5月1日 3
寺崎が帰宅したとき、母親の様子はいつもと全く変わらなかった。いや、かえって明るかったかもしれない。
「今日はちょっと忙しかったから、悪いけど手抜きよ」
振り返ってそう言うと、沸々と湯の沸き立つパスタ鍋にスパゲティの麺を入れる。茹でている間に手早くタマネギとキャベツを刻み、炒める。みどりはいつも通り、くるくると元気よく働いていた。寺崎はそんな彼女の様子に、何の不審も抱かなかった。
「忙しかったって、この雨ん中、どっか行った?」
制服を脱ぎながら、何の気なしに寺崎が尋ねると、母親は「うん」と小さく答えただけで、それ以上詳しく説明しようとはしなかった。
ゆであがった麺と先ほどの野菜、それにツナ缶を炒め合わせ、塩こしょうで軽く味付けすると、皿に盛りつけテーブルに並べる。さらに、自家製のヨーグルトを冷蔵庫から出してくると、寺崎は渋い顔をした。
「あ、俺ヨーグルト、パス」
みどりはそんな寺崎を軽く睨む。
「だめよ。鼻つまんで食べなさい。いい加減、プレーンヨーグルトくらい食べられるようにならないと」
テーブルに着き、食事を始めてすぐ、みどりはスパゲティをフォークに巻き付けながらこんなことを聞いてきた。
「ところで紘、明日、何かあるんでしょ。さっきメールが来てたわ」
寺崎はスパゲティを頬張りながら、ああ、と軽く頷いた。
「見た。なんか、一族の中心人物が大集合するらしいな」
「あなたは行くの?」
その言葉に寺崎はぶんぶん首を振って笑った。
「俺なんかが行くわけないじゃん。末端の使いっ走りだぜ」
「でも、総代は行かれるんでしょ。危なくないかしら」
「大丈夫だよ。多分放課後、黒塗りベンツが正門までお出迎えすっから」
みどりは口を噤んだが、何を考えているのか、じっと寺崎を見つめている。寺崎はその目線に気がつき、訝しげに顔を上げた。
「? どした?」
「紘。お母さんね……今日、あの子に会ってきたの」
寺崎はしばらくの間、ほおばったスパゲティを噛むのも忘れ、目をまん丸くしてみどりの顔を見つめていた。
「全部見せてくれたわ。あの日のこと、全部……。あの子、すごいわね。お母さん、全然頭痛がないのよ。普通の人間がどのくらいの送信に耐えられるか、ちゃんと知ってるのね、きっと」
寺崎はようやくスパゲティを飲み下すと、頷いた。
「確かにあいつはすごいと思うよ。ちょっと危なっかしいけど……」
そう言うと、じっと母親の顔を見つめる。
「……どうだった?」
「何が? 送信の内容?」
「いや、話の中身は知りたくない、前にも言ったけど。俺が聞きたいのは、おふくろが、あいつのこと……」
言いかけて、途中で言葉を止める。
「いや、何でもない」
みどりはそんな息子を優しく見つめながら、ほほ笑んだ。
「嬉しかったわ」
驚いて目を見張る息子に頷いてみせると、みどりは遠い目をした。
「あの子が何もかも、包み隠さず見せてくれて、本当に……。あの子は多分、何ひとつ隠していない。直接関係のないことまで、全部見せてくれた。だから母さん、強く思ったの」
「……何を?」
不安げに問いかける寺崎を真っすぐに見つめ返しながら、みどりはきっぱりと言い切った。
「あの子のことを、許してあげたいって」
瞬きも忘れて自分を見つめている息子の視線を受け止めながら、みどりは自分に言い聞かせるように言葉を継いだ。
「もちろん、今すぐきれいさっぱりっていうわけにはいかないし、人を殺した責任は厳然とあるし、母さん一人が許したからってあの子の罪が消えるわけじゃない。でも少なくとも、あの子は自分のしたことを悔いている。私はあの子を許してあげたいの。時間はかかるかもしれないけれど……」
そう言うと、改まった表情で寺崎を見る。
「あなたはあの子のこと、どう思ってるの?」
「え、……俺?」
唐突なその問いに寺崎は面食らったようだったが、ややあって、遠慮がちに口を開いた。
「いや……多分、俺があの時のことを知りたくないのは、知っちまったことであいつに対する……何て言うか、気持ちみたいなものが、変わっちまうのが……怖いんだと思う」
手元のフォークを無意味に動かしながら、母親の目線から逃れるように斜め下を見やる。
「基本的に俺はあいつのこと、嫌いじゃないんだ……多分」
みどりの頬にほっとしたような笑みが浮かんだ。
「母さんも、そうなんだと思う。だから嬉しかったの。もうこれで、誰かを憎みながら生きずに済むのかもしれないって思えて」
そう言うと、真剣な表情になる。
「明日の会合、あなたも出席させてもらえないかしら」
思ってもみなかったその投げかけに、寺崎はぎょっとした。
「は? いや、ちょっとそれは無理じゃないか? だって明日は、……」
「母さん、総帥にお願いしてみる。玲璃さんの護衛を続けために必要なことだからって。その会合で、あなたにひとつ、頼みたいことがあるの。実は……」
みどりの言葉を聞きながら、寺崎はだんだん真顔になっていった。そして最後は何も言わず、真剣な表情でみどりの言葉に耳を傾けていた。