5月3日 7
消灯時間を過ぎた薄暗い病院内は、リノリウムの床の滑らかな表面に全ての音を吸い取られてしまったかのように静まりかえっている。
室内灯の黄色い明かりに照らされたほの暗い病室も、微かな寝息と時折響く歯ぎしりの音の他は、薄墨色の無音に満たされている。
肩の傷の重苦しい痛みで目が覚めてしまった紺野も、その静けさにようやくうとうととまぶたが重くなりかけていた。
その時。能力発動の気配とともに、目の前の空間が鋭く歪んだ。
はっと目を開いた紺野の視界に、月の光に背後から淡く照らし出された神代亨也の白衣姿が映り込む。
紺野が起きていることに気づくと、亨也は心配そうに表情を曇らせた。
【眠れませんか?】
眠っている同室の患者に気を遣ってか、ささやくような送信をよこすと、享也はすぐに枕もとの丸椅子に座り、肩の様子を見始めた。
【痛みますよね。すみません、日中は同室患者の目もあるので、あまり大っぴらに修復することができなくて。痛み止めを入れただけでこんな時間まで放置してしまった】
紺野は戸惑ったように頭を振った。
【いいえ……こちらこそ、こんな時間に……】
【今日はそういうシフトなので。ちょうどよかったです】
亨也はそういうと、ふいに改まったように居住まいを正し、深々と腰を折り曲げて頭を下げた。
【今日は、本当にありがとうございました】
紺野は驚いたようにベッドから体を起こしかけた。
【とんでもないです。当然のことをしたまでで……】
享也は置きあがろうとした紺野を制すると、その流れで肩の修復を開始する。銀色に淡く輝く享也の手を見やりながら、紺野は居心地が悪そうに口を開いた。
【僕の方こそ、申し訳ありませんでした】
【? 何がですか?】
紺野に謝罪される理由が全く見当たらなかった享也は、きょとんとした顔で首をかしげる。紺野はそんな享也の目線から逃れるように顔をそむけたが、ややあって、言いにくそうに口を開いた。
【彼女に、また触れてしまって……】
今日、紺野はよろけた拍子に玲璃に抱き留められるような格好で支えられてしまった。それも、相当に長い間。紺野は必死で離れようはしたのだが、結果的に離れることができなかった。そのことに対し、婚約者である享也を目の前にして、いたたまれないような思いを抱いていたのだ。
言われてようやく思いあたったのか、亨也はああ、と頷くと、肩を揺らしてクスクス笑った。
【気にしていませんよ、そんなこと。仕方がないじゃありませんか。あなたって、本当にまじめなんですね】
耳まで赤くなって顔をそむけている紺野に、亨也は心なしか優しい目を向けた。
【これからは、ますますそんなことも言っていられなくなるでしょうしね】
【え?】
【聞こえていたんでしょう、廊下での話】
紺野は躊躇してから、小さく頷いた。
【……はい】
【これから、正式に護衛として働き始めれば、そんな場面に出会うことも多々あるでしょう。いちいち気にしていたらきりがありませんよ。そういう事も含んだうえで、わたしはあなたに護衛の仕事をお任せしたいと思ったのですから。よろしくお願いしますね】
戸惑ったような表情で答えを返さずにいる紺野を見て、享也は苦笑混じりの笑みを漏らした。
【退院後の生活ことも考えなければなりませんが、またそのことは追って相談しましょう。……ところで、】
それまでとは一転、享也の目に鋭い光が宿る。
【ようやく見えましたね、鬼子の姿が】
紺野も、真剣な面持ちで頷いた。
【これまでも何度か目にしていた銀色の車輪、あれは車椅子の車輪だったようです。遠かったので顔までは分かりませんでしたが、催眠をかけられていたあの少年も体が不自由なようでしたし、そうした関係の施設を調べれば、何か分かるかもしれません】
【そうですね。魁然の方にも詳細を送信するつもりです。そうすれば、魁然の方でも調べを進めてくれるでしょう】
そう言うと亨也は、紺野の肩に添えた手に目線を移し、鼻でため息をついた。
【また、防御しませんでしたね】
紺野は身の置き所がない様子で目を逸らす。
【すみません。相手が普通の人間の時は、特にダメで……】
【あの程度の攻撃で、ここまでやられてしまうのはちょっと問題ですね。あなたの能力なら、相手に影響が出ないように自分を守ることくらい、たやすくできそうな気がするんですが……驚きましたよ。列車を支えた時は】
痛みがみるみるうちに和らいでいくのを感じながら、紺野は黙っていた。
【車両だけで、いったい何トンあるんでしょうね。そこに、乗客の重みと……、一瞬で計算してああしたことができるのは、さすがです】
【……よく覚えていません。必死でしたから】
【今回のことで、あなたに玲璃さんを安心して任せられることが分かりました。今後とも、よろしくお願いします】
改まった態度で頭を下げられ、紺野は戸惑いながらも、慌てて寝たままの姿勢で頭だけ下げた。
【こちらこそ、よろしくお願いします。ご迷惑をおかけすることも、多々あるとは思いますが……】
【あなたは、神代側の護衛として派遣する予定ですので、雇用契約はわれわれと結ぶことになります。給与や条件など記載した用紙は、後日お持ちしますね】
そう言うと亨也は、何を思い出したのかくすっと笑った。
【寺崎さんと玲璃さんが、あなたを守るそうですね】
紺野はハッとしたように目を丸くして赤くなった。
【であれば、私は無償でケガの治療をさせていただきましょう。必要があれば、いつでも言ってください。援護に回れそうなときはもちろん行かせてもらいますが、なにぶんこんな仕事をしている関係で、そういうときはあまりないだろうと思うので……申し訳ありませんが】
紺野は信じられないといった面持ちで、にこやかにほほ笑む亨也を半ばぼうぜんと見つめた。
【どうかしましたか?】
【あ、いえ、なんでも……】
あわてて享也から目線をそらすと、言いにくそうに言葉を継ぐ。
【……ただ、どうして皆さんは、こんなに……】
【こんなに?】
紺野は言葉を探すように黙り込んでいたが、適した言葉が見つからなかったのだろう、ややあって、ごくありきたりの言葉を口にした。
【こんなに、優しいのだろう、と……】
亨也はそんな紺野に柔らかなほほ笑みを投げた。
【それは多分、あなたがそうだからでしょう】
思ってもみなかったその言葉に目を丸くすると、紺野はまじまじと亨也を見つめた。
【人は相手からしてもらったことを返そうとするものです。あなたが他人に対して……まあ、いささか自虐的なのは考えものですが、優しい対応をしているからこそ、他人も同じことをあなたに返そうとするのでしょう】
【僕が……優しい?】
紺野は信じられないとでも言いたげにその言葉を反すうした。
紺野はこれまで、他人の尺度で自分を測ったことなどなかった。他人から自分がどう見られているかなど、他人と深い関わりを持ったことのない彼にとって、考える必要もないことだったのだ。
紺野は居心地悪そうに目線をさまよわせた。
【それは、買いかぶりすぎです。僕はただ、自分のしたことの責任を取ろうとしているだけで……】
【それでも、他人はそう感じるんでしょう】
治療を終えた亨也はそう言うと、丸椅子から立ちあがった。
【あなたはもう少し、自分を信頼してもいいと思いますよ。能力にしろ、考え方にしろ。そうすれば、もう少し、自分を大事にするようになるかもしれない】
そう言って右手を上げると、亨也は病室を出て行った。
亨也が去った後も、紺野はしばらくはぼうぜんと天井を眺めやっていた。
生まれてこの方、思考に組み入れたこともなかった、自分という存在。これまで、それは嫌悪し、否定し、排除すべき対象でしかなかった。だが今回、その存在意義が曲がりなりにも認められた気がして、紺野は戸惑いながらも、心が満たされるような、不思議な高揚感を覚えていた。