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輪廻  作者: 代田さん
第一章 邂逅
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5月7日 1

 5月7日(火)


 とはいえ、何の説得材料があるわけでもない。

 気持ちとしては何とか彼を説得し、一緒に暮らしてやりたい。だが、紺野の言っていたこともまた事実だ。紺野と一緒に暮らせば、何かしら危険なことが起きる確率は高くなる。これを、彼が安心するような解決方法を提示して納得させることは困難だと言わざるを得ない。

 それでもみどりは、足を運ばずにはいられなかった。紺野のところに行って、自分の気持ちだけでも伝えたい。その一心で、彼女は家を出たのだった。

 川沿いのサイクリングロードを、電動車椅子は低い音をたてながら走る。みどりは電車が好きではない。電車に乗ると、何かと他人の手を煩わせなければならないからだ。天気がよければ家でしっかりと充電して静かな道を走っていく方が、彼女にとっては気が楽だった。

 お昼近くの時間帯のせいか、河原を通る人影はまばらだ。向こうからやってくる人も少ないので、いちいち気を遣って避ける必要もない。こういう時間帯に走るのが、みどりは好きだった。

 そろそろサイクリングロードの降り口だ。ゆるやかな坂になっていて、サイクリングロードに車いすで出入りできる場所はわずかしかない。病院に行くためには、この次の降り口で車道に出ないと、サイクリングロードから降りられなくなってしまう。みどりはスピードを落とし、右側によろうとした。

 その時、小さな声が聞こえた気がして、みどりは顔を上げた。

 目線を向けた川岸に、何かが動いているのが見える。車椅子を止めて目をこらすと、それは子猫だった。川べりの芦にしがみつき、今にも流されそうになっている。そばには、子猫が入れられていたらしい空き箱。どうやら、川岸に捨てられていた子猫が、何かの拍子に箱から出て、流されてしまったらしい。

 みどりは辺りを見回した。人通りは皆無だ。猫の小さな鳴き声だけが、川の音にまぎれて微かに響いている。

 川岸は、土だ。護岸してあれば電動車椅子でも問題ないのだが、土にはまったら動けなくなってしまう。みどりはもう一度、辺りを見回した。だが、通る人影はない。消え入りそうな、子猫の鳴き声。

 みどりは決心したように、電動車椅子を岸に向かって走らせ始めた。

 今日は幸い晴れている。川岸もそうぬかるんでいないだろう。ここは、車道にも降りやすいし、川岸にも降りやすくなっている。きっと大丈夫だ。

 みどりは車椅子で川岸に降りた。おおかたは平らなのだが、時々落ちている石をふむたび、車体が大きく左右に揺れた。それでも、何とか泥にもはまらず子猫の空き箱があるところまでたどり着くことができた。

 見ると、子猫は必死で川岸の芦にしがみついているが、一昨日の雨で流量を増した川に足がつかり、今にも流されそうになっている。前足で這い上がろうと何度も試みるのだが、緩い泥と柔らかい芦では足がかりにならず、流されそうになっては慌てて芦にしがみつくのを繰り返していた。


「待っててね。もう少し近づくから……」


 みどりは電動車椅子をぎりぎり川岸に寄せた。前輪が、ずぶずぶと柔らかい泥にはまる。今度は半分体を乗り出して子猫の方に手を伸ばす。あともう少し……みどりは左手でハンドルを掴み、右手を精一杯子猫の方にのばした。

 その右手が、子猫の前足を掴んだ。

 みどりはハンドルを掴んでいる左手もぎりぎりまでのばし、かなり無理な姿勢ではあったが、何とか前足を掴んだ子猫を川岸に放り上げることに成功した。

 放り上げられた子猫は、よろけながらも四つ足で川岸に着地すると、泥だらけの足で一目散にサイクリングロードの方にかけていった。

 みどりは大きく息をついた。

 が、ほっとしたのもつかの間、川の流れに大きく傾いた電動車椅子は、ゆっくり川岸に車輪を埋め始めた。

 みどりは慌てて車椅子のスイッチを入れた。だが、車輪は派手な回転音とともに泥の中を空回りするだけで、いっこうに前進する気配はない。みどりは焦った。その間にも車椅子はどんどん傾きを増していく。

 ついに車椅子は横倒しになり、みどりは川の中に放り出された。


「誰か!」


 必死で水底に沈んでいく電動車椅子にしがみつき、みどりは叫んだ。だが、川岸には人っ子一人いない。しんと静まりかえった川に、みどりの声だけがむなしく響き渡る。


「誰か、助けて!」


 このままでは本当に流されてしまう。沈みゆく電動車いすにしがみつき、胸まで水につかりながら、みどりがもう一度必死で叫んだ、その時だった。

 電動車椅子に掴まっていたみどりの手首を、誰かの手がしっかりとつかんだのだ。

 はっとして顔を上げたみどりの目に映ったのは、ジャージ姿の若い男だった。

 彼は無言だった。必死の形相で、みどりを引き上げようと懸命に足を踏ん張っている。川風に吹き散らされた茶色い髪に顔の半面が覆われてはいたが、その顔は、確かにみどりが会いに行こうと思っていた人物、紺野秀明に違いなかった。


「紺野さん⁉」


 紺野はみどりの手首を掴み、川岸に引っ張り上げようと満身の力を込めている。踏ん張っている足はずぶずぶと泥にはまり、すでに膝まで水につかってしまっている。それでも紺野は諦めず、みどりを引き上げようと痛む体に力を込める。少しずつ、みどりの体が川岸に引き寄せられていく。そんなに屈強な方ではない上に、ケガもしているので時間はかかったが、それでも何とかみどりを川岸に引き上げることに成功した紺野は、勢いで倒れ込むように芦の生い茂る川岸に尻餅をついた。


「あ、ありがとう、紺野さん……」


 みどりは両手をついて、四つんばいのような格好で息を整えていたが、切れ切れに礼を言って顔を上げた。紺野も座り込んだ姿勢で、全身で呼吸しながら小さく頭を下げたが、突然立ち上がると、何を思ったのか再び川の方へ向かって歩き始めた。どうやら、電動車椅子を引っ張り上げるつもりらしい。だが、電動車椅子の重量はかなりのものだ。みどりは慌てて声をかけた。


「いいの、紺野さん! それは、無理よ!」


 だが、紺野はそれには答えなかった。無言で川に入ると、腰まで水につかりながら、沈みかけた車椅子のハンドルを掴んでひきあげようとする。みどりは両手をつかっていざりながら、紺野の方に芦をかき分けて近づいた。

 その時だった。

 今まで電動車椅子を支えていた大きな石が、川の流れにのまれて外れた。その途端、電動車椅子はざぶんと水につかると、あっという間に水底に沈んでしまったのだ。紺野はその勢いにつられ、足を取られたのだろう。一瞬で川の流れにのまれ、頭が見えなくなってしまった。


「紺野さん!」


 川岸まで来たみどりは夢中で紺野の名を叫んだ。流れに呑まれて横倒しになっている芦を掴み、沈みかけた頭をやっとのことで水面上に出した紺野に、みどりは半分水につかりながら、思い切り手をさしのべた。


「捕まって! 紺野さん!」


 流量を増した流れに飲まれそうになりながらも、みどりの声は紺野の耳に届いたようだった。が、まだ掴めばぎりぎり届く距離にも関わらず、なぜか紺野は手をのばそうとしない。


「掴んで! 掴みなさい!」


 必死だったので、みどりは強い調子で叫んだ。

 命令形で言われて初めて、紺野はハッとしたように左手を伸ばした。みどりも精一杯その手を伸ばし、自身も半身水につかりながら、ぎりぎりのところで紺野の手首を掴む。

 電動車椅子を持っていなかった頃、みどりは上半身の力だけで全てのことをこなしてきた。上半身の力は並の男性以上だ。みどりは左手で芦の束を掴みながら、膝から下のない足を泥に埋め、右腕一本で紺野の体を引っ張り上げた。紺野も芦を掴み、水に湿って重くなった体を岸に引き寄せる。

 十数分ほどかかっただろうか。何とか紺野は、岸辺に這い上がることができた。

 二人ともはあはあと両手を土について肩で息をしながら、しばらくは何も言えなかった。

 やがて、紺野が荒い息の間から、絞り出すように言葉を発した。


「すみません。本当に、申し訳ない……」


 みどりも息を切らしながら、首を巡らせて紺野に目を向ける。


「あなたの意識を感じて、ここへ転移することはできたんです。でも、僕はあいつが関係しない状態では、ほとんど能力を使えない。お役に立てないどころか、迷惑をかけてしまって……」


 紺野は顔を下に向けたまま、切れ切れに言った。

 よほど急いで来たのだろう、例によって裸足のままだった。びしょびしょに濡れて束になった髪の先から、水が音を立てて滴り落ちている。着ているジャージもずぶぬれの泥だらけで、四つんばいの体の下には、大きな水たまりができている。

 じっと黙って紺野を見つめていたみどりは、やがて両手を川岸に着き、膝を使って進み始めた。

 自分のそばまで膝行いざってきたみどりに、紺野はおずおずとびしょ濡れの顔を向ける。

 そんな紺野を、みどりは両腕で包み込むように抱き締めた。


「……?」


 紺野は、目を丸くして凍り付いた。何が起きたのか分からなかった。

 混乱して動けずにいる紺野を、みどりはさらに強く抱き締める。


「良かった……本当に」


 湿りを帯びてかすれた声は、微かに震えていた。


「無事で、流されないで……」


 紺野は息を呑み、大きくその目を見開いた。

 みどりは密着していた上体を離すと、紺野の手を両手で握り、うるんだ目でその顔を見つめた。


「本当にありがとう。あなたが来てくれなければ、流されていたところでした」


 紺野はそんなみどりから、顔を赤らめて目をそらす。


「いえ、でも、車椅子が……」


「いいのよ。あんな物、また買えばいいの。でも、命は買えないでしょ。うちに、電動じゃないけどもう一台あるし」


 みどりはそう言うと、握っている手にそっと力を込めた。


「紺野さん、退院したら、うちに来てくれませんか」


 ハッとしたように自分を見つめ返した紺野に、優しくほほ笑みかける。


「電動車椅子、だめになっちゃったから、押してくれる人が必要なの。紘にばっかり押させるのも、何でしょ。あなたが来てくれたら、嬉しいんだけど」


 紺野はみどりの視線から逃れるように足元に目線を落とすと、小さくかぶりを振った。


「できません、危険が……」


「同じよ。危険なんて。今、この状況を鬼子が見ていれば、私とあなたが知り合いだなんてことはすぐに分かるでしょ。一緒に住んでいようがいまいが関係ないわ。危険は同じよ」


 話している間に、ようやく誰かが通報したのだろう。救急車とパトカーのサイレンが響き、担架を担いだ救急隊員と警察官がサイクリングロードから走り降りてくるのが見えた。みどりはちらっとそちらに目を向けたが、続けた。


「それなら一緒に住んだ方が、一緒にいる時間が長い分、安全でしょう。一緒にいるときは、あなたが私たちのことを守ってくれるんですよね」


 その言葉に、紺野は慌てて頷いた。


「それなら、大丈夫よ。うちに来てください」


 みどりはほほ笑むと、戸惑っている紺野に優しいまなざしを向けた。


「実はね、紘には双子の兄弟がいたの」


 はっとして顔を上げた紺野に、にっこりとほほ笑みかける。


「その子は、あの事故の時、死んでしまったんだけれどね……私、あなたを見ていて……なんだか、勝手な思いこみで申し訳ないんだけれど、あの子が来てくれたような気がして、本当に嬉しいの」


 やがて、警官と救急隊員らが彼らの側に到着し、体調の確認や質問を始めた。質問にひととおり答えると、みどりは担架に乗せられた。警官が歩み寄ってきて状況を質問し始めても、紺野はそれになおざりに答えつつ、担架に乗せられたみどりに目を向けていた。担架の上から、みどりは紺野に目礼したようだった。やがてみどりをのせた担架は、サイクリングロードの向こう側に待つ救急車に運ばれていった。

 ようやく目線を目の前の警官に戻し、紺野は多少のフィクションを織り交ぜつつ概略を説明した。みどりの説明とおおよそ一致していたらしく、うなずきながらメモを取っていた警官がそれ以上追求してくることはなかった。びしょ濡れの姿と病院服のせいだろう、警官に体調を確認されたが、紺野は大丈夫ですとだけ答えると、裸足で病院に向かって歩き始めた。

 紺野の後ろに、湿った黒い足跡が点々と残されていく。紺野は足跡を見送りながら、日の光がキラキラと反射する川を横目に、しばらくは黙って歩いていた。

 びしょ濡れの髪から滴り落ちる水に混じり、長い睫毛から押し出された涙が、アスファルトに小さな円いシミを作る。

 涙はあとからあとから溢れてきた。紺野は訳の分からない感情が突き上げてくるのを感じた。先日、寺崎と話していたときにも同じような状況に陥った。結局あの時は、それが何なのか分からなかった。

 今回、紺野はそれが「嬉しい」という感情だと初めてわかった。

 彼は嬉しかったのだ。自分のことを損得勘定ぬきに思ってくれる相手がいる、その事実がただただ嬉しくて、幸せだったのだ。

 あの時みどりは、自分を抱きしめて涙を流してくれた。沈んでしまった車椅子のことも、びしょ濡れになってしまった自身のことも関係なく、ただ、自分の無事を喜んでくれた。そんな相手に、紺野は今まで出会ったことがなかった。

 いや、もしかしたら出会っていたのかもしれないが、たとえそうだったとしても、紺野は自分から他人と深く関係することを避けていたのだから、気づけるわけもない。なんにせよ、彼にとっては初めての経験だった。

 だが嬉しい反面、紺野は怖かった。たとえようもなく怖かった。それもまた、生まれて初めて経験する感情だった。


――もしあの人たちに何かあったら、自分はきっと耐えられない。もしあいつがあの人たちを、そう、殺してしまったら……。


 紺野は足を止めて、両手をきつく握りしめる。


――きっと自分は、耐えられない。自死できなければ、気が狂ってしまうかもしれない。


 そこまで思って、ハッとした。

 紺野が殺した警官。そして、あのマンション倒壊で亡くなった人々。紺野が生まれ変わるために死んだ美咲。死んでしまった人々の思いに寄り添って、これまで紺野は生きてきた。だが、その後ろに、さらにたくさんの……そう、寺崎の母親のように、愛する人を失ったたくさんの人の思いがある。亡くなった人々のその後ろにいる、愛する人と別れなければならなかった幾多の人々。その思いに、紺野は今初めて思い至ったのだ。 

 紺野は改めて、自分の罪の重さに身震いした。

 もう、歩き出すことはできなかった。びしょ濡れの体もそのままに、紺野はぼうぜんとサイクリングロードの真ん中に立ちつくしていた。

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