5月9日 2
親しい友人が面会に来たのだろうか、向かい側のベッドから、にぎやかな笑い声が響いてきた。
玲璃ははっと目をさますと、弾かれたように体を起こした。いつの間にか眠ってしまったらしい。同時に、肩に掛けられていた何かが床に落ちる。拾い上げてみると、それは男物のジャージだった。
ジャージを拾い体を起こして、玲璃はどきっとした。目の前に、紺野が倒れているのだ。先ほどまでの玲璃と全く同じ姿勢で、ベッドに突っ伏している。手には、なにやら書類のようなものを持ったままだ。
「こ……」
声をかけようとしたが、やめた。規則的な静かな呼吸。穏やかな表情。どうやら、紺野も眠ってしまっているだけらしい。玲璃はほっとして立ちあがると、自分にかけられていたジャージを、そっとその肩にかけてやった。
紺野の顔が見える位置に丸椅子を移動して腰を下ろすと、じっとその顔を見つめてみる。
こんなに近くで、まじまじと紺野の顔を見るのは初めてだった。本当に穏やかな顔をして眠っている。長いまつ毛、ちょっと開いた口元。さらさらの茶色い髪が、その顔の半面を覆っている。
――かわいい。
思わず、くすっと笑ってしまう。とてもあんな過去をしょった、実質三十過ぎの男には見えない。
紺野は、右手に書類のような物を持ったまま、腕を前に伸ばすような姿勢で眠っている。玲璃はふと、その書類に目をとめた。
――契約、書?
顔を近づけてよくよく見てみると、それはどうやら、自分の護衛をするにあたっての契約書らしかった。一番下には、紺野が書いたとおぼしき署名が見える。こなれた、大人っぽい字だ。玲璃は感心しつつ、見える範囲でその契約書を拾い読みし始めた。
――日給一万円、八時間労働か。
自分の護衛って、そのくらいの単価なのか。何も知らない自分を情けなく思いつつ、さらに読み進めていくうちに、玲璃はふと、気になる文言に目を留めた。
『上記の者が、被保護者に対し不適切な行為を行ったと監督者に見なされた場合、事前の通告なくバグ(下記参照)を作動させるものとする』
――何だろう? これ。
玲璃は紺野の手からそっと契約書を取ると、もう一度読み返してみた。そして、下記参照となっている「バグ」というものについての説明にも目を通してみる。
『バグ:能力影響遮断処理済み超小型爆弾』
――爆弾?
玲璃の背筋に、ゾッと寒気が走った。
慌ててもう一度、最初から読み返してみる。
――上記の者とは、紺野のことだろう。被保護者というのは、恐らく、自分だ。紺野が私に、不適切な行為……私を傷つけたり、ということだろうか? そうした場合、爆弾を……作動させる?
背筋を駆け上がる戦慄に、玲璃は呼吸すら止めてその書面を見つめた。
――紺野が私に何かした場合、爆弾を爆発させて、殺すということなのか?
心拍が爆発的に早まるのを感じながら、ゆるゆると目線を紺野に移す。何とも、穏やかな表情で眠っている。いつも思うが、こういうときの紺野は本当に無防備だ。これは紺野の場合、安心しきっているというより、自分がどうなろうと構わないという意識に通じているような気がする。しかも、彼はたった今、こんな恐ろしい契約書に判を押してきたばかりなのだ。自分が何か間違いを犯した場合、問答無用で抹殺されるという条文を含んだ契約書に。
玲璃は何とも言えない表情で紺野を見つめた。改めて自分の護衛をさせるということが、紺野にとってどれほどの危険を伴い、どれほどの負担をかけるものなのかを思い知らされる気がした。日給一万円では割に合わないくらいだ。
唇の隙間から震えるようなため息を漏らすと、玲璃は書類を返そうと紺野の手に目を向けた。
前方に伸ばすような姿勢で置いているため、袖口がめくれ上がり、少しだけ腕の内側が見える。そこに何気なく目を向けた玲璃は、ハッとして動きを止めた。
まるで切り刻んだかのような跡が、無数についているのだ。
――何? これ。
どきどきしながら手を伸ばし、めくれ上がった袖を、さらに三センチメートルほどめくってみる。
――!
玲璃は、瞬きすら忘れてその腕に見入った。
腕一面にくっきりと刻み込まれた無数の傷跡。袖をまくり上げれば、まだまだ隠されていそうだった。
――これって、リストカットの、跡?
ぼうぜんと傷跡に見入る玲璃の脳裏に、寺崎の言葉がよみがえる。
『それは、紺野の手……』
――紺野の手って、このこと?
ゆるゆると、眠っている紺野の顔に目を移す。
先日、あの河原で紺野が口にした言葉が頭を過ぎる。
『あなたがたと出会って、僕はこの一カ月間、本当に幸せなんです』
何とも穏やかな表情で眠っている紺野。確かに今、彼は幸せなのだ。負担の大きい仕事を任され、爆弾まで仕掛けられて脅されようとも、今まで彼が過ごしてきた地獄のような時間にくらべれば、はるかに幸せなのだ。
玲璃の目から、せきを切ったように涙があふれた。あとからあとから止めどなくあふれ出る。
しゃくり上げる玲璃の声に気づいたのか、紺野が目を覚ました。はじめは、眠ってしまった自分自身に驚いた様子だったが、目の前で泣き崩れる玲璃に気づき、戸惑ったようだった。
「あ、あの……」
慌てた様子で半身を起こし、怖ず怖ずと玲璃に声をかける。
「すみません。神代先生に診察していただいていたので、部屋を空けてしまって。眠っていたので声をかけずにいたんですが、僕も寝てしまったらしくて……すみませんでした」
自分のせいで泣いたとでも思ったのか、紺野は謝って頭を下げたが、玲璃はそれには応えず、相変わらず肩を震わせしゃくり上げ続けている。紺野の表情に、心配と不安がありありとにじんだ。
「本当に……どうしたんですか?」
玲璃は顔を上げると、潤んだ瞳で紺野の顔を真っすぐに見た。
「紺野」
「はい?」
「私は……」
喉を震わせて言葉を切る。瞬きとともに、再び涙が流れ落ちる。
「私は絶対、おまえを、幸せにしたい」
なにが言いたいのか全く理解できないらしく、紺野は困惑しきったような表情を浮かべている。玲璃は顔を赤らめると、慌てたように大きく頭を振った。
「……いや、それじゃおかしい。何て言ったらいいのかな」
玲璃は、自分の気持ちがうまく言葉にできないことに苛立っている様子だった。
「私はとにかく、おまえに、もっと幸せになってほしいんだ。だから、つまり……」
中空に目線を泳がせながら必死で言葉を探していたが、ようやく言い表せそうな言葉を見つけたのか、真っすぐに紺野を見つめると、こう言い放った。
「私は、おまえのことが大好きなんだ」
あまりにもストレートなその物言いに、紺野は目を丸くして凍りつくと、たちまち耳の先まで真っ赤になった。
玲璃も、言ってしまってからそのおかしさに気づいたらしく、真っ赤になって焦りまくりながらこう付け足した。
「いや、それは……男と女の、そういうんじゃなくて、人間として、友だちとして、好きってことで……、だから、つまり……」
呼吸を整え、再び紺野に目線を合わせる。
「何か、悩んでいることとか、悲しいこととかがあったら、言ってほしい」
紺野は表情を改めると、玲璃の顔をじっと見つめた。
「一人で悩むな。話せば、楽になることもある。確かに、私なんかに言ったってどうにもならないかもだけど、でも、一人で悩むよりは、誰かに話した方が、少しはマシになるかもしれないから……」
玲璃は懸命に言葉を探した。自分の気持ちを伝えようと必死だった。もう、絶対にあんなことはしてほしくない。ただその一心だった。
その時、玲璃を見つめる紺野の目に、ふっと優しい色が浮かんだ。
「もしかして、……見たんですか?」
そっと自分の腕を押さえた紺野を見て、玲璃は表情を硬くした。
「あ、いや、持っていた書類を見せてもらったんだ。その時、ちらっと……」
しどろもどろに言いかけてから、神妙な顔つきで言葉を飲み込む。
「……すまない」
紺野は首を振ると、黙ってどこか遠くを見つめていたが、やがて目線を落とすと、静かに口を開いた。
「これをしていないと、いられない時期がありました。記憶が戻った直後です」
玲璃は神妙な面持ちで、うつむき加減で語る紺野の茶色い前髪をじっと見つめた。
「受け止めきれなかったんです、自分がしてしまったことの重みを……。美咲さんを殺してしまった事実も、あの事件で亡くなった方の記憶を夢に見ることも、耐えられなかった。眠るのが、怖くて。一晩中、切っていました。ほとんど毎日……」
紺野の語り口は淡々としていたが、抑制されたその言葉には、かえって紺野の追い詰められた心情が凝縮されているようで、聞いているうちに玲璃の喉は不規則にふるえ、目からは勝手に水分があふれた。
紺野はそのやつれた頬に、どこか自嘲的な笑みを浮かべた。
「僕は、……弱い。われながら、情けないです。もっと、強くならないと……」
「おまえは、弱くなんかない!」
突然、玲璃が耐え切れなくなったように叫んだ。
驚いて顔を上げた紺野の目に、涙でグシャグシャになり、その上、鼻水なんかすすり上げながら、それでも自分をまっすぐに見つめている玲璃の顔がうつりこむ。
「弱いやつが、大ケガをしてまで他人のことなんか助けられるか? 私はそうは思わない。おまえは弱いんじゃない。優しいんだ」
紺野は、その目を大きく見開いた。
脳裏に、先日、亨也にかけられた言葉がよぎる。
【あなたが他人に対して……まあ、いささか自虐的なのは考えものですが、優しい対応をしているからこそ、他人も同じことをあなたに返そうとするのでしょう】
玲璃は涙をポロポロこぼしながら、それでも優しい目で紺野を見ていた。
「おまえは本当に優しい。だから私は、おまえが好きなんだ。でも時々、優しすぎて怖くなるときがある。人のことばかり考えて、自分のことを全然考えていない」
そう言うと、怖いくらい真剣なまなざしで紺野を見据える。
「おまえ、もっと自分を大切にしろ」
紺野はハッとしたように息をのんだ。
「そうしてくれないと、私はつらいんだ。おまえに護衛をやってもらっても、心配でしょうがない。私はもう、おまえに、死ぬような目に遭ってほしくないんだ」
そこまで言うと、玲璃は口を閉じた。泣きはらしてすっかり赤くなった目で、動けずにいる紺野をまっすぐに見つめる。
紺野は、玲璃の真摯なまなざしを受け止めきれずにうつむいた。
その拍子に、床にぽとんとひとつ、小さな滴がこぼれ落ちる。
「……紺野?」
紺野の足元に、次々に水滴がしたたり落ちていく。
玲璃は、かけるべき言葉を見失ったのだろう。開きかけた口をつぐむと、心配そうに紺野を見つめた。
その視線を感じたのか、紺野は慌てて涙を拭うと、苦笑めいた笑みを唇の端に浮かべた。
「このところ、本当によく泣いてます……三十年以上生きてきて、こんなことは初めてです」
そう言うと、顔を上げて居住まいを正し、深々と頭を下げる。
「本当に、ありがとうございます。できるだけみなさんにご心配をかけないように、努力します」
玲璃も、ようやく表情を緩めた。
「約束だぞ」
「はい」
うなずき返した紺野を見て、玲璃は心底ホッとしたように息をつくと、大きく伸びをした。
「ああ、よかった。私も、思い切って恥ずかしいこと言ったかいがあった」
そう言ってから、紺野を横目で見ていたずらっぽく笑う。
「でも、おまえが好きなのは、ホントだからな」
たちまち硬直して真っ赤になる紺野を見やりながら、玲璃はくすくす笑った。
「ヘンな誤解はするなよ。あくまで友だちとして、って意味だからな」
焦りまくりながら何回も頷いてみせる紺野の様子がおかしくて、玲璃は笑いながら、なんだか思い切り抱きしめてやりたいような気さえしてくるのだった。