5月3日 6
八〇三号室から享也が出てくると、長椅子で不安そうに待っていた玲璃と寺崎は、二人同時に弾かれたように立ち上がった。
「神代総代、紺野は、どんな様子ですか?」
勢い込んで聞いてきた寺崎を安心させるように、享也はほほ笑んで頷いた。
「心配はいりません。肩は表層の傷が開いただけでしたし、あの熱は感染などの影響ではなく、侵襲熱のようです。今、薬を入れたので、ゆっくり眠って休めば落ち着くでしょう」
その言葉を聞いて、玲璃も寺崎も、ホッとしたように大きなため息をついた。
「よかった……病院に着いたらぐったりしてて、体がすっげえ熱くなってたから……なんか、大騒ぎしちゃってすんませんでした。総代、手術が終わったばっかりだったのに」
享也は頭をふると、目線を落とした。
「とんでもない。二人の心配は当然です。あの状態で動き回れば熱も出るでしょう。私の判断ミスが原因で起きたことだったのに、彼にあんな無理をさせてしまった。あなた方にもたいへんな思いをさせてしまって、本当に、申し訳ありませんでした」
玲璃も寺崎も、思いがけず神代家総代に深々と頭を下げられてしまい、目を白黒させて焦りまくった。
「いえ、とんでもないです。あれは私が病院を飛び出したのが原因です。総代は手術があったんですから動けなくて当然ですし、私たちはケガもしていません。どころか、私なんか、あの子に攻撃しようとすらしてしまって……紺野に迷惑をかけてしまったのは、私も同じです」
そういうと、玲璃はハッとしたように顔を上げた。
「そうだ。あの子の様子はどうでしたか? 紺野は、心配ないって言っていましたけど……」
「大丈夫、心配はありません。紺野さんが丁寧にシールドを解除してくれたおかげで、脳への悪影響も特にみられませんでした。あれだけ長時間操作されていたので、意識が戻るにはまだ少し時間がかかるのと、恐らく記憶障害は残ってしまうと思いますが、まあ、操られていた間に起きたことなど覚えていない方がいいですから、問題はないでしょう。ただ、彼は傷害事件を起こしていますから、そちらの方での訴追は免れないと思います。先ほど、警察の方にあの子を保護した旨を連絡しました。お父様の方にも概略はお伝えしてあります」
「お父様」という言葉に、玲璃は緊張したような表情を浮かべる。享也はそんな玲璃を優しく見つめた。
「河原での状況はトレースで把握しています。玲璃さんは、復学する覚悟をきめられたという認識でいいのですよね?」
玲璃は固い表情ながら、きっぱりと頷いてその問いに答える。享也はホッとしたように表情を緩めた。
「わかりました。それでしたら私も、それなりの協力をさせていただくことにしましょう」
その時、エレベーターホールの方から聞き覚えのある稼働音が聞こえてきて、違和感を覚えた寺崎は振り向いた。その途端、見覚えのある電動車いすがこちらに向かってくるのが見えて、寺崎はギョッと目をむいた。
「は? ……おふくろ⁉ どうしてここに……」
享也は「ああ」とうなずくと、涼しい顔でその問いにこたえる。
「私が連絡しました。鉄橋の崩落事故は大ニュースになってしまいましたし、その事故現場にいあわせたわけですから、保護者の方に連絡をしないわけにはいきません。一族に配布されている名簿のご連絡先にお電話させていただいたところ、病院に行きたいと申されましたので、車いす用の送迎車でお迎えに上がらせていただきました。帰りも車でお送りしますのでご安心ください」
あまりの手回しの良さにあっけにとられていると、車いすの主……みどりは、寺崎の目の前に車いすをとめて、硬い表情でその顔を見上げた。
「あ、あの、おふくろ。わざわざ、ゴメンな。見ての通り、元気だから……」
寺崎がうろたえつつ口を開きかけた、刹那。みどりの目から、堰を切ったように涙があふれた。
「……無事だったのね」
廊下を歩いていた数人の患者や家族が、驚いたように目を向ける。寺崎は真っ赤になってオロオロしながら、涙を落とす母親をなだめた。
「いやいやいや、全然無事だって……病院からの電話で無事って聞いてなかったのかよ?」
みどりはカバンからハンカチを取り出して目元にあてた。
「聞いてたわよ……聞いてたけど、『無事』にもいろんなレベルがあるでしょ。あなたからは何の連絡もないし、あれだけの大事故に巻き込まれたからには、無事って言ってもケガくらいしててもおかしくないって思って覚悟してたから、元気そうな顔を見たら、なんだかほっとしちゃって……」
「ごめんごめん。大丈夫だって、紺野がいたから……」
その言葉に、みどりはハッとしたように目元を拭う手をとめた。
「そうなの、紺野さんが……。彼は大丈夫なの? 面会はできるのかしら。息子を助けていただいたんなら、一言お礼を申し上げないと……」
その言葉に、慌てて享也が釘をさす。
「すみません。彼は大丈夫ですが、あいにく、さきほど薬をいれて眠ったところなんです。容体は安定しているのですが、面会はまたの機会にしていただけると助かります」
不意に差しはさまれたその言葉に、みどりは驚いたように首を巡らせて声の主――享也を見上げ、その目を大きく目を見開いた。
「……あの、失礼ですが、神代、享也先生……で、いらっしゃいますか?」
「え? あ、はい。そうですが……」
みどりは両手で口元を覆って最大限の驚きを表現すると、慌てて居住まいをただした。
「失礼しました。わたくし、紘の母親の、寺崎みどりと申します。いつも息子がお世話になっております。で、あの……昨年九月に出された週刊深重の、「神の手を持つ医師特集」拝見しました。近所の病院にこんなすごいお医者様がいらっしゃるんだって感動して、ひと目お会いしたいと思ってて……まさか今日、こんな形でお会いできるとは思っていませんでした。いつも素晴らしいお仕事、ありがとうございます」
まるでスターに会えたファンさながらに目をキラキラさせているみどりの勢いに押され、享也は「いえいえ、とんでもないです」と言いながら困ったような笑顔を浮かべている。その様子に、寺崎は焦りまくって突っ込みを入れた。
「ちょっとちょっとおふくろ、なにくだらない話してんの? この人を誰だと思ってんの。神代家の総代だよ、総代。俺らみたいなモブが気軽に話しかけられるような人じゃないってのに……」
「え? モブ? それなあに? 母さんそういう言葉、よく知らないんだけど……」
みどりは寺崎の動揺などこ吹く風で首をかしげると、今度は享也の隣に立つ玲璃に目を向けた。
「という事は、こちらのお嬢さまがもしかして、魁然家総代の……たしか、玲璃さん、……で、よろしかったかしら?」
いきなりの名前呼びに頭を掻きむしって動揺しまくっている寺崎の様子にクスクス笑いながら、玲璃は頷いた。
「はい。魁然玲璃です」
みどりは感嘆のため息をもらした。
「まあ、お噂はかねがね……紘ったら、いつも『総代』なんて堅苦しい呼び方で読んでいるから、どんな方だろうって思ってたんですけど……こんなにきれいなお嬢さんだったんですね。息子がいつもお世話になっております」
玲璃はちょっと赤くなると、慌てて頭を下げた。
「いえ、とんでもないです。こちらこそ、息子さんにはいつもお世話になっていて、ありがとうございます。今後とも、よろしくお願いします」
その言葉に、みどりは少しだけ目を見開いてから、寺崎に目線を送る。その視線の意味を理解した寺崎が頷いて見せると、みどりはホッとしたような笑顔を浮かべた。
その時だった。
エレベーターホールの方から複数の人間の足音と話し声が響いてきた。ハッとして目を向けると、廊下を速足でこちらに向かってくる、背の高い、がっしりとした中年男性のシルエットが映りこむ。
見覚えのあるその姿に、玲璃の顔にサッと緊張が走った。
「玲璃!」
男性――義虎は、長椅子の前に立つ玲璃の姿に目をとめると、大きな声で名前を呼び、ホッとしたような表情を浮かべかけたが、享也やみどりの姿に気づくと、すぐに表情を引き締めて歩み寄ってきた。みどりに黙礼すると、まっすぐに享也に向き直る。
「さきほどはご連絡ありがとうございました、総代」
「とんでもないです。こちらこそ、お休みのところ、迅速にご対応いただいてありがとうございます。あの少年は八一五号室の方にいます。今は、玲璃さんの尾行をされていた魁然の護衛の方についていただいています」
その言葉に、義虎は鼻白んだような表情を浮かべながらも、頭を下げた。
「……ありがとうございます。この度は娘がたいへんなご迷惑をおかけしてしまいまして、本当に、申し訳ありませんでした」
「いいえ、とんでもない。今回のことは、電話でもお伝えしましたが、河原に玲璃さんを一人で残してしまった私のミスです。こちらこそ、玲璃さんを危険な目に遭わせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
義虎は大きく首を振ると、横目で玲璃を睨む。
「子どもっぽい駄々をこねた娘の責任です。総代は手術に入らねばならなかったのですから、致し方ないでしょう。こんな状況で河原に一人で残りたいなどと、鬼子に襲ってくれと言っているようなものです。だいたい、病院を全速力で抜け出すなどと……護衛が全員まかれてしまって後を追えなくなってしまったのも、情けない。間抜けな護衛にも責任があります」
義虎は忌々し気に青筋を立てて吐き捨てたが、享也は苦笑しながらうなずいた。
「そうですね。玲璃さんは本当に足が速かった。さすが魁然家総代です。私は転移能力があったから追いつきましたが、混血能力者の皆さんにあのあとを追えというのは、むちゃな話でしょう」
享也はそこで言葉を切ったが、言外ににおわせている空気を感じ取ったのだろう、義虎は言葉を返さなかった。享也はひと呼吸置くと、あとを続けた。
「今日の状況を見れば総帥もお分かりと思いますが、鬼子の攻撃から玲璃さんを守り切るためには、混血能力者の護衛だけでは不十分です。もっと堅い守りが必要でしょう」
義虎はその言葉を予想していたのか、目線をそらしたまま、鼻で嗤った。
「堅い守りなど、どうやって実現するというのです? われわれ高位能力者が直接守ってやれるならまだしも、私も、享也さんも、神代総帥だって多忙な身だ。玲璃が高校に行きたいというワガママを叶えるために、われわれの誰かが仕事を辞めるなどと、それこそ本末転倒でしょう。であれば、玲璃が通学を諦める以外……」
「最適な人材がいるではないですか」
義虎は言葉を飲み込んで享也を見たが、すぐに斜め下に目線をそらすと、吐き捨てるように言葉を返す。
「……私はあの男を信用できん」
「私は問題ないと思います。今回も、私の代わりに玲璃さんを守ってくれたのは紺野さんです。鉄橋が崩落したのは総帥もご存じでしょう。鬼子は遮断をかけて電車を崩落した鉄橋に誘い込みましたが、紺野さんは何もない中空で六両編成の列車を支え、駅まで安全に誘導しました。あの一瞬で乗客の重みと列車の重みを計算し、それを支え切れるだけのエネルギーを適切に放出したのです。混血能力者の護衛の皆さんはもちろんのこと、私でもできたかどうかわからないほどの、非常に高度な能力発動でした。彼がいたからこそ、一人の死傷者も出さずにあの事態を乗り切ることができた。私は鬼子の攻撃に対して、紺野さんが最も有効かつ機動力のある対処ができる人材だと、今回の件で確信しました。問題がないどころか、玲璃さんの安全のためには、彼女が学校に通う通わないに関係なく、彼を玲璃さん専属の護衛として雇っていただきたいと思うくらいです」
享也の言葉に、義虎は目をむいていきり立った。
「専属の護衛だなどと、何をバカな……そんなものがなくとも、玲璃の安全を守ることはできる!」
「そのために、一歩たりとも外に出さず、彼女を家に閉じ込めるおつもりですか?」
義虎が返す言葉を見失って黙り込むと、享也は畳みかけるように言葉を継いだ。
「確かに彼女は特別な、非常に重い責務を負っています。だからといって、普通に生活する権利を取り上げるべきではない。重い宿命を背負わせてしまっているからこそ、われわれ大人は彼女の自由を最大限尊重するべきです。紺野さんに危険がないことは今回の件でも証明されました。それどころか、彼は操られていたあの少年の命も守り、電車に乗っていた数百人の人々の命も守りました。彼なら、たとえ玲璃さんが全速力で逃げようとも、トレースしてすぐに追いつくこともできる。鬼子の攻撃に対する護衛にこれほど最適な人材は他にいないでしょう」
義虎は忌々し気に奥歯をきつく噛みしめていたが、ややあって、絞り出すように問いを発した。
「あの男自身が鬼子から狙われている問題はどうする。あの男を近づけたことで、玲璃の危険が高まる可能性がある」
「薬に副作用があるように、最善の方策にも副作用的な事態は起こり得ます。玲璃さんが安全に生活できる利益が最大化されるよう、起こりうる不利益が最小限になる方策を巡らせることこそ、われわれ大人がすべきことだと思います。私も、学校の様子をトレースしたり、万が一の際は駆けつけたりなど、そのために協力は惜しまないつもりでいます。どうか、紺野の護衛と、彼女の通学を認めてください。お願いします」
深々と頭を下げる享也を見て、玲璃も慌ててそれに倣って頭を下げた。
「お願いします、父様。私はやっぱり、どうしても学校に通いたい。今日、私は自分の無力さを痛感しました。訓練はこれまで以上にがんばります。絶対に力をつけます。ただ、今すぐに私が一人で鬼子に対峙するのはどうあっても無理なんです。どうしても紺野の力が必要なんです。お願いします」
二人の人間に頭を下げられ、さすがの義虎もたじろぐように言葉を濁した。
「しかし……」
すると、それまで一歩下がった位置で黙って話を聞いていた寺崎も、前に進み出ると、玲璃に倣って直角に腰を折り曲げた。
「魁然総代、総代の護衛をしている俺からもお願いします。俺は、これからも護衛の仕事を続けたい。紺野が護衛に加わってくれれば、俺も安心して仕事を続けられます。もしかしたら、柴田先輩も続けてくれるかもしれない。俺らは混血で微力ですが、できだけ役に立てるよう、足を引っ張らないよう精いっぱい頑張ります。だから……お願いします!」
何人もの人間に廊下の真ん中で頭を下げられて、さすがの義虎も拒否の言葉を発せずに目線をさまよわせていると、これまで黙って話を聞いていたみどりが、車いすを義虎の前に進めてきた。怪訝そうに目を向けた義虎に、深々と頭を下げる。
「お初にお目にかかります。私は寺崎みどりと申します。そこにおります寺崎紘の母で、魁然行紘の妻です」
従弟である行紘の名前に、表情を改めて自分に向き直った義虎に、みどりは穏やかにほほ笑みかけた。
「総帥は、お嬢様を本当に大切にしておられるのですね。社会的責任のある、お忙しいお仕事をされていてなお、お嬢様になにかあれば真っ先に駆けつけて……今日も、さぞかしご心配されたことでしょう。私も、息子の顔を見たら、ホッとして涙が出ましたから……無論、うちの息子は、お嬢様のように大きな責務を負っているわけでも、特別な能力があるわけでもなく、狙われている当事者でもありませんが、それでもこんなに心配なんですから、総帥のご心労は察するに余りあります。この状況に際して、玲璃さんを大事に思い、守りたいと思われるのは親として、一族の長として、当然の判断だと思います」
義虎は目を見開いた。これまで、一族の長としての判断を信頼されてきたことはあっても、一人の親としての自分の立場や思いに共感されたことは一度もなかったのだ。肩の力が抜けるような気がして、義虎の表情がほんのわずか緩む。みどりはそんな義虎に、どこか悲し気なほほ笑みをなげた。
「ただ、どんなに心配でも、子どもが飛び立ちたがっていたら、信頼して手放してやるのもまた、親の務めなのですよね」
義虎はハッとしたように表情を改めてみどりを見つめた。
「先ほど、玲璃さんと少しだけですがお話させていただきましたが、とてもしっかりした、頭のいいお嬢さんですね。ご自分の状況も、周りが被る影響も、起こりうる負債も全て理解して、それらを引き受ける覚悟した上で、自分にできる最善を尽くして学校に行きたいと仰っている。素晴らしいと思いました。ここまで考えているなら、もう親として子どもにしてやれることは、信頼して送り出してやることくらいしかないだろうと、私は思います」
言葉を返せずにいる義虎にほほ笑みかけると、みどりは静かに言葉を続けた。
「大丈夫です。お嬢さんは総帥が思ってらっしゃるより、ずっと頼もしく成長されていますよ。信頼してあげてください。もちろん、お父様的にはまだまだ足りないと思われる部分はあるでしょう。送り出したことで、危険な目に遭うことも当然あります。手元に置いておくより、送り出す方がずっとつらいのですよね。心配で、やきもきして、居ても立っても居られない。それは私も同じです。それでも、私は護衛を続けたいという息子を信頼して、送り出すつもりでいます。なにかあれば、きっとさっきみたいに泣いてしまうんでしょうけれど、それでも」
その時のことを思い出したのか、涙ぐんだ目もとを拭いながら、みどりは続けた。
「送り出さなければ、子どもはいつまでも成長しません。自分からは飛び立とうとしない臆病な子どももいる中で、玲璃さんは自分から過酷な状況を乗り越えて飛び立ちたいと言っている。頼もしいではないですか。さすが魁然家総代たる器をお持ちだと、私は感心しました。信頼して、送り出してさしあげましょう。きっと、より一層頼もしく成長して戻ってきてくれると、私は思います」
同じ親として、同じ目線で紡がれたみどりの言葉には、反論のしようのない説得力があるのだろう。しかも、「娘への信頼」を人質にとられた上に、享也、みどり、寺崎、玲璃の四人から、病院の廊下という公衆の面前で頭を下げられたとあっては、さすがの義虎もむげにはできない。しばらくは硬直したように目線を動かさなかったが、やがて観念したような深いため息とをつくと、ゆっくりとうなずいた。
「……わかった。認めよう」
「本当ですか?」
弾かれたように顔を上げた玲璃を、義虎は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら横目で見やる。
「だが、もし万が一、おまえの命に大きな危険が及ぶような事態が一度でもあったら、即刻退学してもらうことには変わりがないからな。学校のようすも、逐一監視していていただけるのでしょう? 神代総代」
「ええ、無論です。私のエネルギー波は紺野さんと周波数が近くて同調しやすいんです。彼の意識を通して、学校の様子は容易にトレースできると思います」
「紺野」の名を聞いた途端、義虎は険のある顔つきになった。
「……あの男の動向も、併せて注意していただけるんでしょうな」
享也はにっこりと笑って頷いた。
「もちろんです。ご安心ください」
その話を隣で聞きながら、玲璃はようやく安心したのだろう、堰を切ったように涙をこぼし始めた。義虎は目を丸くすると、慌てて娘の肩を抱いてハンカチを手渡す。そんなほほえましい様子を眺めやりながらみどりが涙を拭っていると、寺崎がその傍らに歩み寄ってきた。
「よかったわね、紘。護衛が続けられそうで」
「……うん」
いまひとつスッキリしない表情で曖昧な返事を返した息子の様子に、みどりは首をかしげた。
「どうしたの? 中途半端な顔をして。護衛が続けられるの、嬉しくないの?」
「え? ……いや、護衛が続けられんのは嬉しいし、総代が学校に行けるのも滅茶苦茶嬉しいんだけど……ただ、ちょっと今の話を聞きながら、色々考えちゃって」
「考えるって……何を?」
寺崎は間を置いてから、おもむろに口を開いた。
「……あの話、神代総代にしてみたんだ」
「あの話」と言われて、みどりもピンときたらしい。表情を改めて問いかける。
「そう。どうだった?」
寺崎はしばらく沈黙してから、ややあって、ボソッと呟くように言葉を返した。
「危険かもしれないって……」
みどりは、足元に視線を落とした息子の顔をじっと見つめた。
「あの子どもは紺野のことも狙ってる。俺たちが家にいるときはまだいいんだ。でももしかしたら、俺たちが高校に行っている間におふくろが狙われる可能性もある。そう、神代総代に言われて……ちょっと、どうしていいかわかんなくなったっていうか」
みどりは困ったように笑った。
「母さんは大丈夫よ。そういう事も全部覚悟したうえで提案したことだから」
寺崎は目線を落としたままでうなずく。
「うん。たぶんおふくろはそう言うだろうと思ってた。ただ、俺はそれじゃよくないっていうか……おふくろは、なにもかもを飲み込んだうえで俺を送り出すっていってくれてたけど、俺はまだ、そこまでは踏ん切りがつかないっていうか……」
そう言うと寺崎は、イラついたように頭をかきむしっていたが、ふとその手を止めると、呟くように言葉を継いだ。
「ただ、俺は今日、あいつを見て思ったんだ」
「あいつって、あの子のこと?」
寺崎は頷いた。
「あいつは、自分一人だと防御しない。俺や総代がそばにいるときは防壁も張れるし同時にいくつもの力を使える。なのに自分一人になると、ただ殴りかかられただけでも避けられないんだ。俺、あいつの戦い方がなんかずっと不安定で気になってたんだけど……今日、そのわけがやっと分かった」
あの少年が紺野に殴りかかった、あのとき。予備動作も大きく動きも遅く、特殊能力などなくとも、人並みの反射神経があれば十分によけられる攻撃だった。寺崎も玲璃も、まさか殴られるとは思っていなかったからこそ、紺野が全く避けずにあっさり殴られたあの時は、あんなに泡を食ったのだ。
「多分、あいつは一人にしない方がいい。一人だと、また昨日みたいな滅茶苦茶なやられ方をする気がする」
黙って寺崎の話を聞いていたみどりは、ポツリと口を開いた。
「かあさんがあの子をうちに呼びたいって思ったのは、あの子の手を見たからよ」
「……手?」
「紘は気づかなかった? 今度そっと見てごらん。あの子の腕……」
みどりはそう言うと、どこか遠くを見るような目つきをした。
「一人で支えきれる重さじゃないものね、あの子の抱えてるものって……。絶対に誰かが一緒にいてやったほうがいいわ。かあさんはたとえ危険があっても、あの子のそばにいてやりたい。それは、変わらないわ」
みどりはそう言うと、戸惑ったように自分を見つめる息子に、にっこりと笑いかけて見せた。