5月11日 1
5月11日(土)
翌朝、みどりはみそ汁のいい香りで目が覚めた。
――紘かしら? 珍しい。
首をひねりつつベッドに体を起こすと、枕元に用意してあった洋服に着替えて車椅子に乗る。部屋を出て、広々としたユニットバスルームである程度身だしなみを整えてから、台所をのぞき……その目を見開いた。
「あ、おはようございます」
台所に立ってかいがいしく朝食の準備をしていたのは、紺野だった。
Tシャツ姿の紺野は菜箸とみそこしを手にして振り返ると、ぺこりと頭を下げた。右腕に巻かれた包帯が、少々痛々しい。
「勝手に冷蔵庫を開けさせていただきました。すみません」
見ると、冷蔵庫の中にあった材料を彩りよく取り合わせて、片手鍋の中のみそ汁がおいしそうな湯気を立てている。炊飯器のお米も既に炊きあがって保温になっている。
「まあ紺野さん、すみません。寝坊してしまったかしら」
紺野は納豆を混ぜながら、慌てて首を振った。
「いえ、僕が早起きし過ぎるんです。八時に寝る人間だったもので……勝手にこんなことをしてしまって、まずかったでしょうか」
その言葉に、みどりは目を丸くして紺野を見たが、すぐにこらえきれなくなったように吹き出した。
「八時? ホントですか? なんか意外……いえ、いいんです。まずいだなんてとんでもない。大助かりです」
そう言うと、車椅子を器用に操りながらテーブルに茶わんや箸を並べはじめた。家具類が車椅子の移動がしやすい配置にされているとはいえ、前進と後退を繰り返しながらの鮮やかな配膳は長年車椅子を操り慣れたみどりならではのものだろう。
「でも、たいへんじゃありませんでした? その台所、車椅子用に普通より低く作られているので」
紺野は冷蔵庫の中の卵を手に取りながら、納得したように目を見開いた。
「だからこんなに低いんですね。大丈夫です。たいしたことはしていないので」
そう言うとボールに卵を片手で器用に割り入れて菜箸で手早くとき、大まかに味付けをして丸いフライパンに手を伸ばす。
「あら、卵焼きならこっちを使うといいわ」
そう言ってみどりは、シンク下から四角い卵焼き専用フライパンを取り出した。
「こんなのがあるんですか」
紺野は手にした四角いフライパンを感心したように眺めていたが、ガスの火をつけて油をしいた。
「知りませんでした?」
「はい。丸いフライパンしか……。ああ、本当ですね。これなら、四角く焼ける」
紺野は感心しながら、慣れた手つきで卵焼きを焼く。みどりは、洗い物がないか流しをのぞいたが、みそ汁を作った道具はきれいに洗って伏せてあった。野菜くずもきちんと片付けられている。手際も相当にいいようだ。
「フライパンは洗いますから」
「ありがとうございます」
箱枕型に色よく焼き上がった卵焼きをまな板の上に載せると、紺野は頭を下げた。
みどりがフライパンを洗っている横で紺野は卵焼きを切り分け、手早く皿に盛り分けてテーブルに置く。
「寺崎さんは、いつも遅いんですか?」
箸を並べながら、紺野は時計を見た。七時をほんの少しだけ過ぎている。みどりは苦笑した。
「今起きてくれば、彼にしては相当に早いほうね。学校に行くときはもっと早いけれど、お休みの時は八時は絶対に過ぎるから」
「それでしたら、待ちましょうか」
「いいわよ。二人でいただきません? あの子はいつ起きるか分からないんだもの」
「……ひでえ発言」
急に背後で、まだ半分夢の中のような声がした。慌てて振り向くと、ボサボサ頭の寺崎が、眠い目をこすりつつ寝間着姿で立っている。
「ちょっと待っててくれよ、顔洗ってくるから。……今何時?」
そう言って時計を見上げ、眠気が吹き飛んだらしい。目を丸くしてあぜんとする。
「まだ七時かよ!」
予想通りの反応に苦笑しつつ、みどりは息子を軽くにらむ。
「そうよ。紺野さん、一人で朝ご飯全部作ってくれたんだから」
「え、マジ? これ、おふくろじゃないの?」
「そうよ。紺野さんは早起きなんだから。なにせ、夜は八時に寝るのよね」
紺野は恥ずかしそうに目線を泳がせる。
「すみません、電気代の節約で……」
それを聞くと、寺崎は思いきり吹き出した。
「マジ? なんか、ホントおまえって面白いな……。悪い、今すぐ顔洗ってくるから待っててくれ。着替えねえけど」
そう言うと寺崎は慌てて洗面所に駆け込んだ。超速で顔を洗って髪を整えたので、恐らく二分もかかっていなかっただろうが、その間に紺野とみどりはテキパキと配膳を終え、寺崎が戻ってきた時には朝食の支度はもうすっかり調っていた。
「じゃ、紺野くんの手料理を、いっただっきまーす!」
寺崎は手を合わせ、嬉しそうにあいさつすると、早速箸を取った。大声に苦笑しつつみどりも手を合わせ、紺野も手を合わせてから食べ始める。
「あ、うそ」
一口みそ汁を啜った寺崎が、眉をひそめてつぶやいたので、紺野は不安そうな表情を浮かべた。
「……口に、あいませんでした?」
すると寺崎は、一転してあふれんばかりの笑顔を浮かべて、叫んだ。
「うまーい!」
拍子抜けしたような紺野の表情に、寺崎は腹を抱えて大笑いした。
「お約束だろ、お約束……何か、俺たち新婚さんみてえだな。俺がダンナで、おまえが奥さんだろ。で、こっちのがしゅうとめ」
その言葉を聞いて、みどりは苦笑しつつも寺崎を睨み付ける。
「なんで私がおしゅうとめさんなの?」
「だって意地悪そうじゃん。嫁さんが早起きして、朝飯を作るわけだよ。そうするとしゅうとめが後から起きてきて、いろいろ文句つけるわけ。あら秀子さん、このおみそ汁ちょっと味が濃いんじゃない、とか言って」
そう言って寺崎はしばらくの間腹を抱えてげらげら笑っていたが、何を思い出したのか、突然笑いを収めて立ちあがった。
「あ、そうだ。洗濯機回さねえと」
自分の仕事を思い出し、慌てて洗面所に向かいかけた寺崎に、紺野がおずおずと声をかける。
「勝手に回させていただいて、干しましたが……まずかったでしょうか。」
一瞬目が点になって凍り付いた寺崎も、これにはさすがに感服したようだった。
「おまえ、マジですげえな。ありがとう」
素直に礼を言うと、再び席に着いて食べ始める。
「じゃあ俺の仕事、もう掃除だけじゃん。この分なら、歩いても超早く行かれそうだな」
「どこへ行くんですか?」
「渋谷。ここからなら、一時間あれば余裕で歩いていける。帰りは自転車買って、乗って帰ればいい。俺は走るから」
紺野は左手に茶わん、右手に箸を持ったままで、動きを止めてじっと何か考えている様子だったが、卵焼きを口に運んでは感心したようにうなずいているみどりに顔を向けた。
「あとで、ちょっと試させていただいてもよろしいですか」
「試す? 何をですか?」
「シールドです。遠隔操作できるかどうか」
みどりは何のことだかさっぱり分からないらしく、首をかしげてみせた。
「僕が側にいないとき、万が一何かあってもある程度大丈夫なように、シールドをかけさせてください。問題は、それが維持できるかどうかと、みどりさんが自由に行動できるかどうかなんですが……多分、大丈夫だと思います。試させてください」
そう言うと紺野は、茶わんと箸を手にしたままで、小さく頭を下げた。
☆☆☆
紺野は車椅子に座るみどりの前にひざまずき、その手を取ってじっと目を閉じ、意識を集中している。寺崎はその様子を、離れたところから見ていた。
紺野の体から放出される白い輝きをまとう気が、夏の高原に立ちこめる朝もやのように、二人の周囲にゆっくりと降り積もっていく。人によってエネルギー波の色彩はさまざまだが、紺野のは白い。寺崎はそれを、素直にきれいだと思う。あの、禍々しい赤いエネルギー波に比べれば、はるかに。
と、気の放出が収まり、紺野がふうと息をついて目を開けた。
紺野から発せられる光が収束すると同時に、周囲に立ちこめていた輝きも空気に溶けるように消えていったが、みどりの周囲だけは薄ぼんやりと輝き続けている。
「これで、多分大丈夫だと思います。みどりさんが行う行動については何の支障もありません。外部からの能力発動および物理的攻撃からのみ、ある程度守られるようにしてあります」
寺崎は感心したように白い輝きをまとうみどりを見やった。
「へえ。これって、おふくろからどんなに離れても継続すんのか?」
「百キロメートルくらいなら大丈夫だと思います。僕が意識を失ったり、死んだりしない限りは」
「……何かおまえが言うと、冗談に聞こえねえ。死ぬとか言うな」
普通の人間であるみどりには、何が起こったのかさっぱり分からないようだ。不思議そうに自分の体を見回しながら、盛んに首をひねっている。
「ありがとう……って、何だかよくわからないけど。取りあえず、これでいいのよね」
「はい。何かあれば、僕がすぐに参ります。これはその間の、取りあえずの措置です」
紺野の様子に、訳が分からないながらも何かしら納得したのだろう。みどりは笑顔を見せた。
「じゃあ、安心していってらっしゃい。お夕飯、作って待ってるから」
その言葉に寺崎はうなずくと、みどりの前に立つ紺野の左腕をつかんだ。玄関方向に無理やり体を向けられてよろけた紺野に、にっと笑いかける。
「よっしゃ、それじゃ出発だ。行くぞ、紺野!」