5月3日 4
――冗談じゃない!
足首まで泥水に浸りながら、玲璃は奥歯を噛みしめ、必死の形相で川からはい上がろうとしていた。
――本当に、冗談じゃない。自分で自分の身くらい守れなくてどうするんだ!
脳裏にまた、血だらけの紺野の姿がよぎる。
――他人にあんな思いをさせてまで守ってもらわなきゃならないなんて、情けない。私は魁然の総代だ! こんな能力発動くらい、振り切れなくてどうする!
川べりの芦を掴み、岸に這い上がろうと泥を踏みしめながら、必死で発動ポイントを探る。玲璃は神代一族ほどではないにしろ、能力発動を感知できる。この力を発動している相手の位置くらいは、読み取れるはずだ。
右斜め前方、距離五十メートル。
――そこだ!
次の瞬間、玲璃は川べりの石を掴み取って投げとばしていた。能力で動作を制限されているとは思えない動きだった。能力者が玲璃の意図に気づく間も与えず、石は弾丸と見紛うスピードで能力発動源に向かって一直線に風を切る。
石の弾丸の進む先、川にかかる鉄橋の下に、少年……左足に下肢装具をつけた、あの少年の姿があった。少年はぼんやり川面に目を向けていて、迫りくる石の弾丸に気づいてもいない様子だ。
――仕留めた!
玲璃が確信した、刹那。
少年の目の前で、石ころが乾いた音をたてて砕け散った。
――⁉
同時に、右足を膝下まで川に浸している玲璃の手を、誰かの大きな手が掴む。
「大丈夫っすか、総代!」
「……寺崎⁉」
寺崎が川岸に足を踏ん張り、掴んでいる玲璃の右手を自分の方に引き寄せる。川に引きずり込まれるあの感覚はウソのように消え、玲璃は寺崎によってやすやすと川岸に引き上げられた。
「あ、ありがとう……でもおまえ、どうして、ここが……」
聞くまでもなかった。寺崎の目線を追ったその先、少年よりさらに数メートル先に、橋脚の壁にもたれるようにしてたたずむ紺野の姿があったのだ。
先ほど、石ころを砕いた能力発動。玲璃を川に引きずりこもうとしていたエネルギー波とは明らかに波調が違った。紺野がやったのだろうということは、容易に想像がついた。
「あいつ、人間を傷つけたくないんです……多分」
寺崎が紺野の方に目を向けながら、ぽつりと呟いた。
一瞬で幾多の人の命を奪った経験を持つ紺野。彼はもう、自分が関わる全ての場面で、人が死んだり傷ついたりするのを見ることが耐えられないのだろう。彼の抱えるものの重さはわからないにしろ、その気持ちは玲璃にも分かる気がした。
玲璃は、あの石を全力で投げた。鬼子の能力発動で体の動きが封じられていたためにそうせざるを得なかったのだが、そのためにあの弾丸は、恐らく人間の額を撃ち抜けるくらいの威力を持っていたはずだ。鬼子は操っていたあの少年を守るようなことはしなかっただろう。つまり、石があの少年にあたっていれば、ケガどころではない結果を引き起こした可能性がある。自分の身を守りたいがために深く考えもせず全力で石を投げつけた自分の未熟さと、引き起こされたかもしれない結果の重さのアンバランスに、玲璃は背筋が凍りつくような気がした。
と、少年が動いた。例の、幾分変わったリズムで足を運びながら、橋脚にもたれている紺野に近づいていく。紺野は身構えることも、逃げることもせず、ただ黙って橋脚にもたれかかり、自分に近づいてくる少年を見ている。
少年が紺野の目の前に立った。紺野はそれほど背が高い方ではないが、それでも一応高校生なので少年と比べたら十センチメートル以上目線が高い。紺野が自分の目の前に立つ少年を見下ろした、その時。ふいに、少年が動いた。
少年は両手を握り合わせ、手の指を交互に組んだ拳を高々と振り上げた。かと思うと、紺野の肩……ちょうど、少年に刺された傷の辺りだ……めがけて、それを力の限りに打ち込んだのだ。
拳は紺野の肩を直撃した。肩を抑えてよろけた紺野の髪を両手でわしづかみにすると、少年はその手を力いっぱい引いて紺野を地べたに引きずり倒す。されるがままに倒れ込んだ紺野に馬乗りになると、手近にあった、人の頭ほどもある大きな石を両手で持ち上げ、紺野の頭上に高々と差し上げる。
寺崎と玲璃は、少年が紺野を殴りつけた瞬間から走り出していた。振り下ろされた石が紺野の頭を直撃する寸前、玲璃が石を奪い取り、寺崎が少年を羽交い締めにして事なきを得た。
寺崎と玲璃が安堵のため息をついた、その時だった。
「いけない! ここに集まっては……」
倒れていた紺野が半身を起こし、切羽詰まったように叫んだ。
玲璃と寺崎は、紺野がなにを言いたいのかがわからなかった。怪訝な表情を浮かべながら二人が顔を見合わせたのと、寺崎が羽交い締めにしている少年の体から、膨大なエネルギー量を持つ赤い輝きが迸ったのは同時だった。
刹那。目の前の古びた橋脚に、横一直線に亀裂が走った。はっとする暇もなかった。
「……!」
寺崎は反射的に抱えている少年と玲璃に覆い被さった。
一瞬の間ののち、轟音とともに橋梁が崩れ去った。川に架かる鉄橋が、積み木のように崩れ落ちる。土煙が舞い上がり、地面が揺らぎ、轟音が鳴り響き、水柱が上がる。
寺崎と玲璃は、ぼうぜんとしていた。目の前で起きていることなのに、なぜだか映像作品を見ているかのように現実感がなかった。地獄のような地響きに包まれながら、崩落する橋桁と、見たこともない大きさの水柱が立つ川と、雨あられと降り注ぐがれきや粉塵を、半ば放心しながら眺めやっていた。
――降り注ぐ?
玲璃はハッとして自分たちの周囲を見回した。彼らの周辺数メートルほどの範囲だけ、まるで見えない壁で守られているかのように何事もないのだ。その外側は、狂ったようにがれきが降り注ぎ、粉塵が舞い上がっているのにだ。
その時。彼らの頭上に巨大ながれきの塊が降り注いできた。玲璃は思わず息を詰め、寺崎は慌てて彼らを抱き寄せてかばう。だが、落ちてきたがれきは彼らの頭上数メートルほどの位置で、まるで見えない屋根にぶち当たったかのように弾み、川の中に大きな水しぶきをあげて落下した。
「……これは?」
どうやら、彼らの周囲を何か目に見えない壁のようなものが取り囲んでいるらしい。玲璃は恐る恐る手を伸ばし、自分たちを包み込んでいる何かと外部との境目あたりに触れてみる。目には何も見えないのに、一定の位置まで来ると不思議な手ごたえを感じてその外に手を伸ばすことができない。手で触れながら探ってみると、球体のような形をしていることもわかる。まるで物体のように感じられるそれが、外の世界と自分たちの周囲を隔絶し、外部影響から身を守る防壁だということは、そういった能力を持たない玲璃にもすぐに分かった。
玲璃は、防壁の壁にもたれるような姿勢で座っている紺野に目を向けた。
「……おまえが?」
紺野は小さく頷いた。白い病院服の肩には、先ほど殴られた際に傷が開いてしまったのだろう、鮮やかな血がにじんでいる。
「大丈夫か、紺野。……血が」
玲璃が心配そうに問いかけると、紺野は小さな声で答えた。
「僕は大丈夫です。それより、この子が……」
紺野は顔を上げると、すっかり気を失って倒れている少年に目を向けた。
「あそこまで大きな力の放出にさらされれば、脳にかなりの負担がかかったはずです。早くガードを外して、催眠を解いてやらないと……」
そう言いつつ、紺野は寺崎の方を見た。
「ただ、大きな力の放出があったおかげで、あいつの居場所がわかりました」
「マジか? どこだ⁉」
「あそこです」
紺野はまっすぐに川の対岸を指さした。
相当に遠い場所で、普通の人間には豆粒程度にしか見えないだろうが、普通の人間の倍以上に高精度の視力を持つ寺崎には分かった。サッカーグラウンドの向こう側、堤の上に見える、銀色の車輪……。
「あの、車椅子のやつか⁉」
紺野が頷いた、その時。違和感を覚えた気がして目線を上げた玲璃が、息を呑み、顔色を変えて叫んだ。
「電車がくる!」
二人は弾かれたように鉄橋を見上げた。
鉄橋が落ちたのはこちら側の一部だが、その反対側、まだ落ちていない対岸から、赤いラインの電車が能天気な音をたてながら走ってくる。停車する気配は一切ない。
「どうしてだ? 鉄橋が落ちたことくらい見れば分かるはず……」
玲璃は言いかけてハッとする。簡単な話だ。鬼子が崩落現場一帯の異常を認知できないよう遮断をかけているに違いない。
そうこうしている間に、電車は鉄橋にさしかかった。
「電車が落ちる!」
玲璃が絶望したように叫んだ。これから起こりうる惨劇に成すすべもなく、玲璃も寺崎も、身の凍るような思いで成り行きを見守るしかなかった。
紺野の体から、目も眩むほどの白い輝きが迸ったのはその時だった。
玲璃も寺崎も、今まで感じたこともないその莫大なエネルギー量に息をのむ。
紺野からほとばしった白い輝きは光の矢のごとく空気を切り裂いて伸び、またたく間に落ちた鉄橋と鉄橋の間をつないだ。電車は、その光の上を当たり前のように進んで行く。まるでそこに、見えない線路が敷かれてでもいるかのように。子どもの頃に見た、宇宙空間を走る列車のアニメ映画そのものだった。列車はそうして、何もない中空を三十メートルほども進んで、何事もなかったかのように対岸の駅に吸い込まれていった。
列車が駅に消えると、玲璃と寺崎は体中の力が抜けたかのようにへなへなとその場に座り込んだ。
一歩間違えれば、数百人が死傷する大惨事だったのだ。寺崎はあまりのことに現実認識が追いつかない様子でぼうぜんとしていたが、ややあって、ハッとしたように振り返って対岸に目を凝らした。が、そこには既に、車椅子の姿はなかった。
「追跡できませんでした。すみません」
紺野が身をすくませながら小声で言う。寺崎は慌てて頭を振った。
「仕方ねえよ。しっかしおまえ、すげえなあ」
紺野は暗い表情で手元を見つめた。
「ただ逃げるためにあそこまでするとは、思いませんでした」
玲璃はすっかり橋桁が崩落し、無残な姿を晒している鉄橋に目を向けた。
「鬼子の遮断は、解けたんだろうか」
「大丈夫だと思います。あいつの気配が消えたと同時に、解けたようです」
そう言うと紺野は、気を失っている少年に目を向けた。
「事故現場なので、すぐに人が集まって大騒ぎになると思います。すみませんが、どこか人目につかないところに連れて行っていただけませんか。この子を、治してやらないと……」