5月3日 5
事故現場から一キロメートルほど離れた人気のない河川敷。紺野が少年の催眠を解いている間、玲璃と寺崎は離れた位置からその様子を見守っていた。
「総代、大丈夫ですか? 足……」
「ん? これのことか?」
玲璃はびしょ濡れの自分の足に目を落とす。
「大丈夫だ。これくらい」
「いいですよ。ここは、俺が見てますから……」
「いいんだ。別にいいだろう、ここにいたって」
玲璃が言うと、寺崎は困ったように笑った。
「総代も、変わってますよね」
「……そうか?」
「あいつも、かなり変わってますけど……」
そう言うと寺崎は、少年に覆いかぶさるようにして額を押しつけている紺野に目を向けた。もう三十分近く、ああしているだろうか。
「ガードが、相当きっついみたいっすね」
玲璃も紺野に目を向ける。結局、今回も助けられてしまった。しかも、大けがを負っている相手にだ。自分がしたことといえば、余計な反撃をして少年を危険な目に遭わせたことだけだ。玲璃は自分の無力さを痛感していた。こうして誰かに迷惑をかけなければ一人では何もできないのかと、自分が情けなくて、やりきれなかった。
と、紺野がふうと息をついて顔を上げた。二人は大慌てでその側に駆けよる。
「どうだ? 紺野」
寺崎の問いに、紺野は額の汗を拭いながら頷いた。
「もう大丈夫です。意識が戻るまでには時間がかかると思いますが……」
そう言うと、目眩でもしたのだろうか、両手を地面についてうつむいた。
「大丈夫か、紺野……」
玲璃は傍らにしゃがみ込むと、悲痛な面持ちでその顔をのぞき込んだ。
「ごめんな。また、迷惑をかけてしまって……おまえ、あんなにひどいケガをしたばかりなのに……本当に、申し訳ない……」
玲璃の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。紺野は目を丸くすると、焦った様子で首を振った。
「大丈夫です。何も、迷惑なんて……」
玲璃は激しく頭を振った。
「迷惑ばっかりだ。私なんて……総代なんて言ったって、名前ばっかりで、なんの力もない。さっきだって、危うくその子をたいへんな目に遭わせてしまうところだった……」
傍らにたたずむ寺崎は、心配そうにその様子を見守っている。
「私は本当に駄目なやつだ。やっぱり、高校に通う資格なんて、ないのかもしれない。通ったって、またこんなふうに、みんなに迷惑をかけるだけだ……」
こみ上げる嗚咽に言葉を奪われ、肩を震わせながら、大きな瞳から止めどなく涙を溢れさせ続ける。
紺野はしばらくの間、そんな玲璃を黙って見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「……そんなこと、ありません」
おずおずと顔を上げた玲璃の目に、紺野の穏やかなまなざしが映る。
「以前、あなたは僕に話してくれましたね。数学が好きだと」
玲璃は涙を拭いながら、無言で頷いた。
「その時、僕に聞きましたね。やりたいことは、何なのか、と」
その言葉に玲璃は、ハッと息をのんで紺野を見た。
「あの時は、おまえのことを何にも知らなくて、本当に……」
謝ろうとした玲璃の言葉を遮るように、紺野は続けた。
「あの時、僕はびっくりしたんです。そんなことは考えたこともなくて。それで考えたんです。僕のやりたいことは、何だろうと」
紺野は本当に、今まで見せたことのないくらい優しい、穏やかな表情を浮かべながら、静かにこう言った。
「僕は、みなさんを守りたい」
玲璃は、大きくその目を見開いて動きを止めた。寺崎も、瞬ぎもせず紺野を見つめている。
「あなたも、寺崎さんも、神代さんも……。僕は今まで、一人で生きてきました。僕のような人間は、他人と関わってはいけないから……。でも、あなたがたと出会って、僕はこの一カ月間、本当に幸せなんです。人と関わるってこんなに素晴らしいことなんだと、皆さんに教えていただいたんです」
長い睫毛に押し出された涙が、紺野の白い頬を伝い落ちる。
「僕が皆さんに何かお返しすることができるのなら、お返ししたい。お役に立てるかどうか分かりませんが、……かえって、迷惑をかけてしまうのかもしれませんが、護衛を、やらせていただけませんか。自分が生きていることで、誰かの役に立てるのなら……自分が存在する意味が、ひょっとしたら、見いだせるのかもしれない」
紺野の言葉を聞きながら、玲璃は突き上げる嗚咽をどうすることもできずに、止めどなく涙を溢れさせ続けていた。寺崎も、横を向いて俯き、鼻をぐずぐずさせている。
ようやく嗚咽を飲み込むと、玲璃は震える声を絞り出した。
「本当に……いいのか?」
紺野は頷いた。その顔は、穏やかなほほ笑みをたたえている。その笑顔がまぶしくて、玲璃はしきりにハンカチで目元を拭っていたが、突然、何を思いついたのかその手を止めると、勢いよく顔を上げた。
「……わかった。じゃあ、私もおまえを守る」
意味が分からなかったのだろう。ぽかんと口を開け、狐につままれたような表情で、紺野と寺崎は玲璃を見つめている。そんな二人の反応にお構いなく、玲璃はいかにも得心がいったというふうに、何度も頷いた。
「そうか、そうすればいいんだ。おまえが危ないときは私がおまえを守る。守れるように、がんばってもっと強くなる。そうして、少しずつ危険を分け合って……そうだ。そうすればいいんだ」
独り言のように呟きながら頷いている玲璃を、寺崎はあっけにとられたように見ていたが、やがて、耐えきれなくなったように吹き出した。そのまま、肩を揺らして笑い続けている寺崎を、玲璃は不愉快そうに口をとがらせて睨み付ける。
「何だ、寺崎。何がおかしいんだ」
「だって総代……。変ですよ、それ。何で総代が紺野を……」
「変とか言うな! さんざん考えて、やっと出した答えなのに……」
何とか笑いを収め、よじれた腹を撫でさすりながら寺崎は言った。
「それ、俺もやりますよ」
玲璃は驚いたように寺崎を見上げる。
「俺は総代も守るし、紺野も守る。みんながみんな、自分のやれる範囲でお互いを守り合えばいいっしょ。ま、俺はあんま役にはたたねえかもしんないすけど」
そう言って寺崎が明るく笑うと、玲璃もつられて笑顔を見せた。
「私だって、まだあんまり役にたてる気はしない。お互いさまだ」
そんな二人を、紺野は思考が追いつかないといった風情で、ぼうぜんと見つめている。
「てことは、じゃあ、なんとしても総代には学校に行ってもらわなきゃですけど……やっぱ最後の難関は、魁然総帥か……」
寺崎のその言葉に、玲璃は少し表情を改めた。
「……大丈夫。私がなんとか説得する」
「その辺、俺もなんか協力できたらいいんすけど……てか、とりあえずこの子、どうしましょう。このまんまじゃまずいっすよね」
寺崎は倒れていた少年を軽々と負ぶって立ちあがった。
「そうだな。とりあえず病院に連れて行こう。享也さんは今回の件を知っている。診察してくれるはずだ。この子は昨日と今日、二日間にわたって鬼子の催眠をかけられている。大きな能力発動もしていたし、何か異変があったりしたらたいへんだ」
「了解です。紺野、おまえはどうだ? 歩けるか?」
「……あ、はい」
ぼんやりしていたところにいきなり声をかけられて焦ったのか、紺野は慌てて立ちあがろうとした。だが、急な動作に体がついていかれなかったらしく、思い切りよろけて倒れかけた。
「危ない!」
玲璃が、素早い動作で倒れかける紺野を抱き留める。紺野は赤くなって息を飲むと、玲璃から離れようとした。だが、玲璃はしっかりとその体を抱え込んで離さなかった。
「……おまえ、歩くの無理だな」
玲璃はそう言うと、紺野を抱き留めたまま寺崎を見た。
「寺崎、その子、私が背負う」
「え? 総代がすか? でも……」
「おまえは、紺野を背負え」
「僕は大丈夫で……」
紺野は首を振ると、必死で玲璃の体を突き返そうとする。が、魁然家総代の力を紺野程度の細腕で突き返せるわけがない
「どこが大丈夫なんだ」
玲璃はしっかりと紺野を抱き抱えたまま、怖いくらいの目で睨み付けた。
「なら、私がおまえを背負うか? それってちょっと絵的に変だろ。だったら私がその子を背負って、寺崎がおまえを背負えばいい。……寺崎、早くしろ」
寺崎はその言葉に思いきり噴き出した。クスクスと肩を震わせながら、背負っていた少年を下ろす。
「総代……総代ってやっぱり、面白いっす」
「うるさいな。笑ってないで、早く紺野を背負ってやれ」
はいはいといいながら少年を玲璃に渡すと、寺崎は紺野を背負った。玲璃も軽々と少年を背負う。体力的に優れた魁然家の人間にとって、五十キロ程度の重みは重みのうちに入らないのだ。
「……すみません」
紺野がおずおずと言うと、寺崎はまた明るく笑った。
「気にすんな。このくらいさせてもらわないと、いた意味がないからな」
夕刻の薄赤い光が辺りを覆い始め、白い花がピンク色に染まる河川敷を、紺野を背負った寺崎と、少年を背負った玲璃は、濃く長い影を従えながら病院へ向かって歩いていった。