5月1日 1
5月1日(水)
翌朝、紺野は疼くような足の痛みで目が覚めた。
やはり昨日、いきなり十キロ近く歩いたのがいけなかったらしい。体もだるく、夕方の検温では三十七度台後半の熱が出ていた。無理をすればこうなることは分かっていたが、他に方法がなかった。
紺野はあの子どもによって自分以外の人間が危険にさらされているとき以外、異能を発動することができない。異能によって他人を傷つけまいとする意識が過剰に働いてしまうせいか、普段はごく弱いテレパシー程度しか使えないため、昨日のような状況でも地道に歩いて戻ってくる以外方法がないのだ。
しかし、無理をしてまた入院が長引いてしまえば、それはそれでまずいことになる。痛む足をさすりながら、しばらくは自重しなければと反省する紺野であった。
朝食はあまり食べられなかったが、午前中ずっと安静にして過ごしたせいか、昼食は半分くらい口にすることができた。まだ足は痛むものの熱も下がってきたらしく、紺野は幾分すっきりした表情で昼食の盆を片付けた。
廊下の窓からふと外を見ると、雨がようやく上がったらしく、雲の切れ間から幾筋もの光が斜めのラインで眼下の町に差し込み、何とも幻想的な風景をつくりだしている。
思わずその風景に目を奪われて、紺野が足を止めていた、その時。
廊下の向こうにあるエレベーターホールから、こちらに向かってくる人物の姿が目に入った。
その人物は、車いすに乗っていた。手助けが必要かもしれないと足を向けかけたが、広々とした廊下には障害物もなく、通行に不便はなさそうだ。自分のような者が手伝ってもかえって気を使わせてしまうだろうと思い直し、紺野は自分の病室の方に歩き始めた。
車いすに乗っていたのは、品の良い中年女性だった。誰を探しているのか、病室の入り口に掲示してある名札を見て回っている。長いスカートの先からわずかに見えている足は、つるりとしていて体温を感じさせない。恐らく、両足とも義足なのだろう。女性は紺野の病室の向かい側にある病室の名札を熱心に見上げていたが、お目当ての名前が見当たらなかったらしく、小さく息をついて車いすを回した。彼女が紺野の病室の前に近づいてきたのと、ゆっくりした歩みの紺野が自分の病室の前にたどり着いたのは、ほぼ同時だった。
あまり目がよくないのだろう、紺野の病室に掲げてある名札を見ようと一生懸命首を伸ばしている。この病室には自分しか入院患者がいないため、無駄な労力を使わせているようでなんとなく気づまりな思いを抱えつつ、紺野が小さく会釈をして病室の中に入ろうとした、その時だった。
「紺野、秀明さん……で、いらっしゃいますか?」
思いがけず自分の名を呼ばれ、紺野は驚いて動きを止めた。
「……あ、はい。そうですが……」
戸惑いつつ言葉を返すと、中年女性は緊張した面持ちで居住まいを正し、紺野に向かってていねいに頭を下げた。
「初めまして。わたくし、寺崎みどりと申します」
「寺崎、……さん?」
聞き覚えのあるその名に、紺野がハッと息をのんで目を見開く。その反応に、みどりはいくぶん恥ずかしそうな笑みを浮かべてみせた。
「紘に紹介してもらおうかとも思ったんですけれど、あの子と一緒に来るのはなんとなく気が引けて……突然ごめんなさいね。どうしても、あなたに一度お会いしたくて」
「……いえ」
紺野が扉を開けると、みどりは小さく頭を下げて病室の中に入った。ベッドの脇に車いすを止めると、振り返って紺野の方を見る。紺野は入り口のあたりに立ちつくしていたが、彼女の視線に押されるようにベッドに歩み寄り、遠慮がちに腰を下ろした。みどりは紺野に正面から相対するように車椅子をまわすと、居住まいをただす。
「改めまして、私は、寺崎みどりと申します。あの時……十六年前のあの時、あのマンションに住んでいた者です」
紺野は何も言わなかった。蒼白な顔で、足元の床を見つめている。みどりは静かに言葉をつづけた。
「先日、私は神代沙羅医師にお願いして、あなたが送信したという、あの事件に関する記憶を見せていただきました」
みどりはいったん言葉を切ると、うつむきかげんの紺野の茶色い前髪をじっと見つめてから、意を決するように深く息を吸い込んだ。
「あなたは、東順也なんですか」
絞り出すように継がれたこの問いに、紺野は瞬きも呼吸も止めた。
もの言いたげにその口が開きかけたが、答えを躊躇うように唇の端がわななく。紺野はその唇をきつく引き結んだかと思うと、弾かれたようにベッドからおた。みどりの足もとに正座すると、床に額を擦りつけるようにしてひれふす。
「申し訳、ありませんでした……」
みどりは紺野の震える背中を黙って見つめていたが、静かに口を開いた。
「そんなことはしないでください。必要ありません。私は、あなたにお願いがあってここに来ただけなのですから」
意外な言葉に、紺野が伏せていた顔を少しだけ上げた。
「……お願い?」
「見せてもらえませんか。あの事件に関わる全てのいきさつを」
紺野は大きくその目を見開いた。
床についた両手がじっとり汗ばみ、呼吸が浅く、速くなる。
みどりは静かに、しかし、ゆるぎない決意をこめて言葉を継いだ。
「私は決着をつけたいのです。あの日、突然起こった、あの出来事に」
みどりはそう言って、紺野にそっと右手をさしのべた。
紺野はおずおずと顔を上げると、目の前に差し出されているみどりの手をじっと見つめた。
差し出されたその手は節くれ立って、女性のものとは思えないほどがっしりとしていた。彼女はこの手で、失った足の代わりに車いすの車輪を回し、自らの体を支え、一人息子を立派に育ててきたのだ。美しい手だと紺野は思った。血で汚れた自分の手で触れるのさえおこがましいと思った。
紺野はゆっくり体を起こすと、目を閉じて大きく深呼吸をした。覚悟を決めたように目を開くと、さし出されているみどりの手に震えの収まらない自分の両手を、上下から包み込むようにして重ね合わせる。
「わかりました。何も割愛しません。あの日、あの時に起きたことを、全てお見せします」
紺野は自分自身に言い聞かせるようにそう言うと、目を閉じた。みどりも呼吸を整えると、紺野に倣って静かに目を閉じる。
みどりの頭の中に、あの日、東順也の身に起きたことの全てが流れ込み始める。