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輪廻  作者: 代田さん
第一章 邂逅
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5月6日

 5月6日(月)


 呆れるほど素晴らしい晴天の連休最終日だったが、寺崎はとりあえず何の予定もなかった。というより、病院にいるあの男のことが気になって、遊ぶどころではなかった。というわけで寺崎はこの日も、紺野の見舞いにやってきたのである。

 寺崎が八〇三号室に入ると、ベッドに紺野の姿がなかった。


――あいつ、どこ行ったんだ?


 きょろきょろとあたりを見回している寺崎に、前のベッドで新聞を読んでいた中年の男性患者が声をかけた。


「そこの子ならさっき洗濯もって出て行ったから、ランドリーじゃないかね」


 寺崎はその男性に礼を言うと、ランドリーコーナーへ向かった。

 ランドリーコーナーに行くと、果たして、紺野の姿があった。紺野は洗濯機は使わず、水道で、どうやら手洗いしているらしかった。


「よお、紺野」


 寺崎の声に、せっせと泡だらけの手を動かしていた紺野は驚いたように顔を上げた。


「寺崎さん……」


「何してんだ? 洗濯機使えばいいじゃん。小銭も渡しただろ。大物の洗濯は俺んちでやってやるし」


 先日、寺崎が持ってきた荷物の中には、洗剤や、小銭の入った財布も入れてあった。寺崎はその旨も言い置いて帰ってきたのだ。紺野は小さく笑って首を振った。


「たいして量もないですから」


「おまえなあ、まだちゃんと傷もふさがってないのに、……」


 その時、寺崎はふと、昨日母親が言った言葉を思い出した。


『今度そっと見てごらん。あの子の腕……』


 そういえば、いつも紺野は長袖を着ていた。寺崎が暑くてTシャツ一枚の時も、紺野は必ずジャージの上着を引っかけている。この日も紺野はジャージ姿である。結構暑い日なのだが……。病院は空調が効いてるからと、今までは大して気にしていなかったのだが、母親から言われたことで寺崎は妙に気になった。

 見ると、今まで服を洗っていたこともあり、紺野は肘の辺りまで袖をまくっている。ただ、水に浸して動かしているので、あまり良くは見えない。俯いて一心に洗濯物を洗う紺野の腕に、寺崎はじっと目を凝らした。

 洗い終えて絞ろうとしたのか、洗濯物を持ち上げた紺野の腕の内側が、ちらっと寺崎の目に入る。

 刹那、寺崎の背筋にぞっと寒気が走った。


「……紺野!」


 寺崎はいきなり紺野の両手首を掴むと、自分の方に引き寄せた。

 手にしていた洗濯物がしぶきを上げて溜め水の中に沈み、紺野は半ば強引に寺崎の方を向かされる。


「え?」


 紺野は寺崎の行動を全く予測していなかったらしい。驚いて、でもされるがままに引き寄せられてしまってから、はっと気づいたようだった。慌てて自分の手を寺崎の手から引き離すと、びしょ濡れのままジャージの袖を下ろす。

 寺崎は動きを止めたまま、ぼうぜんと紺野を見ていた。

 さっき目にした紺野の腕。傷だらけだった。それも、尋常一様の数じゃない。腕一面……そう、一面が、リストカットの跡だらけだったのだ。


「紺野、おまえ……」


 紺野は下を向いて、何も言えずにいた。どうしていいかわからないといったふうだった。まるで、いたずらが見つかってしまった子どものようだった。


「おまえさ、……」


 寺崎も言うべき言葉が見つからなかった。二人はしばらく、向かい合って黙りこんだまま、立ちつくしていた。

 と、ランドリーコーナーに中年女性が入ってきた。「よっこいしょ」などと言いながら大量の洗濯物を洗濯機に放り込み始める。

 寺崎は無言で水道をひねると、先ほど、泡だらけの溜め水につかった紺野の洗濯物を濯ぎ始めた。紺野は何か言いかけたが、袖をまくることもできないので、そのまま口をつぐんだ。

 寺崎は手早く濯ぎ終えた洗濯物をきつく絞ると、何も言わず後ろにたたずむ紺野にぽんと手渡す。


「……すみません」


 小声で紺野が言ったが、寺崎はやはり無言だった。

 ランドリーを出て、八〇三号室に戻ってくると、寺崎は無言で洗濯物を窓際に干し始める。紺野も慌てたように洗濯物を手に取ると、寺崎から離れた場所で皺を伸ばした。

 あらかた干し終わると、寺崎は丸椅子に腰を下ろした。紺野は居心地が悪そうに窓際に立っていたが、寺崎に促されて、おずおずとベッドに腰を下ろす。

 ややあって、寺崎がポツリと口を開いた。


「いつから?」


 紺野は下を向いて何も言えずにいたが、ややあって重い口を開いた。


「十年前、記憶が戻ってから、……」


 寺崎は目線を落としたままで、短く問う。


「ずっと?」


 この問いに紺野は、小さく頷いただけだった。

 寺崎は顔を上げると、俯いている紺野の顔をじっと見つめた。足元に目線を落としているその顔は、いくぶん青ざめているように見えた。

 どうして、と聞こうとしたが、寺崎は口をつぐんだ。そんなことは、聞かなくても分かる。紺野は抱えているものの重みに押しつぶされそうなのだ。死ぬことすら許されていないのだから。精神の平衡がどうしても保てなくなったとき、恐らく衝動的に切っていたのだろう。自分を切り刻みながら、自分が起こしたことの重みに耐えていたに違いない。あの暗い、小さなアパートの一室で、たった一人で……。

 そのまましばらくの間、寺崎は何も言わなかった。

 あまりに長く寺崎が沈黙しているので、下を向いていた紺野はおずおずと顔を上げて寺崎に目を向け……はっとしたようにその目を見開いた。

 紺野を見つめる寺崎の目に、なにかが光っていたのだ。

 それは窓から差し込む日の光に反射して、針の先ほどのほんの小さな光を放っているように見えた。

 紺野と目があうと、寺崎は慌てて腕で目の辺りをゴシゴシ擦りながら横を向いた。


「……あのさ、紺野」


 横を向いた姿勢のまま、寺崎は言った。


「はい」


「俺んちに、こねえか?」


 発言の意味が分からないのか、困惑したような表情を浮かべている紺野に、寺崎はもう一度目元を拭うと目線を合わせ、にっと笑って見せた。


「だからさ、一緒に暮らさねえかってこと。退院した後だよ」


 紺野は目を丸くして寺崎を見つめた。


「おまえ、住むところがねえんだろ。俺んちにこい。おふくろがそう言ったんだ。足がないから、いろいろ手伝ってほしいってさ」


 紺野は困惑したように目線をさまよわせていたが、ややあって、言いにくそうに口を開いた。


「それは、できません」


 俯いて目を合わせず、小声で続ける。


「僕もあの子どもに狙われている。危険が大きすぎます」


「一人の方が怖い」


 驚いたように自分を見つめた紺野を、寺崎は真剣な表情で見つめ返した。


「おまえを一人にすると、何をするかわからねえ。俺はその方が、怖い」


 紺野はその視線を受け止めきれずに俯くと、右手で自分の左腕をきつく押さえた。


「もう、しません。こんなことは……」


「信用できねえな」


 寺崎は怖いくらい真剣な顔で、紺野を睨んだ。


「おまえ、自分がやられそうなときも、絶対防御しねえだろ」


 紺野はどきっとしたような顔をした。


「それが直らないかぎり信用できねえ。自分を大切にしてない証拠だ」


 紺野はしばらくの間何も言えずに俯いていたが、ややあって、ようやく重い口を開いた。


「寺崎さんのお気持ちは、本当にありがたいです」


「なら、来てくれんのか?」


 寺崎は明るい表情になったが、紺野はそんな寺崎から目を逸らすようにうつむいたまま、小さくかぶりを振った。


「できません」


「どうして……」


 すると紺野は、心なしか震える声を絞り出した。


「僕は、あなたも、あなたのお母さんも、危険な目に遭わせたくないんです。もし、あいつがあなた方に手を出して、あなた方に何かあったら、僕は……」


 紺野はそう言うと、声を詰まらせた。寺崎から顔を背けたまま、消え入りそうな声を絞り出す。


「僕はもう、生きていられない」


 寺崎はもう何も言えなかった。ただ黙って、俯いている紺野の茶色い頭を見つめるしかなかった。



☆☆☆



「そう、あの子、そんなことを……」


 ため息とともに呟いたみどりに、寺崎は小さく頷いてみせた。


「俺、それ以上何も言えなくて」


「そうね。それは、何も言えないわ」


 頷いたみどりの目には、うっすらと涙が滲んでいた。


「ほんとに、いじらしい子ね。母さん、ますますあの子を呼びたくなった。抱きしめてやりたいくらい」


 母親の言葉に、寺崎は苦笑した。


「あいつ、ああ見えて三十三だぜ」


「関係ないわ、そんなこと。母さんにとっては、かわいい息子よ」


 寺崎は笑いを収めると、ふうとため息をついた。


「そうなんだよな。俺も、普段はあいつがそんな年だなんて思えねえ。もちろん、鬼子と戦ってる時はすげえ頼りになるし、普段と全然違うんだけど……何でだろうな」


 みどりは少しの間、考え込むように黙っていた。


「多分あの子、人と関わるってことに関しては、高校生、ううん、へたしたら中学、小学生レベルの経験しかしていないのかもしれない。だから、話をしてても大人な感じがしないんじゃないかしら」


 そう言ってちょっとほほ笑んでから、すぐにその目に悲しそうな色を浮かべた。


「かわいいわよね。かわいくて、かわいそう……」


 そのまま黙り込んでいたみどりだったが、ふいに、何やら決然と顔を上げた。


「大丈夫。お母さんに任せなさい」


 寺崎はきょとんとして、そんな母親を見つめる。


「お母さんが説得してみせる。なんとしても、あの子をうちに連れてくるからね」


 妙にやる気満々なみどりの勢いに押されつつも、寺崎も慌てたように頷いてみせるのだった。

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