5月8日
5月8日(水)
珠洲は、タイル張りの黒ずんだ外壁に掲げられた「ひかりの家」という看板を見上げると、もう一度手元の資料と見比べてから、入り口の自動ドアをくぐった。
中にはいると、ソファに座ってテレビを見ていた独特の顔つきの少年が、人なつっこい笑顔を浮かべてぺこりと頭を下げる。
「こんにちは」
「こんにちは」
珠洲も笑顔であいさつを返すと、その少年に歩み寄った。
「施設長さんは、いますか?」
できるだけゆっくり、分かりやすいように発音したつもりだったが、少年は眉をひそめて首をかしげた。
「シセツチョウ?」
「施設長さん……南雲さんですけど」
「ああ、ナグモさん!」
少年は嬉しそうに満面の笑みを浮かべると、パタパタと足音を響かせて奥の部屋へ駆け込んでいった。
程なく、ショートヘアのふくよかな中年女性が、少年とともに奥の部屋から現れた。
「ありがと、千田くん。テレビ見ててね」
「はーい!」
千田と呼ばれた少年がニコニコしながらソファに戻っていくと、中年女性は重そうな体を揺らして珠洲に向き直った。
「お待たせしました。私が施設長の南雲です。ええと……」
「魁然珠洲と申します」
珠洲は警察手帳を見せて、頭を下げた。
「お電話でも申し上げましたが、こちらに通所されていた笠原光男くんについて伺いたいのですが」
「わかりました」
施設長は、ある程度覚悟を決めていたのだろう。すんなりと珠洲を奥の小さな部屋に招き入れた。
小さな窓があるその部屋には、テーブルが二台向かい合わせに並べられ、それぞれにパイプ椅子が一脚ずつ備え付けられている。南雲は奥の席に、珠洲は入り口に近い席にそれぞれ腰を下ろした。
「光男くんが行方不明になったのは、先週末のことです」
南雲は席に着くと、暗い表情で口を開いた。
「彼は一カ月ほど前からここに通所するようになった子で、足は不自由ですけど、知能的な遅れも少ないし、活発で、面倒見もよくて、本当にいい子だったんです」
そう言うと、ため息をついて首を振る。
「それが、どうしてあんなことを……」
テーブルに肘をつき、両手で顔を覆うと、南雲は深いため息をついた。
今回の事件は目撃者も多いため、内々にすることはできなかった。光男というあの少年は、意識が戻っていない今は神代の病院にいるが、意識が戻り次第、医療少年院に送致される予定だ。
珠洲は先ほどの話を手早くメモすると、さっそく質問を開始する。
「姿を消す前に、光男君の様子がおかいと感じたことはありませんでしたか?」
南雲は首を横に振った。
「いいえ。本当に急に、何の前触れもなくいなくなったと、親御さんは言っていました。施設の方でも、特に何も……」
「事件のあった五月二日は、光男くん以外の入所者は全員、市営体育館でストレッチ講習会に参加していたんですよね」
「ええ。それは、講師をしてくださっている市の職員の方に聞いていただいても分かります」
「事件のあった日より前に、何か特別な活動はありませんでしたか? たとえば、遠足で施設外に出た、とか……」
「特別な活動、ですか……?」
南雲は中空を見上げて考え込んでから立ち上がり、「少々お待ちください」と言って部屋を出ると、すぐに一冊のファイルを手にして戻ってきた。
席に着くと、さっそくページを繰り、目当てのページを食い入るように見つめる。
「先週末の活動……特に変わったことは、何もありませんでしたね。つどいの家との交流は、隔週で行っている年中行事ですし」
「つどいの家?」
「ええ、隣の地域にある、障害者支援施設です。行動範囲を広げたり人間関係を広げたりするために、隔週でその施設の利用者の方を受け入れて、交流活動をしているんです。でもそれは、三年前から行っている日常活動で、特別なものではありません。いらっしゃる方も決まっていますし」
「そうですか。念のため、そのつどいの家の情報……施設の連絡先や、交流活動に来られた方の名簿など、コピーさせていただいてもよろしいですか」
「分かりました」
所長は再び部屋を出ると、程なく資料を手にして部屋に戻ってきた。
珠洲はコピーを受け取り、捜査協力に丁重に礼を言うとひかりの家をあとにした。
駅前のコンコースを歩きながら、署長から渡された交流活動参加者の名簿に目を通す。当然のことながら、知った名前はない。
――でもまあ、とりあえず、この施設もあたっておくか。
珠洲は急ぎ足で雑踏を抜け、駅構内に入っていった。
☆☆☆
「紺野!」
洗濯物を畳んでいた紺野は、入口の方から響いてきた大声にぎょっとして振り返った。
見ると、あふれんばかりの笑顔を浮かべた寺崎が、目を丸くしている同室の患者には目もくれず、手を振り回しながらまっすぐに紺野のもとへ駆けよってくる。
紺野は慌てて「すみません」と言いながら他の患者に頭を下げた。
寺崎はそんなことにはお構いなしに、洗濯物を片手に持ったままの紺野の両肩に勢いよく手を置いた。
「聞いた! 昨日はマジでありがとな!」
「あの、……?」
「昨日のことだよ。おふくろのこと、助けてくれたんだろ」
言われて、ようやく何のことだかわかったらしい。紺野は遠慮がちに頭を振った。
すると、いきなり寺崎の大きな手のひらが自分の額にきつく押しつけられたので、紺野は目を丸くして凍り付いた。
「……?」
「うん、熱はないな」
あっけにとられている紺野を尻目に、寺崎はほっとしたように手を外すと、ベッドわきの丸椅子に腰掛ける。
「だって、びしょぬれになったんだろ。よく熱出すからさ、おまえ」
紺野は困ったように笑うと、手にしていた洗濯物を畳んでベッドに腰掛けた。
「すごい勢いですね、寺崎さん」
「まあな。いろいろ忙しいんだ、俺。時間は有効活用しねえとな」
「お忙しいのに、わざわざすみません」
紺野はまじめな顔でそう言うと、頭を下げる。嫌みではなく、本心から言っているらしい。紺野は冗談が通じないところがある。寺崎は苦笑したが、自分もまじめな表情になると、身を乗り出した。
「……で、どうする?」
「え?」
その真剣なまなざしに、紺野もドキッとしたような顔で動きを止める。
「おふくろからも聞いたんだろ、例の話」
紺野は、寺崎の視線から逃れるように目線を落とした。
「俺もおふくろも同じ気持ちだ。それは分かっただろ」
紺野は何も言わなかったが、小さくうなずいた。寺崎はそんな紺野を、怖いくらい真剣に見つめている。
「どうする?」
紺野の返答はなかった。足元に目線を落として黙っている。
寺崎もそれ以上、急かすようなことは言わなかった。窓からの風に吹かれて揺れる紺野の前髪を眺めながら、静かに次の言葉を待っている。
「……します」
ふいに、囁くような声が聞こえた。
が、あまりに小さい声だったのと、少しぼんやりしていたこともあり、寺崎はうっかり聞き逃してしまった。
「は? 何だって? ゴメン、 もう一回言ってくれ」
すると、紺野は意を決したように顔を上げ、寺崎の目をまっすぐに見つめると、かみしめるようにこう言った。
「お願いします」
寺崎は大きくその目を見開いた。
ごくりと唾を飲み込むと、幾分上ずった声で聞き返す。
「……てことは、つまり、どういうことだ?」
紺野は目線を斜め下にそらすと、よほど言いにくいのだろう。不自然に言葉を切りながら、小さい声でその問いに答えた。
「一緒に、……暮らさせて、ください」
寺崎は、それこそ皿のように目をまん丸くして固まった。
胸一杯に吸い込んだその空気を吐き出すのと同時に、感極まったように叫ぶ。
「……紺野ぉ!」
座っていた丸椅子を跳ね飛ばす勢いで立ち上がると、寺崎は紺野を思いきり抱きしめた。
「……!」
紺野は息をのみ、真っ赤になって凍り付く。
「ありがとう、紺野! ありがとう!」
寺崎は、泣かんばかりに繰り返しながら紺野を抱き締め続ける。紺野は締め付けられて苦しいのか、それとも何か心苦しいことでもあるのか、どちらともつかないような複雑な表情を浮かべながら、なにも言わなかった。
「そうかぁ、決心してくれたか。マジですげえなあ、おふくろ。やってくれるよな……」
寺崎は、興奮冷めやらぬ様子でつぶやきながら体を離すと、紺野の肩に両手を置いた。
「じゃさ、俺、今から家に帰って準備始めるわ。おまえの部屋とかちゃんと準備しなきゃだもんな。忙しくなるなあ。じゃ、俺、今日はこれで帰るわ。また来る。ありがとな!」
一方的にまくし立てると、固まっている紺野に構わず笑顔で手を振り病室を出て行く。
台風一過のように静まり返った病室に取り残された紺野は、ため息をつくと、硬い表情でうつむいた。
言い訳がましいことは何ひとつ言わなかった。彼は覚悟を決めたのだ。今後、彼らの身に何が起きても、自分が命をかけて守りきる。どんなことがあろうとも。もし万が一、彼らの身に何か起きれば、その全てを自分の責任として引き受ける。紺野はそう覚悟を決めた上で、寺崎家での同居を決意したのだ。
過呼吸を起こしているのだろうか。強い息苦しさに耐え切れず、紺野は右手で強く胸の辺りを抑えつけた。
紺野は恐ろしかった。返事をしてしまった以上、もう取り返しはつかない。もし万が一彼らを守りきれなければ、彼らは死んでしまうかも知れないのだ。
――それが、僕の、償い。
紺野は震える両手で自分の肩を抱きしめた。言いようのない不安に、めまいや吐き気すら覚える。だが、亨也が言っていた通り、これが自分の罪に対する償いなら、目を逸らしてはならない。どんなに不安でも、恐ろしくても、真正面から受け止めて、その苦しさに耐えるしかないのだ。
紺野は自分を全く信用していない。能力についても、判断についても。だからなおさら、自分がくだした決断の耐えがたい重みに、押しつぶされてしまいそうな気がしていた。
☆☆☆
「先週末、ひかりの家に交流に行った利用者、ですか……?」
男――障害者支援施設「つどいの家」の施設長は、眼鏡の奥にある神経質そうな細い目で珠洲を斜ににらみながら、不機嫌な声を発した。
「ひかりの家に通所していた笠原光男くんが、傷害事件を起こしたのはご存じですか」
「ええ、まあ……」
「光男くんの交友関係や活動をもとに、事件直前にかかわりを持った人物を洗い出しています。ご協力をいただけないでしょうか」
施設長……西崎洋一は、福々しいひかりの家の施設長とは好対照の、神経質そうな痩せた男だった。彼はチラチラ珠洲に目線を投げながら、もう一人の女性職員と小声で何か話し合っていたが、ややあって、珠洲に向き直った。
「わかりました。こちらへどうぞ」
そう言って招き入れられた奥の部屋では、ちょうど利用者らによる音楽活動が開かれていた。指導者の合図に合わせて、利用者たちが思い思いに鈴や太鼓、タンバリンなどの楽器を鳴らしたり、歌を歌ったりして楽しんでいる。
「今、ここに、この施設の利用者が、ほぼ全員おります」
珠洲はその様子に目をこらした。
車椅子(よりも大きいバギーも含め)に乗っている利用者は四人。年かさの男性と、大人しそうな中年女性、二十歳くらいの屈託のない男性、そして鼻にチューブを入れたもう一人の男性は、自力で手足を動かすのも困難そうな様子だった。どの人の車椅子も、銀色の車輪である。
――この中に、あの子どもが?
珠洲は強い違和感を覚えた。この場にいる利用者の笑顔は一様に屈託なく明るい。年齢的にも全く合わない上に、裏表があるようにはとても見えない。無邪気そのものの彼らの中に、裏で光男を操り、恐るべき凶行を行わせた鬼子がいるとは到底思えなかった。
「事件当日、皆さんはどんな活動をなさっていましたか」
にぎやかなタンバリンの音にかき消されそうだったので、珠洲はいくぶん大きな声で隣に立つ施設長に問いかける。施設長は、たるんだ眉根に深いしわを寄せ、思い出すように中空をにらんだ。
「木曜日、でしたよね」
「はい」
「あの日は作業日ですから、午後はみんなでここに集まって、編み物やビーズ通しなどの作業をしていましたよ」
「全員ですか?」
「作業のできる……つまり、自分の力で多少なりとも動くことのできる入所者は、全員いましたね。それが難しい入所者については、ここには集まりませんでしたが、そういう人は、そもそも捜査の対象外でしょ」
「まあ、そうですね……」
そうなると、ほぼ全員アリバイがあったことになる。
だが、念のため、珠洲は車椅子の利用者の顔写真と個人情報が記された資料を提出するよう施設長に求めた。施設長はかなり難色を示していたが、国家権力には抵抗しきれなかったらしく、渋々コピーを取ってきた。珠洲は慇懃にそれを受け取ると、つどいの家をあとにした。
閉まった自動ドアの向こう、小さくなっていく珠洲の姿を苦虫を噛み潰したような表情で見送る施設長に、女性職員がそっと耳打ちする。
「いいんですか施設長、うちにはもう一人いますよ、車椅子の子が……」
施設長は渋い表情で、ああ、とうなずいた。
「知ってたよ。あの子はどう考えても無理だろ、動けやしないんだから。だいたい、ちょっとした窃盗ならまだしも、ここの利用者にそんな大それた犯罪を考えるような人間がいるわけがない。いいよいいよ、あの子のことは」
小さくなっていく珠洲の後ろ姿をにらみながら忌々しそうに吐き捨てると、西崎は踵を返して奥の部屋へ戻っていった。