5月1日 2
雨がまた降り始めたらしい。
窓に叩きつけられる雨粒の小さな音だけが、静かな病室内にリズミカルに響いている。
送信を終えても、紺野は床に正座して下を向いたまま、動かなかった。
全て送信した。何一つ隠さなかった。警官を殺害したことも隠さなかった。ビル倒壊に関わる全ての事柄を、余すところなく見せたのだ。
みどりもまた、雨粒の流れ落ちる窓を黙って見つめていた。その目からは涙がとめどなく流れ落ち、膝の上で組んでいる手の甲に滴り落ちている。
その状態で、すでに三十分ほどは経っていただろうか。
最初に沈黙を破ったのは、みどりだった。
「ありがとうございました。おかげであの日何が起こったのか、ようやく分かりました」
紺野は何も言わず、ただじっと俯いている。
窓ガラスをたたいては伝い落ちる雨粒を見るともなく眺めながら、みどりは呟くように語り始めた。
「あの日は、出張から三日ぶりに彼が帰って来た日でした。彼の誕生日がその前日でしたので、一日遅れの誕生日の、ささやかなお祝いをしていたんです」
みどりの震える声を、紺野は身動き一つせずに聞いている。
「とっておきのワインを出したら、彼は、『ありがとう』って喜んでくれて……ちょうど乾杯したときでした。激しい揺れで私たちは床に投げ出されました。私たちが住んでいたのは十二階、一番激しく破壊が起きた階の、一階下でした」
みどりは言葉を切った。体の奥底から絞り出すような深いため息をつくと、震える両手で顔を覆う。
「私の上に覆い被さるようにして、彼が両手をついてかばってくれました。そこへ……上階のコンクリートの柱でしょうか、それが倒れてきて……気がついた時、私を抱きかかえた姿勢のまま、彼は、もう……」
みどりの声は、酷く震えている。俯いている紺野の肩も、微かに震えているようだった。
「私はそのとき、両足を失いました。今つけているのは義足です。当時、私は妊娠七ヶ月でした。彼はあの時、私と、紘の命を身をもって救ってくれたんです。自分の命と引き替えに……」
みどりはそこで言葉を切ると、両手で顔を覆い、丸めた背中を震わせて嗚咽した。そうしてしばらくは泣き崩れていたが、やがて涙を拭うと、自嘲気味に笑った。
「あなたにこんなことを話しても、仕方ないんですけどね。ごめんなさいね。あの時のことを思い出すと、つい……」
紺野は小さく首を振ると、掠れた声を絞り出した。
「知っています。あなたがたのことも……」
発言の意味がわからず、みどりは怪訝そうに足元に座る紺野を見つめた。
「僕はあの時、ビルが倒壊する瞬間、おそらくあの子どもが僕を混乱させるためにやったのでしょうが、亡くなった三百八十四人全ての方のあの日の記憶を送信で受け取りました。あの一瞬に……。ですから、寺崎さんのことも知っています。あの方がどんなに勇敢にあなた方を守ったのかも、知っています」
みどりはその目を大きく見開き、冷たい床に身動きひとつせず正座している紺野を見つめた。
「三百八十四人の方の記憶は、毎晩何人かずつ夢に見ます。この十年間、欠かしたことはありません。寺崎さんの記憶も、十回以上見ています。僕は、……」
紺野は言葉を詰まらせた。こみ上げてくる嗚咽に言葉を奪われて話すことができないようだったが、ややあって、ようやく震える声を絞り出した。
「僕は、本当に取り返しのつかない罪を犯しました。何を言っても、何をしても、あの方達の命を、人生を返して差し上げることができない。寺崎さんの命も、お返しすることができない。あなたの足も、お返しすることができない。息子さんにお父さんの声を聞かせることも、できない……」
紺野はやっとのことでこれだけ言うと、下を向いた。膝の上で堅く握りしめている手が、端から見てもはっきり分かるくらい震えている。その手の甲に、涙のしずくがあとからあとから滴り落ちている。
窓を叩く雨粒の音だけが、薄暗い病室に微かな彩を添えていた。
みどりは何も言わずに、自分の目の前に座り、俯いて涙を落とし続ける紺野を見下ろしていた。そのままで、どの位の時間が流れただろうか。ふいに、みどりは囁くような声で、ぽつりと言葉を発した。
「犯人が、あなたのような人で、よかった……」
紺野は、ほんの少しだけ顔を上げた。みどりはそんな紺野を、深い悲しみをたたえた、でもどこか優しいまなざしで見つめていた。
「人を憎み続けるのは、本当につらい。だって、人生がそこでストップしてしまうんですから。前へ進めない。何をしても、その時のことが頭を離れなくて……」
みどりは紺野に右手をさしのべると、まるで自分の息子にするように、その柔らかい髪を優しく撫でた。再び溢れ出た涙が、瞬きとともに頬を伝い落ちる。
「あなたなら、許せそうな気がします。もちろん、きれいさっぱりというわけにはいかないだろうけれど、時間をかければまた、前へ進むことができるかもしれない。あなたも苦しかったんですものね。私たちと同じようにあの日の記憶を抱えて、前に進めずに……」
紺野は静かに語るみどりを見つめた。動けなかった。何も言えなかった。ただ、その目から止めどなくあふれる涙が、やつれた頬を濡らし続けていた。