5月2日 3
会合が散会したあと、ホテルから病院へ転移した享也、沙羅、玲璃、寺崎の四人がが出現したのは、薄暗く人気のない地下の検査室だった。
「ここが一番人目がないの。トイレも便利なんだけど、あれはあくまで一人の時ね」
転移を受け持った沙羅が、いたずらっぽくそう言って笑う。四人は廊下に出ると、足早にエレベーターホールに向かった。
廊下を歩きながら、享也は後ろを歩く玲璃に目線を流した。硬い表情で顔色も悪い。ホテルから転移してくる際も、よろしくお願いしますと言ったきり、あとはほとんど言葉を発していない。今にも泣きだしそうなのを必死でこらえているようにも見えて、享也は表情を曇らせた。
「大丈夫ですか?」
不意に問いかけられて、玲璃は驚いたように顔を上げたが、すぐに目線をそらすと、小さく「はい」とだけ答える。享也は歩くスピードを落とすと、玲璃の隣に並んだ。
「今回のことは、あなたのせいではありませんよ」
玲璃は目線を落としたままで、悲し気に頭をふる。
「……私のせいです。私があんなワガママを言わなければ、こんなことにはならなかった」
「学校に通いたいと思うことは、ワガママでも何でもありませんよ」
目を丸くして顔を上げた玲璃に、享也は優しくほほ笑みかけた。
「学齢期の子どもが学習したいと思うことがワガママのわけがないでしょう。当然の権利ですよ。その当然の権利が受けられない状況があるなら、それはその状況のせいであって、周囲の大人は子どもの希望がかなえられるよう、状況を変えることに全力を尽くすべきです。それは大人の責任であって、玲璃さんが責任を感じることはなにもない。あなたは何も悪くないです」
今までかけられたこともない全面的な擁護の言葉に、玲璃はしばらくは目を丸くして固まっていたが、ややあって、おずおずと口を開いた。
「……でも、だとしても、そのために同じ子どもである紺野があんな目に遭うのは」
その言葉に、享也は困ったように笑った。
「あの人は自分のことを東順也だと言っていますよ。だとしたら子どもじゃありません。けっこうな大人ですよ。まして、あの人は今回の件に最も深くかかわっている「当事者」です。あなたとは全く立場が違う。本人もそれをよくわかっているからこそ、遠く離れた場所であろうが鬼子が現れれば駆けつけてくるんでしょう。大人として果たすべき責任を果たしているだけです。あなたは何も気にする必要はありません」
自分の考えていたこととは全く違う視点からの俯瞰を提示された気がして、玲璃は言いかけた言葉を飲み込んだ。
エレベーターホールには人気はなかった。四人は到着した空っぽのエレベーターに乗り込むと、八階のボタンを押す。
閉まり始めた扉に目を向けながら、享也はおもむろに口を開いた。
「あの人……紺野さんの自宅が全焼してしまったのはご存じですよね」
玲璃は目線を落とすと、うなずいた。寺崎も、享也の話に耳をそばだてる。
「彼、保険にも入っていなかったらしくて、医療費は全額自己負担しなきゃならないんですが、現時点で恐らく四百万円くらいの借金を抱えていると思います。私的には、鬼子うんぬんよりそちらの方が気になっていましてね。神代総帥は登校を続けさせたいと言っていましたが、これだけ借金を抱えている状態だと、彼は学校を辞めてしまうんじゃないかと私は思ってるんです」
青い顔で自分を見上げた玲璃に、享也は優しい目線を向けた。
「あなたが通学することで、そんな彼の生活を支えてやることもできるんですよね。それもあって、私はあなたが通学することを望んでいたりもするんです」
発言の意味が分からないのだろう、玲璃は困惑したような表情を浮かべた。
「支えるって……どうやって」
「護衛という「仕事」を与えることで」
享也の言葉に、寺崎はハッとしたように目を見開いた。彼自身も、護衛という「仕事」に生活を助けられている身だからだ。
お嬢さん育ちの玲璃には、全く考えのつかない発想だったのだろう。あっけにとられたような表情で自分を見上げている玲璃を横目に、享也は言葉を続けた。
「実はあの制度、生活に困っている一族をフォローする意味合いで作られた部分も大きいのですよね。寺崎さんもそうですが、もうお一方、柴田さんという方のご家庭は、たしかお母さまが魁然系の流れを汲んでいる方でしたが、まだ小さなお子さんがたくさんいらっしゃるのに、先ごろお父様が亡くなられたんですよね。お母さまおひとりの働きでは生活を支えきれないということで、彼が護衛の任務に就いたと記憶しています。子どもに労働させることに関しては問題があるとは思いますが、鬼子が現れる以前は、日常的な危険からお守りしたり、学校生活の状況を報告したりするだけの比較的安全な仕事でしたから、バイトの一環と考えれば問題はありませんでした。しかし、今回、鬼子が現れたことで、その仕事の危険度が爆上がりしてしまった。今のままでは、仕事を継続することは不可能になるでしょう」
寺崎も、青い顔でうなずいた。
「……確かに、俺もおふくろに、あの仕事は辞めた方がいいって言われた」
玲璃はつらそうに目線を落とした。
「その通りだ。おまえの身の安全のためには、こんな仕事はできるだけ早く辞めた方が……」
「でも、そうすると収入がなくなるんすよ」
目を丸くして顔を上げた玲璃を、寺崎は真剣な表情で見つめ返した。
「収入がなければ生活ができない。先輩は頭のいい人だから軽々入っちゃったと思うんすけど、俺、実はこの仕事に就くために、ものっすごいがんばってこの高校に入ったんすよね……俺が働かないと、おふくろもあんなんだから、わずかな貯蓄と保険金だけじゃ正直言って暮らしてかれなくて、一時期は生活保護をもらってたこともあります。今は一族の支援でギリギリ生活はできてますけど、もし可能なら、俺はできればあの仕事を続けたい。総代がどうしてもつらくて耐えられないっていうなら、仕方がないんすけど……」
裕福な家庭で恵まれた生活をしていた玲璃からは想像もつかない話だったのだろう。完全に凍り付いている玲璃に、享也は静かに語りかけた。
「物事にはいろいろな側面があります。一面だけ見て悪と決めつけるのも危険なんですよね。もし、高位能力者の紺野さんが護衛に加わればかなり安全度が上がりますから、彼らも仕事を続けられる可能性が出てきます。もちろん、ご家族や本人が納得できればの話ですが、大きな安心材料になることは間違いありません。そして、彼自身も登校を続けながら、職を得て、借金の返済もできる。いろいろな意味で、プラスの面が大きいのですよ」
そこまで話した時、エレベーターが一階に到着した。大勢の患者や職員が乗り込んできたため、それ以上会話を続けることはできなくなったが、玲璃は享也の言葉を反すうしながら、考え込むように目線を落としていた。
☆☆☆
紺野は亨也のトレースが終了したのを感じながら、少年の意識を探ることに集中していた。
障壁はまだ残存しているものの、鬼子が姿を消したこともあり、もう少しで潜り込めそうだった。紺野は少年の額に自分の額を押しつけながらじっと目を閉じて、さらに意識を集中した。少年の頭の中に広がる絶対的な虚無……その向こう側に姿を現し始めた、明るい光に包まれた柔らかな意識世界に潜り込むこと、ただひたすらその一事にのみ集中していた。
だから紺野は気がつかなかった。少年の目がふいに開いたことに。
「……!」
突然意識を占領した鮮烈な激痛に、紺野は強制的に現実に引きずり戻された。
ゆるゆると下ろした目線の先に映りこむ、無感情に自分を見上げている少年の顔と、差し上げた少年の右手に握られたハサミと、彼の腕を伝って流れ落ちる鮮血。そのハサミの刃先が、深々と突き刺さっている先は……。
――首?
次の瞬間。少年が刺していたハサミの刃を一気に抜き去った。首もとから噴き出した鮮血が、紺野の下になっている少年のユニークなプリントTシャツも、リノリウムの無機質な床も、たちまちのうちに鮮やかな紅に染めあげていく。
紺野の口からも鮮血が溢れた。急速に意識が遠のき、視界が狭まっていくのを感じながら、まだ催眠を解き終えていない少年が自分の体の下から抜け出す気配に、引き留めなければと右手を伸ばしかけた。だが、もう片腕で自分の体重を支えることすら不可能になっていたのだろう、バランスを崩した紺野は、床に力なく倒れ込んだ。
とめどなく噴き出す鮮血の血だまりが、見る見るうちに半径を広げていく。冷然とその様子を見おろしていた少年が、とどめを刺そうとでもいうのか、無表情に手にしているハサミを振り上げた、その時。
「キャーッ!」
突然、病室の出入り口でけたたましい叫び声が上がった。
つい先ほどまで紺野が病室の周囲に張り巡らせていた遮断が、受傷したことで解けてしまったのだろう。扉の破壊に気づいて部屋をのぞいた看護師は、ハサミを握りしめ、全身に滴り落ちるほどに返り血を浴びた少年を見て、腰を抜かしてへたり込み、意味を成さない叫びを上げている。
少年はハサミを右手に持ったままでくるりと向きを変え、独特のリズムを刻みながら窓の方へと向かった。先ほど、鬼子のエネルギー弾で破壊され、大きくあいた穴の前に立つと、少年は階段を一段飛び降りるような気楽さでびょんと飛び、そのまま階下に落ちて消えた。
「……!」
ここは地上八階だ。看護師はゾッとすると、慌てて穴に這い寄り、首を突き出して下方をのぞき見る。真下は、病院の駐車場になっていた。だが、そこには何もなかった。死体もなければ、誰かが墜落した形跡もなく、他に隠れられる場所もない。
看護師の叫び声を聞きつけて、大勢の人が集まり始めていた。にわかに騒がしくなった病室前には黒山の人だかりができ、血の海に倒れている紺野の傍にも、看護師や医師らが駆けつけ、頬をたたいて意識を確認したり、止血の処置をしたりし始める。
だが、紺野の耳にはもう何も聞こえていなかった。呼びかけられている意識もないし、頬に触れられている感覚もない。
その時ふいに、いつかの寺崎の言葉が薄れ行く紺野の意識を過ぎった。
『絶対、死ぬなよ』
――すみません。
頭の中でそう呟いたのと、紺野の意識が暗転したのはほぼ同時だった。
☆☆☆
エレベーターから降りた享也は、八階のただならぬ雰囲気に違和感を覚えた。
医療器具の載ったワゴンを押して廊下を走り抜ける看護師、何やら周囲に指示を飛ばしながら走り去る医師、病室から廊下に出てきて不安そうにその様子を眺める患者たち。何らか「異変」が起きていることは確実だ。
鬼子の出現と戦闘も、確かに異変には違いない。しかし、紺野はあの病室で少年の催眠を解いていたはずだ。病室に遮断をかけずに催眠解除を行うはずがないし、催眠解除が終わっていない状況で遮断を解く合理的な理由はない。とすれば、何らかのトラブルで遮断が継続できなくなった可能性がある。享也は緊張を覚えながら、紺野の病室へ足を急がせた。
廊下の突き当たり、紺野の病室の前は予想通り人だかりができている。沙羅は不安そうに享也を見上げ、享也は無言でより一層足を速めた。
人々の頭越しに、扉がすっかり姿を消してただの空洞になっている病室の出入り口が見える。だが、破壊されているのはそこだけだった。病室外には何一つ破壊の形跡は見られない。紺野はあの状況下で、能力影響を扉のみに限定させていたらしい。そのコントロールの精密さに驚嘆しつつ、同時になんとも名状しがたい違和感を覚えながら人垣をかき分けて病室に足を踏み入れた享也は、そこに展開していた凄惨な光景を目にした刹那、一瞬で医師の顔にもどった。ワイシャツの袖をまくり上げながら、ものも言わずに窓際の人だかりに駆け寄る。
享也のあとに続いて部屋に入った沙羅も、一目で状況を察したらしい。大きく目を見開くと、くるりと後ろを振り返って両手を広げ、自分のあとをついてきた高校生二人をその場に押し止めた。
「入って来ちゃダメ!」
寺崎も玲璃も、唐突な制止に戸惑ったような表情を浮かべる。
「……え? なんすか? なにが……」
「どうしたんですか?」
「いいから! あなたたちは廊下に出てて!」
刹那、鼻腔になだれ込んできたむせかえるような血の臭いに、玲璃は思わず咳き込みそうになった。玲璃ほどではないにしろ、嗅覚の鋭い寺崎も異変に気付いたらしい。眉根を寄せ、部屋の奥を透かし見る。
寺崎は余裕で沙羅より頭一つ分背が高い。沙羅のガードはガードの役を果たしていなかった。寺崎の視界に、病室中至る所に飛び散っている血と、部屋の片隅に集まっている何人もの医師や看護師姿が映りこむ。忙しく動き回る看護師や医師の間から、そこに倒れている人物の裸足の足も見える。
――あれは、まさか。
頭をかすめたその暗い予感に、寺崎は背中の毛が一斉に逆立つような感覚に襲われた。
「……なにがあったんすか? 紺野、さっきは全然大丈夫そうだったすよね?」
寺崎が思わず詰問口調で問うと、沙羅はきつめの送信でそれに応える。
【大声を出さないで! わからないけど、送信が終わったあとに何か異変があったんだと思う。私も処置を手伝うから、あなたたちは廊下に出てて!】
その送信を傍受したのだろう、玲璃は突然、弾かれたように沙羅の腕をかわして病室内に走り込んだ。
「総代⁉」
驚いた寺崎は慌てて玲璃のあとを追ったが、医師や看護師の人垣から数メートル離れた位置で玲璃はピタリと足を止めた。あとを追ってきた寺崎は少しほっとしてそのそばに駆け寄る。
「ダメっすよ総代、迷惑……」
寺崎は、言いかけた言葉を飲み込んで凍り付いた。
しゃがみ込んで処置をしている享也の肩越しに、紺野の頭が少しだけ見える。その周囲は、完全に血の海だった。血の海の真ん中で、享也が紺野の首元を布で抑えて止血している。少しだけ見えている紺野の顔は蒼白で、唇は紫色で、口元は吐いたと思しき血で汚れている。そして、呼吸のたびに鼻腔に侵入してくる、経験したこともないほどの、むせかえるような血の臭い。
玲璃は突き上げるような吐き気に息をのんで口元を抑えた。寺崎は慌てて玲璃の背に手を添え、部屋の隅に設置されている水道に連れていく。
小さな洗面台に覆いかぶさるようにして吐き戻しながら、玲璃は体の震えが止まらなかった。これが、鬼子と対峙するということの本質なのだ。平和な日常で通用していた全ての常識が丸ごとひっくり返されたような衝撃に、膝がガクガクして、心臓は早鐘を打ち、冷や汗が止まらない。なんだか気が遠くなって、このまま倒れてしまいそうな気がした。。
そんな玲璃を支えながら、不安そうに様子を見ていた寺崎の背を、誰かの手がポンとたたいた。振り返ると、携帯を片手に持った沙羅だった。
「ご実家に連絡しておいたから、すぐに迎えが来ると思う。それまで、どこか静かなところで座って休んでいた方がいいわ。寺崎くん、付き添ってあげて。お願いね。とりあえず、この部屋からは出てくれる? もうすぐ警察も到着すると思う。現場検証やらなんやら、いろいろあると思うから」
「わかりました。ありがとうございます……あ、あの」
そのまま片手を上げて人垣の方に向かおうとする沙羅に、寺崎は慌てて問いかける。
「紺野は、大丈夫……っすよね」
沙羅は唇の端に悲し気な笑みを浮かべると、その問いには答えず、軽く右手を挙げて踵を返した。