5月3日 3
紺野がいるという八〇三号室は、個室ではなくベッドが六台入った大部屋だった。現場検証その他で個室が一室封鎖されてしまったためだろうが、紺野という人間に対する信用が厚くなったような気がして、寺崎は悪い気はしなかった。
紺野のベッドは一番奥の窓際にあった。寺崎が同室の患者らに頭を下げつつ一番奥の窓際のベッドに歩み寄り、間仕切りカーテンの中を首を突っ込むようにしてのぞくと、紺野はどうやら眠っているようだった。
気配を消し、足音を忍ばせて枕元に近づき、眠っているその顔をのぞき込んでみる。ほのかに赤みの差した頬に、色味のある唇。規則的な呼吸を繰り返す穏やかな寝顔には容体の好転が感じられ、寺崎は体の力が抜けるような安心感を覚えた。その顔を眺めるうち、ふいに血の海に真っ青な顔で転がっていたあの時の凄惨な状況が頭をよぎり、喉の奥がこわばるような感覚に襲われた寺崎は、慌ててぼやけてきた目元を腕でこすると、置かれていた丸椅子に座り、買い物袋に入っている下着やらTシャツやらのタグを切る作業に専念して気をそらした。
と、その気配に気づいたのだろう。紺野の目が薄く開いた。ぼんやりと天井を眺めやってから、ゆるゆると目線を枕元にうつし、そこに座っている見覚えのある人物の姿に目をとめる。
「……寺崎、さん?」
どうして彼がそこにいるのか、理由がよくわからないのだろう。怪訝そうなその声に、寺崎はタグを切る手を止めると、目線を上げて紺野の顔を見た。
「あの……」
寺崎は完全に動きを止め、無言で紺野を見つめている。表情すら動かさない。紺野は口を開きかけたものの、食い入るように自分を見つめるその視線の圧力に気おされて、なにも言えずに口を閉じた。と、ふいに寺崎は顔をゆがめ、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「紺野……ホントに、生きてんだよな?」
問いかけの意図がわからず、紺野が中途半端な表情で遠慮がちに頷いてみせると、寺崎は体中の力が抜けるような深いため息をついた。そのまま、しばらくは膝に腕を預けて俯いていたが、ややあって、幾分震えた声でぽつりと呟いた。
「よかった、本当に……」
明らかに様子がおかしい寺崎を前に、状況が把握できずに紺野がおろおろしていると、寺崎は絞り出すように言葉をついだ。
「俺、またおまえを助けられなかったんだよな……役立たずで、申し訳なかった。ゴメン。許してくれ」
最初、寺崎が何のことを言っているのかわからなかったのだろう。紺野は困惑しきった表情で固まっていたが、その意味が分かると、驚いたように目を丸くした。慌てた様子でよろよろと起き上がり、首を振ってみせる。
「……とんでもないです。あれは僕の失態で、寺崎さんは、なにも……」
寺崎は膝に預けた両手で顔を覆うと、紺野の言葉など聞こえていない様子で、独り言のように言葉を続けた。
「俺、あのままおまえが死んじゃってたら、万死に値するっつーか……悔やんでも悔やみきれないところだったから、マジで、よかった。ほんと、……生きててくれて、ありがとう」
紺野は言いかけた言葉を飲み込んで固まった。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。生きている、ただそれだけで他人から感謝の言葉をかけてもらえるなどと、彼は思ってもみなかった。いや、それ以前に、自分は生きていてはいけない人間だと思っていたのだ。言うべき言葉がみつかるはずもなかった。
そんな紺野の内心など知る由もなく、思考を切り替えた寺崎は勢いよく顔を上げると、先ほどまでの重い雰囲気がウソのような明るい笑顔で、タグを切っていたTシャツを広げて見せた。
「つーことで、これ! 入院長引くって聞いたから、お詫びの印ってことで、ユニシロで寝間着になりそうなもんいろいろ買ってきた。俺の古着じゃ、おまえ、だぶだぶで怪しいからさ」
「え? いえ、あの……」
「ちっさめがいいかと思ってちゃんとSサイズ買ってきたぞ……あ、これとか、ほら、靴! おまえ、サイズ二十六センチいい? 違ってたら取り換えてくる。これでもう、裸足で転移してこなくてすむからな」
楽しそうに説明しながら次々に袋から品物を出してはベッドの上に広げていく寺崎を、紺野はあっけにとられたように眺めていたが、ややあって、遠慮がちに口を開いた。
「あ……あの、ありがとうございました。お金は、後日必ず返します。レシートを、置いていっていただ……」
その発言を断ち切るように、寺崎がむっとしたような顔を紺野の眼前に突き出した。
「……おまえ、俺が金とるようなヤツに見えんの?」
怖いぐらいの目で至近距離から睨みつけられた紺野は、言いかけた言葉を飲み込むと、あわてて首を振ってみせる。
「え? ……あ、いえ、そんなことは、全然……」
「だろ?」
寺崎はにっと笑うと、紺野の頭をぐしゃぐしゃっと荒っぽく撫で回した。紺野は思わず目を瞑って首をすくめる。
「お詫びの印なのに、レシート置いてくバカがいるかよ。おまえは黙ってありがたく受け取ってりゃいいの」
引っ掻き回されてボサボサになった頭もそのままに、困惑しきった表情で自分を見上げた紺野を見て、寺崎は苦笑まじりに肩をすくめた。
「……まあ、礼がしたいってんなら、早く元気になれ。とりあえずおまえは、生きててくれりゃそれでいいんだ」
紺野は息をのんだ。呼吸すら忘れて、屈託なく笑う寺崎を見つめる。
本当に息が止まるかと思った。三十数年生きてきて、生まれて初めてだったのだ。他人から、こんなにあたたかい言葉をかけてもらったのは……。
「……紺野?」
寺崎は、驚いたように紺野の顔を見つめた。
ぼうぜんと自分を見上げる紺野の頬を、涙が幾筋も伝い落ちていたのだ。
「おまえ……どうした?」
「え?」
紺野自身も、声をかけられ、手で拭ってみてはじめて気が付いたらしい。濡れて光る自分の手の甲を、戸惑ったように見つめている。
「? ……分かりません。すみません」
紺野は両手で目元を擦ったが、涙はあとからあとからとめどなく流れ落ちる。寺崎は買ってきた荷物から慌ててハンドタオルを取り出すと、タグも切らずに紺野に渡した。紺野は小さく頭を下げると、タグのついたタオルを受け取り、そのままの状態で目元にあててじっとしている。寺崎はそんな紺野を、困惑した顔で見つめた。
☆☆☆
玲璃は、堤防の土手に座り込んで、ぼんやりと川の流れに目を向けていた。
マラソンをする老夫婦、マウンテンバイクに乗った小学生たち、列を成して川べりのグラウンドを走る高校球児たち。時折、サイクリングロードを通り過ぎる幸せそうな「普通の」人たちの姿を横目で眺めやりながら、玲璃は深いため息をついた。
玲璃の頭には、先ほどの亨也の言葉が繰り返し響いていた。
『何が正しいとかではなく、あなた自身がどういう理由で、何を選択するかをきちんと理解し、覚悟して選択することが重要だと思います』
――どの道にも一定の正しさがあるというなら、答えはないに等しい。私は何を基準に選べばいいんだろう。その選択に、責任なんか持てるんだろうか。私の年で、そんな重い選択をしていいいんだろうか。それよりは、誰か、信頼できる大人の勧めに従って、責任を丸投げしてしまった方がいいのではないだろうか……。
信頼できる大人。父親であり、魁然家総帥である義虎の勧めに従うことが、玲璃にとっては一番楽な選択であることは間違いない。いざというとき、責任を全て義虎に丸投げしてしまえばそれで済むからだ。自分は難しいことを何も考えなくても済む。
――でも。
玲璃の脳裏に、血だらけの紺野の姿が過ぎる。その選択はすなわち、あの地獄に紺野一人を放置して自分だけ立ち去るということに等しい。そして、自分が立ち去ったあとも、紺野は一人であの地獄で苦しみ続ける。そうなれば、早晩死んでしまうだろうとも享也は言っていた。義虎はおそらくそれでもかまわないのだろうし、自己責任だといって笑って流すのだろうが、玲璃にはとてもそんな風には思えなかった。彼は、魁然の女――自分の母親である裕子によって、地獄に引きずり込まれたに等しい被害者なのだ。その責任を放り捨てて、自分だけ素知らぬ顔で平和な日常を享受する気には、玲璃はとてもなれなかった。
『護衛という職に就けることで彼を学校という彼の年齢に見合った生活環境にとどめ、一定の収入を与えることは、彼を現世につなぎとめる非常に太くしっかりとした安全ロープになるだろうと、私は思っているのです』
――本当に、そんなものが彼を支えるロープになりうるんだろうか? 結局、攻撃の機会を増やして、彼を傷つけるだけの結果になりはしないのか……。
考えれば考えるほど深みにはまって答えが遠ざってしまう。玲璃はため息をつくと、日差しを浴びてきらきら輝く川面に目を向けた。
河原の土手には、白い大根の花が今を盛りに咲き乱れ、川べりを白いじゅうたんさながらに彩っている。
玲璃は立ち上がると、その花に誘われるように足を踏み出した。
大根の花の間を抜けて土手を降り、ゆったりと流れる川のほとりに出る。石ころだらけの川辺は人気もなく静かで、吹き渡る風が何とも心地よい。玲璃はうつうつとした気分がいくぶん晴れる気がして、川風に眼を細めながら、太陽の光を受けてキラキラ輝く川面に目を向けていた。
その時、玲璃は自分の右手がなにかに強く引かれたような気がして、息をのんだ。
「……⁉」
当然のことながら、周囲に人の姿はない。だが、確かに引っ張られている。魁然家の血筋を引く玲璃ですら抗えないほどの、圧倒的な力だ。しかも、手だけが引っ張られているのではない。体全体が、川の方へぐいぐいと引かれている。同時に感じる、強力な能力発動の気配。
――鬼子⁉
玲璃は満身の力を込めて反対方向へ行こうと踏ん張る。やっとのことでほんの少しだけ川から離れた体が、次の瞬間まるで磁石に吸い寄せられるように再び川へ引き込まれる。
行きつ戻りつを繰り返しながら、徐々に玲璃の体は、川の流れに近づいていった。
☆☆☆
紺野が弾かれたようにタオルから顔を離した。
心配そうにその顔をのぞき込んでいた寺崎は、何の前触れもなく紺野が顔を上げたのに驚き、ギョッとしたように目を丸くしてのけぞる。
「な、なんだよ紺野、いきなり……」
紺野は答えなかった。一点を凝視しながら、じっと何かに意識を集中している。そのただならぬ様子に、寺崎はハッとした。
「……あの子どもか?」
紺野は小さく頷くと、腕につながっていた点滴その他の管をわしづかみにして一気に引き抜いた。ベッドから降りると、ベッドガードに縋って立ち上がろうとする。だが、重傷を負ったばかりの体には負荷の大きい動きだったのだろう。フッと目の前が暗くなった紺野の体が、支えを失ったように崩れ落ちる。
倒れかける紺野を、寺崎は慌てて抱きかかえて支えた。
「行くつもりかよ⁉ 無理だろ、おまえ、そんな体で……」
「でも……」
紺野が寺崎を見上げて、何か言いかけた時だった。
【行けますか?】
突然、何者かの意識が二人の脳を貫いた。
紺野はハッと目を見開いて動きを止めた。送信を傍受した寺崎も、同様に動きを止めて集中する。
【玲璃さんが危ない。申し訳ない、一人にした私のミスです。あなたが無理なら、私は今、この患者を置いてでも行くつもりですが……どうですか? 行けますか?】
送信してきたのは、亨也だった。
彼は今、交通事故で運ばれてきた患者の手術に入るところだった。支度をしながら、紺野に意識を送ってきているらしい。
紺野は迷いなく頷いた。
【行きます】
【助かります。……頼みます】
その間、寺崎は厳しい表情で紺野を見つめていたが、紺野が頷いたのを見て取ると、突然、買ってきたばかりの靴を紺野に放ってよこした。
「履け! そのままじゃまた裸足になる」
紺野は戸惑ったように動きを止めたものの、小さくうなずくと、言われた通りその靴を履いた。
「その代わり、俺も連れて行け。足手まといだろうがなんだろうが、行くからな!」
紺野はおずおずと寺崎を見上げると、遠慮がちに頭を下げる。
「……すみません」
「謝んな! いいから、行くぞ!」
次の瞬間。カーテンに映っていた二人の影が、ふっと消えた。