5月10日 2
結局、みどりと紺野が寺崎宅にたどり着いたのは、家並みの向こうに見える西の空があかね色に染まり始める頃だった。
オレンジ色の光に照らされた町を、みどりは上り坂以外ずっと自走して帰ってきた。紺野は押すと言ったのだが、腕をケガしているからとみどりが頑として聞き入れなかったのだ。
「ただいま……」
疲れたため息とともにそう言ってノブに手をかけようとした途端、扉が勢いよく開いたので、みどりは慌てて車輪をまわして車椅子を後退させた。
「お帰り! 遅かったじゃん」
「紘、開ける時は気をつけてちょうだい。ぶつかるかと思ったわ」
「あ、悪……」
寺崎は頭を下げかけたが、後ろに立つ紺野のぼろぼろの腕に目を留めて言葉を飲み込んだ。
「……何があったんだ?」
「話せば長くなるんだけど……取りあえず、中に入れてもらっていい?」
寺崎が慌てて扉を大きく開け放つと、みどりは紺野に軽く頭を下げてから自走して先に部屋の中に入る。
寺崎も続いて中に入ろうとしたが、表のポーチに立ちつくしている紺野に気づいて振り返った。
「どうした? こいよ」
小さい声で「はい」と答え、おずおずと一歩踏み出したが、玄関先で気おくれしたように足を止めてしまう。寺崎は苦笑すると、裸足のままポーチに出て紺野の後ろにまわった。
「はいはい、靴脱いでくださいよ」
言いながら強引に背中を押す。紺野は寺崎に押されながら家の中に入っていった。
「じゃあ、ここに座ってな」
寺崎は、紺野を台所にあるダイニングの椅子に腰掛けさせ、自分は奥の部屋で何か探していたが、やがて薬箱を手にして戻ってきた。
「手当てしてやっから、ジャージ脱げ」
「すみません」
紺野は袖がぼろぼろになったジャージを脱ぎ、素直に腕を差し出す。寺崎はその傷だらけの腕に消毒薬を、ぶっかける、と言った方がぴったりな塗り方で塗った。
「あーあ、また傷増やしちゃって」
傷口に大きく切ったガーゼをあて、器用に包帯を巻いていく。そこへ、荷物を片付けたみどりも奥の部屋から戻ってきた。
「たいへんだったわ。お買い物も断念しちゃった」
「そうだ、何があったのか聞くんだった。……紺野」
「あ、はい」
寺崎の器用な手つきを感心しきって眺めていた紺野は、われに返ったように顔を上げた。
「送信してくれ。何があったんだ?」
包帯を巻き終わった寺崎はそう言うと、当たり前のように右手を突き出して、困惑したように自分を見つめる紺野にいたずらっぽく笑いかける。
「いいだろ? 便利な力持ってんだから、利用したって」
便利などと思ったことは一度もなかった紺野は、あっけにとられたようにその笑顔を眺めていたが、やがておずおずと右手を取ると、先刻の出来事を送信しはじめた。
☆☆☆
送信は三十秒もかからず完了した。
「なるほど。たいへんだったな」
寺崎がそう言って右手を収めたのを見て、みどりは感心しきった様子でため息をついた。
「あれで全部分かったの? ほんと、すごいわね」
「だろ。入り組んだ話はこれに限るよ。時間の節約にもなる」
寺崎はまじめな表情になると紺野に向き直った。
「おまえ、電車乗らねえほうがいいかもな」
その言葉に、紺野も目線を落として深々とうなずく。
「僕もそう思います。巻き込まれる人が多すぎる」
寺崎は中空をにらんで何か考えているようだったが、やがて何を思いついたのか、にっこり笑って紺野を見た。
「ここから高校まで、歩けねえ距離じゃねえもんな。俺もつきあうか」
紺野は目を丸くして慌てたように首を振る。
「寺崎さんは今まで通りにしてください」
「そうは言っても、俺、総代と約束したからな。おまえを守るって」
その言葉に、紺野はちょっと赤くなったようだった。
「十キロメートルもねえだろ。楽勝楽勝。走りゃあっという間……っつっても、おまえは俺のスピードにはついてこれねえな。問題は、時間か……」
寺崎は再びあれこれ考えを巡らせているようだったが、やがて大きくうなずくと、紺野にくるりと向き直った。
「紺野、土日は俺につきあえ」
「え?」
「おまえ、制服ねえだろ。まずそれ買って、それから自転車買う、おまえの分の。カバンもいるし、教科書もねえだろ。そういうもの全部揃えて……」
あまりの勢いに、紺野は口を半開きにして固まっている。
「それから、おまえを改造する」
「改造って、何なの?」
みどりが苦笑まじりにそう言うと、寺崎は意味ありげににやりと笑う。
「それは秘密! 結果は見てのお楽しみだ」
「紺野さんは、今のままでも十分ステキだけど? 変なふうにしたら承知しないわよ。紘の趣味は、ピアス開けたりズボンのすそをまくり上げたり、お母さん、あんまり好きじゃないんだから」
「おばさんウケしてもしょうがないの。見てなって。こいつ、素材は結構いいんだから。……いいな、紺野」
紺野は寺崎の勢いに押されつつも、おずおずと反論を試みる。
「でも、お金が……」
「貸しといてやるって。言ったろ、俺は働いてんの。とにかく必要なもんは買わないと、おまえ、護衛の仕事もできないんだぜ」
確かにその通りだ。あえなく撃沈した紺野は、返す言葉もなく黙り込んだ。
「ということで、きまりな。さて、腹減ってきたな。飯どうする?」
みどりは、申し訳なさそうな顔をした。
「ちゃんと作ろうと思ってたのよ。もっと早く帰れる予定だったから、お買い物もして……。でも、ちょっと無理そうだから、今日はおすしでも取りましょうか」
「え、マジ? やったーっ!」
飛び上がる寺崎とは対照的に、紺野は慌てた様子で口を挟んだ。
「そんな……僕が、そのへんにあるもので何か作ります」
寺崎とみどりは驚いたように動きを止めて紺野を見た。
「おまえ、料理できんの?」
紺野は遠慮がちにうなずいた。
「普通の物しかできませんが。施設育ちなので、そういうことはひととおり……」
「ほんと紺野さん、高校生の鏡だわね」
感心したようにうなずくみどりに、寺崎はちょっとふくれてみせる。
「俺だって、普通の高校生よりはいろいろやってる方だと思うけど?」
「はいはい、そうね。いつもありがと」
みどりは苦笑しつつそう言うと、紺野の方に向き直った。
「紺野さんの技は、明日以降見せていただきますね。これからずっとここで暮らすわけですし。今日の所は、お祝いもかねておすし取りましょ。あなたも退院したばかりで疲れているはずよ」
寺崎も腕を組んで深々とうなずく。
「そうそう。こんなことでもなきゃ、めったに食えねえしろもんだし」
それ以上反論のしようもなく身を縮めている紺野を見ながら、寺崎はやけに嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「おまえはうちに下宿するってことにするからな。クラスでも、それで話合わせろ。とにかく、これからしばらくの間、よろしくな」
その言葉に、紺野はあわてて居住まいを正すと、深々と頭を下げた。
「それを言うなら僕の方こそ、よろしくお願いします」