5月10日 1
5月10日(金)
紺野は紙袋に寝間着やTシャツを詰めながら、ちらりと窓の外に目を向けた。
五月のすがすがしい青空の下を、日差しをうけてきらめく川がゆったりと流れている。
その穏やかな風景に目を奪われてぼうっとしていた紺野は、「失礼します」という女性の声にハッとすると、慌てて病室の入り口の方に目を向けた。
見ると、にこやかなほほ笑みを浮かべた車いすの中年女性が、同室の患者に頭を下げながら病室内に入ってくるところだった。
女性は紺野の前まで来ると、車椅子を止めて頭を下げる。
「退院おめでとうございます、紺野さん」
「みどりさん……」
紺野は心苦しさにいたたまれない様子で表情を曇らせた。
「たいへんだったんじゃありませんか? わざわざ……」
みどりは屈託なくにっこり笑ってみせる。
「足手まといだったかしら、ごめんなさいね。でも、うちの場所もご存じありませんでしょう。荷物くらいはお持ちしますから」
「とんでもないです、お気持ちだけで……ありがとうございます」
慌てたように首を振る紺野を、みどりはじっと見つめた。
「うちに来たら、本当に気を遣わないでくださいね。あんまり気を遣っていると、疲れちゃいますよ」
心なしか心配そうなその言葉に、紺野は少しだけ笑顔を見せた。
「大丈夫です、集団生活には慣れていますから。僕は、このくらいの方が気が楽なんです」
言いながら手際よく残りの荷物を紙袋に詰め込んでテーブルの上に置くと、乱れたベッドを整えはじめる。みどりは当たり前のように、その荷物を自分の膝の上に載せた。
「お持ちしますね」
紺野は目を丸くした。
「とんでもないです」
慌てて取り返そうとするも、みどりは荷物をしっかりと抱え込んで離さない。
「荷物はお持ちします。代わりに、押していただけますか?」
そう言って笑顔で自分を見上げるみどりを、紺野は戸惑ったように見つめたが、観念したのか、言われた通り車椅子のハンドルに手をかけた。
同室の患者にあいさつをすませると、二人は八〇三号室を後にした。
☆☆☆
手続きを終えて外に出ると、上空には抜けるような青空が広がっていた。雲ひとつなく、空はどこまでも高い。その一角を、飛行機雲の白い直線がゆっくりと斜めに切り取っていく。
「気持ちがいいわねえ」
嬉しそうに目を細めたみどりに、車椅子を押していた紺野は何気ない調子で問いかける。
「歩きますか?」
みどりは目を丸くして、車椅子を押す紺野を振り仰いだ。
「八キロメートル以上あるのよ。電動じゃないし……」
大通りの向こう側、少しだけ顔をのぞかせている河川敷に目を向けながら、紺野は穏やかな表情を浮かべていた。
「僕は構いません」
みどりはしばらく考えるように黙りこんでいたが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「……だめ。あなた、退院したばかりなのよ。そんな無理をしたら、また体をこわしてしまう」
それから、曲がり角の向こうに見える駅の入り口を指し示した。
「あの駅なら、エレベーターがあります。電車に乗りましょう」
「分かりました」
紺野は素直にうなずいた。
駅に着くと、窓口の駅職員に一番前の車両に乗ることを伝え、ホームに降りる。一番前で待っていると、ホームと電車の間に渡す板を抱えた駅員が早足で歩いてくるのが見えた。
「連絡の渋谷駅と、上南沢駅に連絡はしていただけましたか?」
「はい。連絡してあります」
駅員はそう言って時計を見た。程なく、乗車予定の電車が滑り込んでくる。扉が開くと、駅員は素早くその板を電車とホームの隙間に渡した。
「ありがとうございます」
みどりは丁寧にお辞儀をし、電車に乗り込むと車椅子のストッパーをかけた。紺野も持ち手をしっかりと握る。
低い音を立てて扉が閉まり、ゆっくりと電車が走り出す。
電車は徐々にスピードを上げながら日差しのきらめく鉄橋を渡り、騒々しい音ともに地下に入った。
紺野が黙って窓の外を駆け抜けるオレンジ色の明かりを見送っていると、みどりがおもむろに口を開いた。
「電車に乗るの、久しぶりなんですよ」
「そうなんですか?」
地下鉄の暗い窓にぼんやりと、ほほ笑むみどりの顔が映っている。
「だから、何だか楽しいわ。遊園地にでも来てるみたいで」
紺野も少しだけ表情を柔らげたようだった。
「そうですね。僕もです」
「紺野さんも、久しぶりなの?」
「はい。たいてい歩いてましたから」
「あら、同じだわ」
みどりがそう言って笑ったときだった。
何か不穏な気配が意識をかすめた気がして、紺野は口をつぐんだ。
感覚を研ぎ澄ませて周囲を見回すが、空いた車内に怪しい様子は見られない。
「紺野さん?」
紺野の様子に気づいたみどりが怪訝そうに問いかけたが、紺野はそれには答えず、さらに意識を鋭くとがらせる。
その時、電車はみじんもスピードを緩めず、停車予定の四軒茶屋駅を通過した。
流れ去る駅ホームを目を丸くして見送っていた乗客達が、動揺して騒ぎ始める。
「え? どうして通過なの?」
「ちょっと待て! 俺、降りるんだけど……」
その時、ある予感にとらわれた紺野は、先頭の乗務員室をのぞきこみ……息をのんだ。
遮断されているのだろう、乗務員室内部はぼんやりとしか様子が分からなかった。だが、そこには確かに、ゆっくりと渦を巻いている赤い気が見える。左奥の運転席では、意識を失っているのだろうか、運転手がハンドルに突っ伏した姿勢で動かない。スピードメーターが、じりじりと上昇していく。
――あの子どもだ!
すぐさま乗務員室に転移しようと思った。だが、遮断されているとなると、かなりのエネルギーをかけて転移するか、転移と同時に物理的な攻撃をかけなければ通過できない。この遮断は、電車の先頭部が大破するレベルのエネルギーで転移しなければ突破できない。先頭部を大破させることなど当然できないし、物理攻撃をかけるにしても、この狭い車内であまり強い能力を行使すれば、エネルギーのぶつかり合いでどんな影響が出るかも分からない。乗客や運転手にケガを負わせてしまうかもしれないし、電車の計器類に影響が出てしまう可能性もある。
「紺野さん、これってもしかして……」
不安そうに問いかけるみどりに黙ってうなずいてみせると、車内を見回す。
車内は徐々に混乱の様相を呈してきていた。携帯で必死にどこかへ連絡を取る人、席を立ち、周囲の状況を確認しようとする人、不安そうに泣き出す子ども……。
――早く何とかしなければ。
焦燥感に駆られつつ、ふと進行方向に目を向けて、紺野は愕然とした。この車両の前方、暗く沈んだ線路のはるか先に、小さく先行車両の尾灯が見えるのだ。どうやらATC(自動列車制御装置)の機能も停止しているらしい。追突するのは時間の問題だ。
紺野は、やおら乗務員室の小窓に渡してある銀色の棒をつかんだ。
両手からほとばしり出た白い気が、棒を留めていた左右のビスに集積した瞬間、ビスは蒸発して棒は窓から外れ、紺野は意外に重たいその棒をいくぶんよろけながら握り直す。
みどりをはじめ、乗客達は皆、紺野の握っている棒がいきなり窓から外れたので、あっけにとられてその動向を見守っている。
紺野はその棒を両手で握りなおすと高く振り上げ、乗務員室の窓ガラスに向かって勢いよく振り下ろした。
ガラスの砕け散るとがった音が響き渡り、車内の乗客たちは息をのんで紺野を見つめる。
棒とガラスが接触した瞬間。棒を伝って細く鋭く放射された白い気が、シールドを局所的に突破する。突破した穴から周囲に拡散した白い気が、連鎖反応のようにシールドをつき崩していく。
そうこうしている間にも、前方には先行車両の尾灯がどんどん迫ってくる。間もなく次の停車駅、川尻大橋。先行車両はスピードを落としはじめた。たちまち接近を早める、尾灯。
紺野は割れたガラスの穴に手を突っ込み、ドアを開ける鍵を探る。割れたガラスの切っ先が紺野の腕を容赦なく傷つけるが、そんなことに構っている暇はない。程なく見つかった鍵を開けると、扉を開けて運転室に飛び込み、運転士の脳内を探って非常ブレーキの情報を読み取ると、倒れている運転手の体の下に手をつっこみ、黒いハンドルを力いっぱい一番奥まで押し倒した。
「キャーッ!」
「うわあっ!」
うろついていた乗客は停止による衝撃でよろけ、慌ててつり革や手すりにすがりつく。転倒したのだろうか、車内から、子どもの泣き声が響いてくる。
みどりの車椅子も、かけてあったストッパーが外れたのか、滑るように進行方向に走り出した。思いがけない事態の連続で動転しているのか、みどりは息を飲むと、頭をかかえてかたく目をつむる。
突然、前のめりに体が引っ張られる感覚に襲われ、みどりははっと目を開いた。
慌てて後ろを振り仰ぐと、そこには紺野が立っていた。大慌てで転移してきたのだろう、肩で息をしながらも、ホッとしたようにみどりを見つめる。
「紺野さん、電車は……」
「大丈夫です。ぎりぎり……」
と、後方の車両から、かっぷくのよい車掌が上体を揺すりながら走ってきた。ガラスが割れ、扉が開きっぱなしの乗務員室に駆け込むと、突っ伏している運転手の両肩に手をかけ、その体を揺すってから、あわただしく無線連絡を始める。
ぼうぜんとそれを見ていた紺野だったが、ハッとしたように目を見開くと、急いで追跡を試みる。だが、当然ながら赤い気は跡形もなく消えうせていた。
――追跡できなかった。
今回、おそらくあの子どもは間に普通の人間を挟まず、近傍から直接電車を操っていた。即座に追跡できていれば、あいつの居場所を突き止められた可能性が高い。しかし、事故を防ぐのとみどりを守ることに必死で、とてもそこまで気を回している余裕がなかった。
紺野が自分の至らなさに肩を落としてため息をついた、その時だった。
「紺野さん、その腕!」
「え?」
突然響いた金切り声に、紺野は驚いて顔を上げた。見ると、車いすのハンドルを握っている自分の右腕が、手を突っ込んだ際にガラスの切っ先で傷つけたのだろう、いくつもの裂傷から流れ出した血で赤く染まっている。
「ああ、大丈夫です。このくらい……」
意にも介さない様子の紺野を尻目に、みどりは自分のカバンの中から大判のシフォンスカーフを取り出すと、無言で傷だらけの腕を引き寄せ、包帯がわりに巻きつけはじめた。
紺野は目を丸くして手を引きかけるも、みどりはしっかりと腕を押さえて離さない。
「て、寺崎さん……」
うろたえる紺野に構わず、みどりはてきぱきとスカーフを巻き終えると、にっこりほほ笑んでみせる。
「ちょっとたりないけど、がまんしてね。取りあえずだから」
「……ありがとうございます」
紺野は恐縮しきった様子で頭を下げると、乗務員室の様子をうかがった。運転手の意識が戻ったらしく、状況を伝えている声が聞こえる。車内放送は先ほどから、緊急停止の謝罪を繰り返し伝えている。車内では小さな子どもが一人、衝撃で転倒したのか泣きわめいている声が聞こえるが、どうやらケガはしていないようだ。二両目、三両目……最後尾までくまなくトレースするも、ケガ人が出ている様子はなかった。
紺野はホッとひと息ついたが、すぐに表情を曇らせると、改まった様子でみどりに向きなおり、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
みどりはキツネにつままれたような表情で、紺野の茶色い頭を見上げて首をかしげた。
「? 何がですか?」
「危ない目に、遭わせてしまって……」
自分と一緒にいるということは、こういうことなのだ。紺野はこわばった表情で、車いすのハンドルをきつく握りしめた。
「何を言っているの。あなたのせいじゃない」
「……え?」
目を丸くして顔を上げた紺野の目に、困ったように笑うみどりの顔が映りこむ。
「こんなの、あなたが謝ることじゃないわ。それどころか、あなたは電車に乗っている私たち全員を助けてくれたのよ。こちらこそ、お礼を言わなければ。本当にありがとうございました、紺野さん」
ていねいに頭を下げてから、再び顔を上げたみどりの目は、少しだけ潤んでいるようだった。
「でも、確かにつらいわ。そのために、あなたがケガをするのは……。よく紘が言っていたけど、本当ね」
みどりは紺野の傷だらけの腕を取ると、スカーフの上から愛おしそうに両手で包み込む。紺野は驚いて手を引きかけたが、思い直したようにその動きを止めると、みどりに腕を預けた。
薄暗いトンネルの中を、いくつもの明かりが揺れながら近づいてくるのが見えた。前方の川尻大橋駅から、駅員や救急隊員、警察官らが駆けつけたのだろう。ようやく助けが来ることを知り、車内の乗客達は一様に安堵の表情を浮かべている。
みどりに預けた腕の温かみを感じながら、紺野はその様子を黙って見守っていた。