5月3日 1
5月3日(金)
みどりは朝食を黙々と食べる息子を、横目でちらりと見やった。
昨日、会合から帰宅して以降、彼はほとんど口をきいていない。夕食も食欲がないと言ってとらなかった。昨日の会合のことも、何も話そうとしない。こういうことが今まで全くなかった訳ではないが、みどりは内心気にかけていた。
今朝も何も食べないようならさすがに聞いてみようと思っていたのだが、ちゃんと八時には起きてきて、朝食はとっている。だが、昨夜は眠れなかったのだろう、目の下には黒々としたクマができていた。
「……紘」
みどりの声に、ちまちまとトーストをかじっていた寺崎は少しだけ目線を上げた。
「昨日、何かあったの?」
「うん……」
寺崎は小さく頷くと、トーストを口に運ぶ手を止めてため息をついた。かと思うと、いきなり手にしていたトーストを放り投げるようにパン皿に置き、ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしり、それから両手の指を髪に突っ込んだままの姿勢で黙り込む。話したくないというよりは、何から話していいか分からないといった雰囲気だ。
みどりはそんな息子を心配そうに見つめた。
「例の申し出、断られたの?」
寺崎は大きく首を横に振った。
「それ、言うの忘れた」
「え?」
「ごめん。昨日はそんなことを言ってるどころじゃなかった」
「いいのよ、別にそんなことは。でも、それどころじゃなかったって……」
「……紺野が、死にかけてる」
みどりは息を飲むと、暗い表情でコーヒーカップに目線を落とす息子の顔を食い入るように見つめてから、おずおずと問いの言葉を発した。
「なにがあったのか、詳しく教えてくれる?」
寺崎はそれでもしばらくは何も言わなかったが、ややあって、鉄球のぶら下がった足を引きずるような重い口調で、ゆっくりと、昨日の出来事をひととおり語った。
その間、みどりは瞬きも忘れたように息子の顔を見つめたまま、言葉を失って凍り付いていた。
「……それで結局、紺野は一人で鬼子と対峙して、操られてたあの子にも手出しできずに、あんなひどいやられ方をして、俺は……」
寺崎は言葉を切ると、目を堅く瞑り、拳を堅く握りしめた。
「俺は、何もしてやれなかった。あいつを一人にしたら危ないって分かってたのに、助けに行けなかったんだ。総帥が止めたのなんか理由にならない。そんなの振り切って行ってやれば、たぶんあそこまでひどいことには……」
寺崎は耐え切れなくなったように両手の拳をテーブルに振り下ろした。一応手加減してはいるのだろうが、テーブルに載っていた皿が割れそうな音を立てて揺れる。だが、寺崎にはそんな音すら聞こえていないのだろう。拳をテーブルに置いたまま、震える声で言葉を続けた。
「総代は、もう護衛なんかいらないとまで言ってる。あんなに学校に行きたがって、そのために大っ嫌いな訓練まで再開してがんばってたのに、もう諦めるって言ってる。紺野があんな目に遭うのは見たくないって……その気持ちは俺もわかるし、その判断も別に間違ってはいないと思う。思うんだけど、ただ、本当にそれでいいのかとも思うんだ。あいつを切り離せば、確かに俺たちは安全だ。あんな場面は見なくて済む。でも、それは俺たちの視界に入らなくなったってだけだろ。紺野にとってはなにも終わってない。紺野はこれからも、俺たちから見えないところであの子どもに狙われ続けて、昨日と同じような目に遭い続ける。延々と、たった一人で。本当にそれでいいのかって考え始めたら、なんか、よくわかんなくなってきて……」
寺崎はそこまで言うと、耐え切れなくなったように頭を掻きむしる。みどりはそんな息子を優しい、でもどこか悲しげな目で見つめていた。
「……紘は、どうしたいの?」
「俺は……」
寺崎は頭を掻きむしる手を止めると、じっとテーブルの表面を見つめた。
「……何が正解かとか、人間として正しいとか、難しいことはよくわかんねえけど、あいつをたった一人で苦しませることだけは絶対にしたくない。俺に具体的に何ができるかもよくわかんねえけど……ただ、あいつを切り離して終わりにすることだけは絶対に違う。だって今回のことは、あいつだけの責任で起きたことじゃないだろ。あいつ一人にあんな重い責任を全部負わせるのは間違ってる。俺ら一族にも原因があるっていうなら、みんなで荷物は分け合うべきだ」
みどりは切なげな表情を浮かべながら、深々と頷いた。
「そうね。母さんもそう思う」
そう言うと、優しい目で息子を見つめた。
「あの子を一人で苦しませたくないっていう紘の気持ち、母さんもよくわかるし、正しいと思う。紘にそういう覚悟があるのなら、母さんは護衛の仕事も、もう辞めろとはいわない。母さんも負債を背負う覚悟をする。あなたが危険に晒されるのは本当は心臓が痛くなるくらい心配だけど、そのくらいは背負わないと、たぶんあの子の荷物を減らしたことにはならないと思うから」
寺崎は目を丸くして母親を見たが、すぐに暗い表情で目線を落とした。
「……でも、たぶんもう護衛の仕事は無理だ。というかそれ以前に、紺野が持ち直すかどうかすら」
不安げな息子の気持ちを盛り立てるように、みどりは明るい笑顔でにっこり笑った。
「大丈夫よ。あの病院に勤めてらっしゃる神代享也先生は、神の手を持つ外科医って雑誌でも取り上げられたくらいの名医なんだから。あの子は絶対に大丈夫。紘は今日、お見舞いに行くのよね?」
前向きな行動の指針を示され、寺崎はようやく俯いていた顔を上げた。
「え……あ、うん。そのつもりだけど」
「じゃあ、ユニシロでいろいろ買って、持って行ってあげるといいわ。入院が長引くんなら、必要だろうから」
そう言うとみどりは、早速メモに何やら書き始める。そんなみどりを寺崎は戸惑ったように見つめていたが、おもむろに冷えたトーストを手に取り、ひとくちかじった。
☆☆☆
「なんだと? 玲璃は昨日からずっと食事をとっていないのか」
静かな朝の空気を切り裂くように、義虎の声が響く。詰問調のその問いかけに、珠子は頷いた。
「はい。昨日はお帰りになられたあと、一人にしてほしいと仰って、お部屋に閉じこもられたきり、……」
昨日は病院の襲撃事件が明るみに出てしまい、病院の現場検証やら鬼子に操られた少年の足取りを追うやらで、義虎が帰宅したのは結局夜中の二時過ぎになり、玲璃の様子を聞く暇もなかった。義虎は表情を曇らせると、急いで二階にある玲璃の自室に足を向けた。
部屋の前まで来ると、柄にもなく呼吸を整えてから、扉を軽くノックする。
「玲璃、私だ。食事をとっていないと聞いたが、どうしたのだ?」
声をかけるも、中からは何の反応もない。寝ているのかと思いドアノブに手をかけようとした途端、中から鋭い声が飛んできた。
「一人にしておいてください」
その返答にきつく眉根を寄せるも、とりあえず、いくぶん語調を和らげてみる。
「昨日、とんでもない場面を目にしたと沙羅くんから聞いている。気分がふさぐのもわかるが、何も食べないのは体に毒だ。なにか少しだけでも腹に入れた方が……」
「食べたくありません。今は一人にしておいてください!」
義虎の発言を断ち切ってきつい調子でかぶせられたその言葉に、鼻白んだ義虎が反論しようと口を開きかけた時だった。
玲璃の携帯の着信音がなった。
中から、携帯を操作する音が聞こえる。義虎は思わず口をつぐむと、耳をそばだてた。メールかラインの着信だろうか、返信を打ち込んでいるような音がしばらく響いていたが、やがて玲璃が立ち上がるような気配と、ガタガタとものを出したり、服を脱いだりしているような音が響き始める。その動きに嫌な予感を覚えた義虎が、何をしているのか問いただそうと口を開きかけた時、ふいに部屋の入口の戸が開いた。
すっかり外出の支度を整え、冷えた目線で自分を見上げている玲璃の姿に、不安を強めた義虎はきつく眉根を引き寄せた。
「なんだ玲璃、その格好は……」
「出かけてきます」
「なにを言ってるんだ、飯も食わずに……どこへ行くというんだ?」
「神代の病院です」
義虎は息を飲んだ。見る間にこめかみにモリモリと青筋が立つ。
「なにを考えているんだ! まさか、あの男の見舞いに行くとでもいうんじゃないだろうな? なにを考えているんだ!」
玲璃は冷然と答えを返す。
「彼は仮にとはいえ、会合で正式に神代一族の一員と見なされたはずです。お見舞いに行くのに、何の問題があるんですか?」
その反論に義虎は思わず言葉を飲み込みかけたが、負けじと声を荒らげる。
「昨日、あの病院であんなことがあったばかりなんだぞ? 危険とは思わんのか!」
「この家が安全と言い切れるのですか?」
その言葉に、義虎は返す言葉を見失った。
「どこにいようが、もし私が鬼子に狙われているのなら危険は同じです」
「そんなことはない。この家には護衛の人員が多数常駐している。もし襲撃があったとしても……」
「護衛はいりません」
義虎は目を丸くして玲璃を見やった。
「……何を言っている? 護衛は必要だ。いつどこで鬼子の襲来があるかもしれんのに」
「私はもう、誰であろうが、誰かに護衛してもらうのは嫌なんです!」
玲璃は叫んだが、語尾が震えて涙声だった。
「父様の望み通り、私は学校にはもう行きません。護衛をつけたくないからです。それと同様に、日常生活でも護衛はつけません。私の代わりに誰かがあんな目に遭うのは耐えられないからです。今後一切護衛は必要ないです。絶対につけないでください。ただ、学校はやめられても、生活をやめることはできません。出かける必要のある時は私一人で出かけます。それはできない、どうしても護衛をつけると仰るのなら、私は普通の生活もやめます。一生あの部屋に閉じこもって一歩も外へ出ませんし、ただ神子を生むための道具としてだけ生きていきます。父様は、わたしにそういう生き方を望んでおられるのですか?」
「それは……」
その問いかけに反論のしようもなく口ごもる義虎を押しのけると、玲璃は振り返りもせず廊下を進み、階段を下りて行った。