5月2日 4
その後、病院に駆け付けた警察により、目撃者の聴取や現場検証などが行われる一方、紺野は享也らによる適切な応急処置のあと、造影 CT 検査室に送られた。その検査の合間、検査室前の廊下で、享也は遅れて駆けつけた京子に手短に送信で状況を説明した。
【私が駆け付けた時は、左頸部刺創によるショック状態でした。ハサミの刃が左内頸静脈を貫通し,左総頸動脈に刺入していました。左内頸静脈および総頸動脈の損傷は直ちに圧迫止血をしながら修復を行い、気管挿管し気道を確保、急速大量輸液を行い、血圧95/60mmHg、心拍数90回/分、意識レベルE1V1M1。血管の損傷を修復したとはいえ、それまでの出血が多すぎますし、背部の損傷もあります。輸液だけでは救命は困難でしょう。直ちに輸血が必要な状態だと思います】
享也はいったん送信を止めると、反応をうかがうように京子を見下ろした。京子は黙って廊下の床に目線を落としている。享也はおもむろに問いを重ねた。
【十六年前の検査結果は、まだ見つかっていないのですか】
京子は考えるように間をおいてから、小さくうなずいた。
【……ええ、まだ】
【そうですか、それは残念です。あの男、死なせるには惜しい人材と思ったのですが】
享也は再び言葉を切る。だが、京子からはかばかしい反応はない。享也は心なしか悲し気な表情を浮かべると、さらに問いを重ねた。
【……記録はなくとも、総帥の記憶にはある程度残っているのではないですか? もしそうなら、全てでなくていいんです。一部だけでも開示していただけませんか? 今なら、会議が終わったばかりですから、皆さんまだお近くにいらっしゃいます。その中に、輸血が可能な親族が必ずいるはずです。送信すればすぐにかけつけてくれるでしょう。そうすれば、院内採血で乗り切れます】
それでも京子はじっと押し黙って足元を見つめている。やはりダメかと享也が諦めかけた時、京子がポツリと、呟くような送信をよこした。
【……連絡の必要はありません。適合者は、この病院にいます】
享也は目を見開いた。
【そうですか。それはありがたい。この病院で働いている血縁者は八名ですが、その中の誰が……】
京子は目線を上げて享也を見た。
【私と、あなた。それに、順平さんと、沙羅さんも適合者です】
その答えに、享也は心臓が引き絞られるような緊張を覚えた。思わず言いかけた言葉を飲み込み、京子をまじまじと見降ろしてしまう。京子はそんな享也の視線を、ただ黙って受け止めている。
享也は呼吸を整えると、できるだけ落ち着いた態度を心がけながら、口を開いた。
【わかりました。沙羅くんにも状況を送信して、すぐに、院内採血の準備に入ります】
☆☆☆
「寺崎……」
黒塗りベンツは渋滞にはまっていた。
辺りはすっかり夕闇に包まれ、ライトを点灯した車の列が、ビルのはざまにずらりと光の列を成している。
豪勢な革張りシートに身を埋めた玲璃は、隣に座る寺崎を小声で呼んだ。寺崎は「はい」と短く言うと、心配そうに玲璃の顔を覗き込む。玲璃は革張りシートの黒光りする表面にぼうぜんと目を向けながら、問いかけた。
「紺野は、……いつも、ああなのか?」
寺崎は一瞬ためらってから、おずおずと頷いた。
「……はい。いつも、あんな感じです。俺があいつを危なっかしいって思ってるのは、まさにああいうところです」
車がじわりと前進したが、すぐに前を行く車のナンバープレートが接近してくる。不本意ながら進行を停止した車は、その場でまた不機嫌そうな振動を伝え始めた。
「……いやだ」
通奏低音さながらに響くエンジン音に、玲璃の振り絞るような声が重なる。
「私は、いやだ。あんなのは……もう、見たくない」
「総代、……」
寺崎は口を開きかけたが、言うべき言葉が見つからなかったのか目線を落として口を噤んだ。
彼もまた、玲璃と同じ気持ちだった。結局、今回も紺野一人に全ての災厄を押し付けるような形になってしまった。確かに、病院に人的被害は出なかった。だが、それはもしかしたら、紺野がその災厄を全て一人で引き受けてくれたからかもしれないのだ。
確かに、寺崎としては護衛の仕事を続けたい。働かなければ生活が成り立たないのも確かだ。しかし、だからと言ってこんなふうに他人の命の上にあぐらをかいていいとはとても思えなかった。もし今回、紺野が命を取り留めたとしても、鬼子と対峙し続ける以上、これから先も同じような危険に何度見舞われるかもわからない。いくら彼に鬼子と戦う大きな責任があるとしても、人間として許されることとは到底思えなかった。
ふいに、玲璃がぽつりと口を開いた。
「……護衛は、いらない」
寺崎は沈痛な面持ちで玲璃の横顔を見つめた。
玲璃は俯き加減のまま、唇を微かに震わせながら、吐き捨てるように言葉を継いだ。
「おまえたちの生活に、護衛の仕事が必要なのはわかった。経済的には、紺野の生活のプラスになることも分かった。でも、だからといって、あんな凄まじい目に遭わせていいとはとても思えない。お金のことは、違う形で支援すればいい。それが護衛である必要はない。正当な権利だろうが、私が学校に通うことは無理なんだ。諦める。だから、もう……」
みるみるうちに溢れだした大粒の涙が、長いまつげに押し出されてぽとぽとと滴り落ちる。
「もう、誰にも、あんな目に遭ってほしくない……」
俯いて嗚咽する怜璃を見つめたまま、寺崎は動くことも、言葉をかけることもできずに、ただ低くうなるエンジン音を黙って聞いているしかなかった。
☆☆☆
緊急に行われた院内採血により、紺野は一命をとりとめた。
院内採血は極秘に行われた。献血量は通常より多い一人あたり五百㏄。交差適合試験でも問題は見られず、輸血は迅速に行われた。その後、採血や試験、輸血にあたった看護師や医師の記憶は速やかに消去、操作され、誰がその血液を提供したかに関しては、提供した本人たち以外覚えていない。提供した彼ら自身にも、遺伝子検査の結果が出るまではこの件に関しては厳しい守秘義務が課せられた。
九階のICUに移された紺野のベッドに、マスクをつけた享也は歩み寄った。
枕もとの丸椅子に座り、注意深く様子を見る。
背部に傷があるため、紺野は横向きの姿勢で寝ている。顔の周囲に酸素テントがたてられているため少々見えにくいものの、紙のように白かった顔色にはかすかに赤みが差し、心拍も呼吸も安定している。ショック症状やアナフィラキシー反応が起きている様子もない。この先しばらくは注意が必要だが、今のところ大きな問題は起きていないようだ。
だとすれば今回、単なる印象か妄想にすぎなかった享也のあの想像に、かなりの精度で科学的根拠が与えられたことになる。胸苦しいような緊張を覚えながら、享也は、外部から中の様子が見えないようにベッドの周囲に遮断をかけた。未修復だった紺野の背部に手を当てると、意識を集中して修復を開始する。
と、能力発動を感知したのだろう、紺野の目が薄く開いた。
【……すみません】
顔の周囲に酸素テントが立ててあるからか、珍しく送信してきた紺野に、亨也は肩をすくめてみせた。
【そう思うのなら、きちんと防御してください】
その言葉に、紺野はどきりとしたように表情をこわばらせた。
【すみません……】
【この傷は、催眠を解いていたあの少年にやられたものですか?】
紺野は小さく頷いた。
【もう少しで潜り込めそうだったので、それに夢中になっていて……あの子は、窓から飛び降りてどこかに転移しました。意識が保てなくて、転移先を追跡することもできませんでした。すみません】
治療に集中していた亨也は、クスっと苦笑まじりの笑みを漏らした。
【謝ってばっかりですね】
紺野は戸惑ったように黙り込んだ。
【……すみません】
結局また謝っている紺野に、亨也は困ったような笑みを投げた。
【今日、会合であなたの処遇が決まりましたよ。今後は、われわれ神代一族があなたの身元引受人になります。医療費についても、当座はわれわれの方で立て替えておきます。返済をどうするかについてはまた追って話し合うとして、とりあえずは安心して治療に専念してください】
紺野は驚いたように目を見張ってから、申し訳なさそうに身を縮めて頭を下げた。
【……ありがとうございます】
【ただ、毎回毎回、こんな状態になられては困ります。どうして自分にシールドを張らないんですか?】
その質問に、紺野はハッと目を見開いてから、気まずそうに目線をそらす。享也はそんな紺野を、見透かすようにじっと見つめた。
【今日の戦いぶりを見ていて確信を持ちました。あなたは相当に高い能力を持ち、それを精密にコントロールすることもできる。複数の能力を同時併用したり、十キロ以上離れた場所にいた私に送信したり、能力影響を適切な範囲にとどめたりすることもできる。それなのに、自分にシールドを張ることだけは一切行っていない。いったいどういうことですか?】
紺野はしばらく何も言わなかったが、ややあって、どこか怯えたような返信をよこした。
【よく分からないんです、自分でも……。防御しなければいけないことは分かっているんですが、……できない。かなり努力をすればやれることもあるんですが、ああいうとっさのときは、ほとんど……】
その答えに、亨也は何とも言えない表情を浮かべた。
【われわれ高位能力者は、シールドを無意識の防御反応……反射行動に基づいて張っています。普通の人間が、飛んできたボールに対して無意識に手を出してガードするのと同じです。それができないというのは、……なんというか、厳しいですね】
そうして、小さく息をつく。
【たぶんあなたは、自分の力にマイナスなイメージしかもてていないんでしょうね】
紺野は暗い表情で目線をそらして黙っている。
【私は一応、この力を医療に役立てる方法を知っているので……。でも確かに、あなたと同様、大きな力を行使することに対する不安はあります。だから、私は大きな力を使うのが苦手でしてね。実際、今日のあなたのような状況に陥ったとき、スムーズに反撃できるかどうかはわかりません、正直】
亨也は背中から肩に治療のポイントを移しながら、幾分厳しい表情をしてみせる。
【とはいえ、この先も鬼子の攻撃は続くでしょう。なんとかガードできるように努力してください。そのたび私も採血されたら身が持ちませんから】
紺野は身を縮めて【はい】と小さく答えを返す。いかにも自信なさげなその様子に、亨也はまたくすっと笑った。
【ところで、あなたは鬼子に狙われている理由について、何か心当たりはないんですか】
紺野はしばらく考え込んでから、小さく頭を振った。
【いえ、特には……。僕があいつのことを直接知っている唯一の人間だから、でしょうか】
【玲璃さんが狙われる理由は分かるんです。私が狙われるのも……それがどうしてあなたなのか、今ひとつ判然としません】
紺野はそれには答えなかった。なにか考え込んでいるようだったが、ややあって遠慮がちにこんな送信をよこした。
【……あなたがたは、いった何のために、何をしている組織なんですか】
亨也はかざしていた手の動きを止めると、小さく息をついた。
【仮にとはいえ、あなたも神代一族の一員になったわけですから、知っておいた方がいいでしょうね】
自問自答のような送信の後、亨也は静かに語り始めた。
【玲璃さんと私が結婚する予定、というのは前にも申し上げましたね】
紺野は黙って頷く。
【その結婚こそが、われわれ一族の目的なんです。さらに言えば、われわれの間に生まれてくる子ども、それこそが目的そのものなんです】
発言の意味が分からないのだろう、紺野の怪訝そうに首をかしげる。亨也は淡々と先を続けた。
【神代と魁然の一族は、おのおのが特殊な能力を有する一族です。神代家はご存じの通り、超常的な異能力を、魁然家は超人的に高い身体能力を有しています。そしてそれは、神代家は女性、魁然家は男性にのみ発現する特性として受け継がれてきました。しかしそれが発見された当初は、一般人の血と混ざりあっていたために非常に弱い特性しか発揮できていませんでした。その特性を最大限発揮させるために、われわれは長い年月――およそ三百年にわたって血族内結婚を繰り返してきたのです。その血の純度が最高点に達したとき、「血の反転」と呼ばれる変化が起きます。神代は男性に、魁然は女性にそれぞれの能力があらわれる状態です。それが「総代」、……つまり私と玲璃さんなのです】
肩の修復が終わったのだろう。享也はいったん送信を切ると、その手を修復しきれていない首の傷にかざした。
【総代同士が成した子どもは、神代魁然両家の特性を有する「神子」と成ると言い伝えられています。その神子という存在を産み出すべく、われわれ両血族は組織を作り、婚姻を統制し、血の純化を図ってきました。相手を慎重に選ばなければ安全に血の純化が図れないことと、総代以外の両家が交わることのないようにするためです。もしも総代以外の神代、魁然の者が交わりを持てば、「鬼子」と呼ばれる恐ろしい存在が生まれると言い伝えられてきました。魁然家第三位の純度を持っていた裕子さんと、東順也との間に産まれたあの子どもが、つまりその「鬼子」ということになります】
紺野は瞬きも忘れたように享也の顔を見つめている。その視線を受け止めながら、享也は小さく笑った。
【興味深いでしょう? 鬼子が産まれたいうことは、東順也――あなたには確実に神代の血が流れていることになります。しかも、あなたは明確に能力の反転が起きている。十六年前の遺伝子検査では、あなたは一般人と神代一族との混血だという結果がでました。しかし、裕子さんはどうやってあなたという一族の統制範囲外にある高位能力者の存在を知ったのでしょうね。謎は尽きません】
亨也は呟くようにそう送信すると、苦笑いを浮かべた。
【とりあえず、今回の遺伝子検査の結果は二カ月後には出ます。私はそれまでの間は、深く考えないことにしました。一族の目的に従った人生を送ること自体、あまり深く考えたくないことですから。考えてしまえば、立ち止まらざるを得なくなる。三百年来の目的を達成するためには、ある程度思考を停止するほかありません】
自嘲気味にそう言った享也を、紺野は戸惑ったように見つめている。
かざしていた手を下ろすと一息ついて、亨也はその顔に目を向けた。
【七割程度まで修復を完了しました。まだ仰向けに寝るのはつらいかもしれませんが、とりあえず強い痛みは引いたはずです。あとはゆっくり休んでください。なんか、あれこれとおしゃべりがすぎましたね。余計なことまで言ったかな】
苦笑混じりにそう言って立ち上がった享也に、紺野は頭を下げるようなしぐさをした。
【本当にいろいろと、ありがとうございました……】
【いえ。今後のことについては、また追って相談しましょう】
軽く手を挙げると、亨也はICUを出て行った。
紺野は白い壁を見つめながら、疲れ切ったようにため息をついた。
たった今亨也が語ったことは、紺野にとってはあまりに突拍子もない話で、すぐに信じることも、理解することも難しかった。神代と魁然という特別な一族の目的、能力の反転、「神子」と「鬼子」……そんなことが本当にあり得るのか、自分はいったい何者なのか……考えてみようとするも、何か空恐ろしいような気がしてきて思考が止まり、肝心の答えは何も見えてこない。
ひとつだけ紺野がはっきり理解できたこと、それは裕子が魁然という一族の血を汲む人間であり、一族への報復のために自分に近づき、鬼子を産んだという事実だけだった。それ以外、なぜ裕子が一族へそれほどまでに深い恨みを抱いたのかも、裕子がどうやって東京駅に遺棄された自分のような存在を探し当てたのかも、全く分からない。
というより、彼にとってはそんなこと以前に、自分がこれからどうやって生きていけばいいか、もっと言えば、生きていていいのかすら全く分からない状態だった。混乱する思考をどうすることもできず、途方に暮れながら、紺野は深いため息をついた。