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輪廻  作者: 代田さん
第一章 邂逅
69/203

5月9日 1

 5月9日(木)


「本当か⁉」


 思わず大きな声を出してしまい、玲璃は慌てて口元を抑えて周囲を見回した。

 下校する生徒たちが、いぶかしげに振り返りながらそんな玲璃を見送っていく。


「本当っす」


 苦笑しながら寺崎がうなずくと、玲璃は口元を抑えた格好のままで重ねて問う。


「いつから、なんだ?」


「退院が明日なんで、明日からっすかね」


「そうかぁ……」


 玲璃はまだ驚きさめやらぬ様子で、はあっと息を吐いた。


「よかった、そうか、おまえのところに……」


「すんません、報告が遅れて。本当は、この間の会合の時に提案するはずだったんすけど、あんなんで言いそびれて、それからいろいろあって、やっと決まったんで」


 玲璃はかぶりを振ると、背の高い寺崎を見上げて大輪の花のような笑顔をうかべた。


「ありがとう、寺崎」


 その笑顔を見た途端、一気に心拍数が増し、寺崎は慌てて目をそらす。


「あ……いえ、別に、それほどのことじゃないっすから……」


「それにしても、偉いな。おまえのお母さん」


 寺崎は深々とうなずいた。


「俺もそう思います。俺なんかはまだ生まれてなかった訳だから、あの事件にはそれほどこだわりがない。けど、おふくろはリアルタイムでその渦中にあったんっすから」


「どうして、そう思ったんだろうな」


「それは、あいつの手……」


 寺崎は、ハッと言いかけた言葉を飲み込んだ。


「?  あいつの、……なんだ?」


 怪訝そうに玲璃が聞き返すと、寺崎は曖昧な笑みを浮かべながら慌てたように手を振った。


「……いや、何でもないっす。とりあえず、総代はこれから会議ですか?」


「いや、今日は何もない。それより、さっきの続きは何だ? ……手?」


「いえいえ、ほんと、何でもないっす。じゃあ、これで帰りですよね。俺、今日も、うちの方の準備しなきゃならないんで、帰ります。じゃ、総代、お先に失礼しまーす!」


 寺崎は慌ただしくそう言い捨てると、まだ何か言いたげな玲璃を残し、あっという間に校門の向こうへ走り去ってしまった。



☆☆☆



――紺野の、手?


 エレベーターに乗り込んだ玲璃は八階のボタンを押し、階数表示を見上げながら、先ほどの寺崎のセリフを思い返していた。


――一体何を言いかけたんだろう? 手が、どうかしたんだろうか。


 首をかしげつつエレベーターを降りると、ホールから廊下を抜け、八〇三号室をそっとのぞく。静かな病室の一番奥、紺野のベッドは間仕切りカーテンが閉まっていて、中の様子は分からない。玲璃は他の患者に会釈をしながら一番奥まで来ると、カーテンの隙間から中をのぞいた。

 ベッドには、誰もいなかった。

 玲璃は拍子抜けしながら辺りを見回したが、すぐに戻ってくるだろうと思い直し、枕元の丸椅子に腰掛けて待つことにした。



☆☆☆



 その頃紺野は、亨也の診察室にいた。

 ひと通り診察が終わり、紺野は亨也から説明を受けるために丸椅子に腰掛けて待っていた。

 しばらくして、亨也が入ってきた。側にいた看護師に席を外してくれるように頼むと、亨也は手元のカルテに目を通しながら回転椅子に腰を下ろした。


「だいたい、いいようですね」


 亨也はほほ笑むと、カルテを机の上に置く。


「明日の退院で、問題ないでしょう」


「本当に、何と申し上げればいいか……。ありがとうございました」


 深々と頭を下げた紺野に首を振ってみせると、享也は引き出しの中から二枚の紙を取り出し、紺野に手渡した。

 それは、何かの契約書のようだった。氏名を書く欄や押印をする欄が見える。


「これは?」


「契約書です。玲璃さんを護衛するにあたっての。いちおう、大人同士の取り決めですから、書いておいてもらった方がいいでしょう」


 紺野にペンを手渡すと、亨也は説明を始めた。


「こちらに、玲璃さんの護衛にあたる時間や、報酬のことが詳しく書いてあります。通学時の基本給は日給で一万円。月末に一括して支払います。特別に何かあったときは柔軟に対処していただきますが、朝八時から午後四時まで、昼食時や休憩時も含めるのでおおよそ八時間労働です。これは、寺崎さんの契約とほぼ同じ内容です」


 紺野はうなずきながら、さっそく氏名欄に整った楷書で名前を書き入れる。


「押印は印で結構ですよ。……ただ、寺崎さんと違う点は二点ほど。一点はあなたに支払われる報酬のうち、月々七万円を天引きさせていただくということ。これは、今回の入院手術費、総額で四百三十二万円ですが、その返済に充てていただきます。もう一点はおわかりだと思いますが、玲璃さんに万が一、あなたが危害を加えたと判断された場合、バグのスイッチを押させていただくということ。この二点です」


 そう言うと、亨也は朱肉を用意しながら困ったように笑った。


「まあ、後者に関しては、私はもう心配してはいません。せいぜいわれわれの方が、第三者に悪用されないようスイッチの管理を徹底するくらいです」


 紺野は丁寧に印を押し、契約書を亨也に手渡すと、おずおずと問いかける。


「いいんですか? 報酬までいただいて……」


 亨也は当たり前のようにうなずいた。


「労働に対し、それに見合う報酬をお支払いするのは当然のことです。あなただって、生きていかなければならないんですから」


 生きていく……紺野はその言葉の響きに打たれたように、神妙な表情を浮かべる。亨也は、そんな紺野を優しい目で見つめた。


「生きてください。あなたが生まれ変わったのには、私は意味があると思いますよ。というより、意味を持たせなければ、美咲さんも浮かばれないでしょう」


 より一層肩をすぼめて縮こまる紺野を見て、亨也は申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「すみませんね、嫌なことばっかり言って……。一応、これでも同い年として接しているつもりなんです。だから、甘いことは言えません。大人ですから」


 すると紺野は、大きく首を振った。


「そんなことはありません。言っていただいて、本当にありがたいんです。自分でも思うんです、子どもだと……。もっと、しっかりしなければ」


 亨也はほっとしたようにほほ笑むと、契約書の写しを紺野に差し出した。


「あなたは抱えているものが大きすぎるから、仕方のない部分もあるでしょう。とにかく、これで正式に契約は完了しました。改めて、よろしくお願いします」


 亨也が頭を下げると、紺野も慌てて頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 亨也は顔を上げると、少しの間紺野を見つめてから、おもむろに口を開いた。


「……で、退院後のことは、寺崎さんから連絡していただいたとおりで、よろしいですね」


 紺野は目線を手元に落としたまま、黙ってうなずいた。緊張しているような面持ちだった。亨也はそんな紺野を優しい目で見つめた。


「がんばってください」


 紺野は目線を落としたままで、「はい」と短く答えた。

 紺野が診察室を出る時、入れ替わりで沙羅が入ってきた。病室へ戻る紺野の後ろ姿を入口にたたずんで見送ってから、沙羅は亨也の方に顔を向けると、くすっと笑った。


「総代、あの男には妙に親切ですよね」


 亨也は「そうかな」と言うと、恥ずかしそうに笑った。


「いや、何だろうね。どうも、ほうっておけない感じでね」


 沙羅はほほ笑みながら、本当に何気なく呟いた。


「まるで、総代の弟みたい」


 その言葉に、亨也は目を見開いた。

 亨也はしばらくの間、手元のカルテに目線を落としたままの姿勢で動かなかった。



☆☆☆



 エレベーターの中で、紺野は契約書にもう一度目を通した。

 日額一万円を支給と明記されている。

 紺野は、働くのは初めての経験だった。三十年以上生きてきたとはいえ、そのほとんどを子どもとして過ごしたため、必然的に労働という経験をしないまま、ここまで来てしまっていた。

 紺野はどきどきしていた。自分の労働で、賃金がもらえる。自分で、自分の生活を成り立たせていくことができる。自分で、自分を生かしていくことができるのだ。嬉しいような、緊張するような、不思議な気分だった。

 八〇三号室に戻り、自分のベッドの間仕切りカーテンをくぐって、紺野は目を見開いた。

 丸椅子に座り、ベッドに倒れ込むようにして、誰かが眠っているのだ。

 ふんわりとした髪に縁どられたきめの細かい肌。閉じた瞳を彩る長いまつ毛、通った鼻筋に、花のつぼみのような唇。……魁然玲璃だった。

 自分を待っている間に眠ってしまったのだろうか。紺野は戸惑ったように辺りを見回した。声をかけようかと、その肩に手をのばしかける。だが、規則的で安らかな呼吸を繰り返す玲璃の寝姿に、その手が止まった。

 紺野はベッドの反対側にもう一つ丸椅子を出すと、そこへ腰掛けた。

 紺野の座っている位置から、玲璃の寝顔が少しだけ見える。安心しきって、気持ちよさそうに眠っている。幸せそうなその寝顔を眺めるうち、不思議と紺野自身も、安らいだ気分になっていくのを感じていた。

 紺野は、洗濯して先ほど畳んだばかりのジャージの上着を手に取ると、眠っている玲璃の肩にそっとかけた。そうして再び丸椅子に腰を下ろすと、先ほど渡された契約書に、もう一度目を通し始めた。

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