5月3日 2
「あ、総代! こっちです」
地下鉄の駅前。雑踏の向こうから俯き加減で歩いてくる玲璃の姿を認めた寺崎は、大きく手を振りながら駆け寄った。
「びっくりしたっすよ、俺、てっきり総代は黒塗りベンツだと思ってたんで、現地集合でいいかって思ってたんすけど……マジで護衛の人、誰もいないんすか? 大丈夫ですか? あんなことがあったばかりなのに……」
玲璃は寺崎から目線をそらし、吐き捨てるように言葉を返す。
「大丈夫かは知らない。でもとにかく、私はもう護衛はいらないから」
地下の改札に下りるエスカレーターに向かいながら、寺崎は不安げに玲璃を見てから、気分を盛り立てようとでも思ったのか、おどけたような笑顔を見せた。
「あ……まあ、大丈夫っすよね。俺もいちおう護衛なんで、ちょっと頼りないすけど、俺がちゃんとやれれば……」
「おまえは護衛じゃない!」
強い調子で断じられ、寺崎は言いかけた言葉を飲み込んだ。
きつい言い方になってしまったことに気づいたのか、玲璃は目線を彷徨わせると、小さく頭を下げた。
「……ごめん。でも、おまえは護衛じゃないから。今日は、ただの友だちだ。危ないことは絶対にしなくていいし、なにかあったら私を置いてすぐに逃げてほしい。それに、私は要らないと言ったのに、父が勝手に何人かよこしてるみたいだし……」
「え……」
慌てて背後に意識を集中する。言われてみれば確かに、二人から三人くらいの視線が玲璃に向けられているのを感じる。言われなければわからないあたり、さすが魁然家直属の護衛だと感心しつつも、護衛の存在に言われなければ気づけない自分の力不足に思い至り、いくぶん落ち込む寺崎であった。
☆☆☆
地下鉄でも特に何事も起こらず、無事にたどり着いた病院の受付で聞いて驚いた。紺野はすでに一般病棟に移っているというのだ。再度確認したが、やはりそうだという。寺崎はホッとしすぎて、思わず涙が出そうになった。
「さすが、神の手を持つ外科医……マジでよかったっすよね……」
エレベーターホールに向かいながら、寺崎は目元をゴシゴシこすりつつそう呟いて玲璃に笑いかけて……固まった。
隣を歩く玲璃の目から、涙がボロボロこぼれ落ちていたのだ。
「あ……っと、総代……これ」
寺崎は大慌てで体中のポケットを探り、見つけ出したハンカチをおずおずと玲璃に差し出す。玲璃は差し出されたハンカチを見やってから、「ありがとう」と小さく頭を下げて受け取ると、それを目もとにあて、嗚咽しながら立ち止まってしまった。病院内を歩く人々が怪訝そうに二人に目線を流す。寺崎は焦りまくりながらも、玲璃を廊下の端に誘うと、歩いている人から彼女の姿が見えにくくなるように盾の役割をした。
玲璃はしゃくり上げながら、寺崎に小さく頭を下げる。
「……ごめん、ホッとしたら、急に涙が止まらなくなって」
「いや、全然大丈夫っす。気持ち、わかります。実を言えば、俺もちょっと涙出ましたもん。仕方ないっすよ。好きなだけ泣いてスッキリしちゃってください」
玲璃は目元を拭う動きを止めると、ぽつりとつぶやいた。
「……ありがとう、おまえ、優しいな」
その言葉に、寺崎の心臓が大きく跳ねた。そこから、倍速の拍動が止まらなくなる。
――うわ、やっべ。なにコレ?
ドキドキしながら、俯き加減で涙をぬぐう玲璃をおずおずと見下ろす。
一族の総代にふさわしく堂々としていて、快活で自信にあふれた明るい彼女しか知らなかった寺崎にとって、こんなにかよわく、頼りなげで、はかなげな彼女は見たことがなかった。これまでの印象との落差に戸惑いつつ、訳の分からない動悸が収まらない。そういえば、こんなに傍に近づいたことも今までになかった。寺崎の鋭い嗅覚は、先ほどから玲璃の髪から香るふんわりした柔らかい匂いに刺激され続けている。その匂いだけでも、なんだか頭がどうにかなりそうな気がした。
――ちょっと待って。これ以上、この体勢続けんのマジでヤバい……。
「あれ? お二人とも、いらしてたんですか。お見舞いですか?」
ふいに背後からかけられたその声に、ただでさえ緊張の極限に達していた寺崎は思わず飛び上がりそうになった。こわごわと後ろを振り向くと、そこに立っていたのは白衣姿の神代享也だった。神代一族の最高峰に位置する一族の重鎮の姿に、さっきとは全く違った意味で心臓が縮み上がるような緊張を覚えつつ、寺崎は慌てて居住まいを正して直角に腰を折り曲げた。
「ご、ご苦労さまです神代総代! この度は、紺野の件、本当に、どうもありがとうございました!」
大仰なその態度に享也は赤くなると、慌ててあたりを見回しながら手を振った。
「いえいえ、そんなにかしこまらないでください。この病院ではただの外科医なんですから……」
それから、壁際で涙を落としている玲璃に心配そうな目を向ける。
「それより、玲璃さん……大丈夫ですか? どこかで休まれますか?」
玲璃は慌てて目元の涙をぬぐうと、泣き笑いのような表情をしてみせた。
「大丈夫です。なんか、安心したら急に涙がとまらなくなっちゃって……」
そういうと、表情を改めて享也を見上げる。
「あの、享也さん……紺野は、本当にもう大丈夫なんですか?」
享也はエレベーターのボタンを操作しながらにっこり笑って頷いた。
「二人は彼のお見舞いにいらしたんですよね。顔を見ていただければわかりますが、もう心配いりませんよ。あとはゆっくり回復を待てば……ただし、退院は少しだけ長引きそうですが」
「どのくらいですか」
「そうですね。一週間ほど余計にかかるでしょうか。でもまあ、退院後の生活について考えなければならなかったわけですから、ちょうどいいんじゃないですか」
「退院後の生活」という言葉に、寺崎はハッとしたように目を見開いた。
「……あの、神代総代。実は、そのことでご相談があるんです」
「なんでしょうか?」
「退院後、紺野の行くところがもしないようだったら、……うちの方で、あいつの身柄を預かれないかって思ってて」
その意外な申し出に、享也はもちろん、玲璃も目を丸くして寺崎を見つめた。
「それは……もちろん願ってもない申し出ではあるんですが、確か、あなたのお母さまは」
「はい。あの事故の被害者です。でも、実はこれ、母親の提案なんです。母親は足がない。俺一人では手が回らない分、身の回りの手伝いをしてもらいたいと言っていて……」
寺崎はそういうと、真剣な表情で享也を見つめた。
「俺も、もしこの先、あいつが総代の護衛をすることになったら、一緒に住んでれば護衛同士で連携もしやすいし、一石二鳥じゃないかって思って……って、まあ、俺は護衛としてはあんま役には立たねえかもなんですけど……」
「護衛は必要ない!」
突然、断ち切るように差しはさまれた強い調子のその言葉に、寺崎は思わず言いかけた言葉を飲み込んでから、遠慮がちに口を開いた。
「……あ、でも、もう紺野は神代一族に認められてるんすよね。あいつが神代側の護衛として加われば、総代も学校に」
「必要ない。学校は辞める」
吐き捨てるようなその返答に、寺崎は返す言葉を見失った。享也は何も言わずに上向きボタンを押して一階に到着したエレベーターの扉を開き、二人に乗るように促す。他の客とともに玲璃が硬い表情で乗り込むと、寺崎もその後からあわてたように乗り込み、最後に享也が乗り込んで扉を閉める。
エレベーター内で話しかけるわけにもいかず、寺崎は心配そうに玲璃の表情をうかがい見た。玲璃は怒ったような、何かを必死でガマンしているような表情で、じっと足もとを見つめて黙っている。
八階に到着し、エレベーターを降りたところで、享也が口を開いた。
「寺崎さんの先ほどのご提案、われわれにとってもたいへんありがたいです。退院後、アパートを借りて住むにしても、私はあの男を一人にするのがどうも不安で……最悪、私のマンションに住まわせることも考えていましたが、私はご存じの通り不規則な仕事で、結局は彼を一人にする時間が多くなってしまう。どうしようかと頭を悩ませていたところだったんです。寺崎さんのところなら、四六時中誰かの目があります。彼の動向を監視する上では非常に都合がいい」
その言葉に、寺崎はパッと表情を輝かせた。
「マジすか! じゃあ……」
「ただ、話はそう簡単ではないのですよね……寺崎さんは、本当にわかっていらっしゃいますか?」
享也はそう言うと、きょとんとした顔で首をかしげた寺崎を、心なしか鋭い目で見据えた。
「彼を預かるということは、あなたの身の回りで、危険な事態が起こる頻度が高くなるということです。彼自身も鬼子に狙われていますからね。あなたご自身は混血とはいえ魁然側の能力保持者ですから、どうにか回避することは可能かもしれません。ですが、あなたのお母さまは確か全くの一般人ですよね。お母さまが鬼子の攻撃に晒されれば、最悪の可能性もゼロではありません。そういう危険をすべて納得した上で、彼を預かる覚悟が本当にあるのか、という話なんです」
寺崎は凍り付いたように享也を見つめながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
言われてみれば確かにその通りだった。これまでに三度、紺野はあの子どもに襲われ、死にかけている。今後も同様の攻撃が続くことは十分考えられる。薄いながらも魁然の血が流れている自分はまだいい。だが、母親に危険が及ぶことまでは寺崎は考えてもみなかったのだ。
亨也はそんな寺崎を優しい表情で見つめた。
「護衛の仕事は学校にいる間だけの話ですが、彼を預かることは生活の全てに関わります。護衛の件よりはるかに複雑な問題をはらんでいるでしょう。もう少しよく考えてから答えを出した方がいいと思います。お母様にも、そのように伝えてみてください」
そうするより他にない。寺崎が頷きかけた時、玲璃の呟くような言葉が耳をかすめた。
「……護衛の件だって、十分複雑だ」
寺崎は困惑したような表情を浮かべて玲璃を見つめる。二人の一歩先を歩いていた享也はちらりと目線を背後に流すと、困ったように笑った。
「玲璃さんも寺崎さんも、昨夜はあまり眠れていないようですね。もしかして、ごはんもしっかり食べられていないのでは? そういう時は、気分が無駄にささくれ立って判断力も鈍ります。まずはしっかり食べて、ゆっくり寝てください。難しいことを考えるのは、それからにした方がいい」
「……別に、判断力が鈍ってなんか」
「今日は魁然の護衛の方の姿が見えないようですが、玲璃さんはもしかして、護衛をつけずにここへ来られたのではないですか?」
その言葉に玲璃はハッとしたように黙り込む。そんな玲璃に、享也はいたわるような目線を投げた。
「その判断は、正しいとは言えませんね。あなたが特殊な立場にあることは確かですが、危険があれば安全策を講じるのはどんな立場の誰であろうが当然です。危険はあなたの責任ではないし、身の安全は適切に守るべきです。登校に際しても、護衛をつけることはなにも間違っていない。以前も申し上げた通り、通学は当然の権利です。あなたが安全に通学できるように私も協力を惜しまないつもりですし、魁然総帥の了承がネックなのであれば、説得にも力を貸しますよ」
寺崎は驚いたように享也を見たが、玲璃は激しく首を横に振ると、廊下の真ん中に立ち止まって叫んだ。
「間違っています! 私のせいで、紺野はひどい目にばかり遭っている。私は、護衛をつけてまで学校に行くべき立場じゃない。私が我慢すれば誰も傷つかなくて済むなら、その方が……」
「昨日の襲撃は、あなたとは何のかかわりもありませんよ」
玲璃は言葉を飲み込んだ。オロオロしながら一歩下がった位置で様子を見ている寺崎を一顧だにせず、じっと享也の顔を見つめる。
享也も玲璃にまっすぐに向き直った。
「昨日、鬼子は、会合で病院が手薄になった隙に、紺野さん一人を狙ってこの病院を襲撃しました。理由は分かりませんが、紺野さん自身も明らかに鬼子に狙われています。あなたの護衛になろうがなるまいが、彼は鬼子に狙われ続けるということです。護衛に任じなければ、あなたは自分の視界から彼を追い出せるのでそれで終わりかもしれませんが、あなたから見えないところで、彼はこの先もずっと、たった一人で鬼子の襲撃に遭い続けるんです」
歯に衣着せぬ直截なその物言いに、寺崎はギョッとした。享也の言葉は、確かに自分も考えていたことには違いない。だが、見るからに不安定な精神状態の相手に、こんなストレートな言葉をぶつけていいものだろうかとハラハラした。案の定、玲璃はなにか言いかけるように口を開いたが、言葉を紡ぎ出すこともかなわず、唇の端がわなわなと震え、その目からは大粒の涙がボロボロとこぼれだした。
「総代……」
寺崎が心配そうに声をかけた、次の瞬間。くるりと踵を返した玲璃の姿が、転移さながらかき消えた。
「……⁉」
寺崎は慌てて振り返った。だが、彼が振り返ったときにはすでに、トップスピードに乗った彼女の姿はどこにも見えなかった。
「総代……!」
「大丈夫。追跡できています」
寺崎の肩に手を置くと、享也は彼女の走り去った方を見つめた。
「普段の生活では全く能力を感じさせないのですが、さすが、魁然家総代ですね。本気を出すとすごい。能力のコントロール力が抜群に秀でているんでしょう。尊敬します」
独り言のようにそういうと、自分を見つめる寺崎に困ったような笑みを投げた。
「すみません。ちょっときついことを言い過ぎましたね。私の言い方が悪かったせいなので、私が責任をもってあとを追います。心配しないでください。あなたは、その山のような荷物を紺野さんに届けに来たのでしょう?」
寺崎は、母親にもっていくように言われて買ってきたものが満杯に入った大きな紙袋に目線を落とすと、遠慮がちにうなずいた。
「でしたら、あなたはそれを彼に届けてあげてください。もしかしたら寝ているかもしれませんが、顔だけでも見ていってあげてください。例の件は改めてよく考えるとしても、こういうフォローは彼にとってとてもプラスだと思います。今後とも、よろしくお願いします」
享也に頭を下げられて寺崎は戸惑ったように目線をさまよわせたが、ややあって、小さく頷き返した。
「……わかりました。総代のことは、お任せします。よろしくお願いします」
☆☆☆
病院を出て、河川敷に出たところで、玲璃はようやくスピードを落とした。
軽く息を切らしながら、ゆったりと流れる川に目線を向ける。河川敷のサイクリングロードには人気がなく、静かだった。高ぶった心が落ち着いてくる気がして、玲璃は目元の涙をぬぐうと、足を止めてその風景を眺めやった。つい反射的に病院を飛び出してしまったが、享也の話に頭の中がゴチャゴチャして訳が分からなくなってしまったのだ。夢中でやってしまったこととはいえ、やたらに能力を出してはならないと義虎にきつく言い渡されて育ってきただけに、玲璃は軽く自己嫌悪に陥っていた。
「さすがですね。足が速くて驚きました。そのスピードで混雑した病院を抜けて、一人のけが人も出さなかったのもすごいです。ただ、万が一という事もありますから、あまり何度もやるべきではないでしょうけれど」
突然の能力発動の気配とともにかけられたその言葉に、玲璃が息をのんで振り向くと、はたして、そこに白衣姿の享也の姿があった。慌てて逃げようと踵を返しかけるも、すかさず享也の手が玲璃の手首をとらえる。
「逃げないでください。少しだけ、話を聞いていただけませんか?」
その言葉を聞いた途端、急に玲璃の足から力が抜けた。張りつめていた緊張の糸がぷっつりと切れたような感じだった。享也はしゃがみ込みそうになる彼女を支えると、河川敷の土手にいざなう。草むらに座らせると、膝に顔をうずめて肩を震わせる玲璃に寄り添うように、享也も腰を下ろした。
「玲璃さんはなにも悪くないです。あなたの身に危険が降りかかるのはあなたの立場や境遇のせいであって、あなた自身には何の咎も責任もありません。心配せずに、護衛をつけていいんです。普段の生活でも、学校でも。本当は、学校にだって行きたいんでしょう?」
玲璃はしばらくは答えなかったが、ややあって小さくうなずいてから、震える声を絞り出した。
「……でも、護衛になったことで、紺野がまたあんな目に遭うんだとしたら……いくら鬼子の襲撃が、私のせいじゃないと言われても、私のせいでそうなったとしか思えないし……私はもう、あんな光景を見るのは、耐えられない……」
「わかります。あれを見るのはつらい。私でもつらいです」
享也は理解を示してから、遠くに目線を向けた。
「ただ、彼があんなひどいやられ方をするのは、恐らくは彼自身の心の問題です。その問題が解決しない限り、護衛に就けようが就けまいが紺野さんはああいう目に遭い続けるでしょう。そして、彼自身もまた、そういう姿を人に見られることを厭い、負債を一人で背負うことを望むでしょう。このままだと、彼は学校をやめると思います。そうなれば、彼が死ぬのはそんなに先のことではないだろうと思います」
衝撃的なその言葉に、玲璃は弾かれたように涙にぬれた顔を上げ、隣に座る享也の顔をまじまじと見つめる。享也は寂しげな笑みを浮かべると、静かに言葉を続けた。
「あんな襲撃が続けば、死の可能性が高くなるのは当然でしょう。というか、これまで命がつながっているのが不思議なくらいで。彼は非常にか細い綱の上を、人殺しという重い責任の枷を背負いながら、安全ロープの一本も、転落防止ネットの一枚もなく綱渡りしているのと同じ状態なんです。一歩踏み外せば転落して死ぬ。彼を一人で鬼子の襲撃に対峙させるというのは、そういう状態の彼を見捨てて立ち去るのと同じだと、私は思います」
玲璃は真剣な表情で享也の言葉に耳を傾けている。涙は止まって、乾き始めているようだった。
「彼の抱えている人殺しという重い荷物は、分け合える種類のものではないでしょう。襲撃自体も避けることはできない。でも、たとえば彼の渡っている綱を、経済力を与えて太く歩きやすいものに変えることはできる。彼が落ちそうになった時に体を支える安全ロープをつけてあげることもできる。もしかしたら、隣にもう一本ロープを張って、手を貸しながら渡ることだって可能かもしれない。方法はさまざまですし、どこまで助けられるかはその人の覚悟にもよりますが、できるだけ多くの人間が、彼のために少しずつ手を貸すのが一番いいんじゃないかと私は思っています。そして、護衛という職に就けることで彼を学校という彼の年齢に見合った生活環境にとどめ、一定の収入を与えることは、彼を現世につなぎとめる非常に太くしっかりとした安全ロープになるだろうと、私は思っているのです」
そこまで言うと、言葉を失っている玲璃を、享也はいたわるような優しい目で見つめた。
「あなたの背負っているものも、確かに重いんです。一人では抱えきれなくて、放りだしたくなる時があるのは当然です。私にもそういうときはありましたから、とてもよくわかります。そういう時は、みんなで分け合いましょう。何度も言いますが、学校に通いたいというあなたの望みはワガママでも何でもありません。必要なら、私は助力を惜しまないつもりです。魁然総帥の説得にも協力しますし、学校に通い始めた後も、逐一動向をトレースして、みなさんや学校の生徒さんたちに危険のないよう可能な限りフォローすることをお約束します。寺崎さんも、あなたの荷物を分け合おうとしてくれているからこそ護衛を申し出てくれているんだと思います。無論、分け合えば彼にそれなりの危険はふりかかりますが、それも承知の上でしょう。私は彼の覚悟を尊いと思います」
玲璃は食い入るように享也を見つめ、その言葉にじっと耳を傾けている。その真剣なまなざしを柔らかく受け止めながら、享也は言葉を続けた。
「紺野さんの荷物を分け合う行為も同じことです。ともに歩こうとすれば、われわれもそれなりの危険や負債を覚悟しなければならない。あなたも登校するとなれば、それなりの責任や負債を負わなければならなくなるでしょう。それが重すぎるからと全ての危険を彼一人に押し付けて逃げるのも一つの方法ではありますし、魁然総帥は娘を危険な目に遭わせたくないからと、その方法を選択されている。総帥の論に理はあるんです。ただ、私はそれではあまりにも彼が不憫だと思いますし、あなたへの信頼も薄すぎると思っています」
あ、総帥には内緒にしてくださいね、と慌てて付け足してから、享也がいたずらっぽく笑ってみせると、玲璃もつられたように少しだけ笑った。
「もちろんこれは非常に重い選択です。明らかに、命や安全にもかかわってくる。でも、境遇からは逃げられません。危険はあるのですから、周りの人のためにも、あなたは護衛をつけるべきです。その現実を認識した上で、自分がどうしたいのか、どうするべきかをよく考えて、納得のいく答えを見つけてください。どんな判断をしたとしても、あなたが責められるいわれは一切ありません。どんな判断にも、魁然総帥の考え方にだって一定の理はあります。何が正しいとかではなく、あなた自身がどういう理由で、何を選択するかをきちんと理解し、覚悟して選択することが重要だと思います」
その時、遠くから救急車のサイレンの音が響いてきた。享也は少しの間、言葉をとめて耳をすませてから、玲璃に目を向けた。
「……長くなってしまってすみません。以上の話を踏まえた上で、私の希望としては、あなたにはこのあと速やかに病院に戻っていただいて、紺野さんのお見舞いをしたあと、ちゃんと魁然家に連絡を入れて迎えに来てもらってほしいと思うのですが……いかがですか?」
玲璃は考え込むように目線を落として黙り込んでから、ややあって、小さくうなずいた。
「……わかりました。このあと、必ず病院に戻ります。紺野の見舞いに行ったあと、迎えを呼ぶようにもします。ただ、もう少しだけ、ここで考えて行ってもいいですか? あまりにいろいろなことがありすぎて……もう少しだけ、静かなところで考えをまとめたいんです」
その言葉に、享也はホッとしたような笑顔を浮かべて立ち上がった。
「わかりました。病院に急患が入ったようで、たぶん私は緊急手術に駆り出されることになると思います。しばらく身動きが取れなくなりますが、玲璃さんを信用してお任せしますね。なるべく早いうちに、病院にお戻りください。よろしくおねがいします」
そう言って頭を下げてから、苦笑めいた笑みを浮かべて言葉を継ぐ。
「なんだかあれこれと厳しい事ばかり申し上げてしまって、すみませんでした。屁理屈おじさんみたいな印象で終わるのがつらいので、いつかまたお話しする機会を作りたいです。今度は、もっと楽しい話題で」
享也はそう言い残すと、軽く右手を挙げて病院に転移した。
玲璃は川べりの土手に座り、日ざしを反射する川の流れを見つめながら、動かなかった。爽やかな初夏の風に吹き散らされた髪をかき上げようともせず、じっと川面を見つめていた。