンのイブニングティーで』
そのあとには、能天気な絵文字と、目当ての場所の地図が貼り付けてある。見ると、どうやら逆方向だ。さっきの場所をもう一度通らなければならないらしい。またあのへんな男に出くわしたら嫌だなと思いつつ、肩をすくめると、玲璃は踵を返しかけた。
その時、ふと視界に、前方から歩いてくる二人連れの姿が映り込んだ。そのうちの一人に見覚えがある気がして、玲璃は目をこらした。
距離にしておよそ三百メートル。普通の人間にはただの人混みとしか認識できないだろうが、視力五,〇の玲璃には一人一人の姿がはっきりと捉えられる。黒いプルオーバーパーカーにカーゴパンツにスニーカー。何気ない格好ながら、背が高くすらりとしていて人混みでもひときわ目を引くその男が寺崎だと、玲璃にはすぐに分かった。
「寺崎!」
玲璃が手を振ると、玲璃と同様に並外れて視力のいい寺崎も気づいたらしい。大きく手を振り返す。
「何だ総代、こんな近くにいたんすか」
そう言って小走りに近づいてきた寺崎の後ろに、見慣れない男がいるのに気が付いた玲璃は、眉をひそめた。
ベージュのTシャツにアースカラーのゆったりカーデを重ね、裾を折り上げたナチュラルホワイトのジーンズにスニーカー。センターパートにスタイリングされた長めの茶色いさらさらの髪が、整った顔まわりを華やかに引き立てている。寺崎もかなり目を引くが、この男も背の割に頭が小さくすらりとしていて、雑誌モデルを騙っても通ってしまいそうなほどきれいな顔立ちをしている。彼はなぜか斜め下を向き、玲璃から目線をそらして居心地が悪そうに黙っている。
「寺崎……誰だ? この人」
玲璃の言葉を聞いた途端、寺崎は唾をまき散らして思い切り吹き出すと、腹を抱えて大笑いし出した。玲璃は訳が分からない様子で、頭上に疑問符を二十個くらい浮かべながら寺崎と男とを交互に見やっていたが、ハッとしたようにその目を大きく見開いた。
「おまえ、……紺野か⁉」
寺崎は腹を抱えてヒーヒー言いながら必死でうなずいている。男はその背後で、恥ずかしそうに顔をそむけている。
「いや、ちょっと待って……顔を見せろって」
玲璃は男の正面に回り込み、強引にその顔をのぞき込む。逸らされていた男の目線が、ちらりと玲璃のそれと重なる。茶色い髪に、長いまつ毛。言われてみればその顔に、玲璃は確かに見覚えがあった。
「ええ⁉」
そのあまりの変わりように、玲璃は思わずのけぞってしまった。服装とか髪形とかで、人ってこんなに変わるものなのか。どこかのテレビ番組でさえない女性が変身する特集を組んでいたが、まるでその男版だった。
「ああおかしかった……予想通り」
笑いすぎの寺崎は、息を切らし涙目になりながらもまだ半分笑っている。
「これ、一回やってみたかったんすよ。紺野なら絶対できると思ってた」
満面の笑顔でこう言ってから、恨めしそうに寺崎を見上げている紺野の目線に気づくと、慌てたようにこう付け足した。
「あ……っと。じゃ、飯にしましょっか。ちょうど会えたんで、ね」