4月30日 3
紺野が病室に戻ってきたときには、時計の針はすでに四時をまわっていた。
高校から病院までは電車で三駅分。紺野はその道のりを、ゆっくり歩いて帰ってきた。寺崎は心配して送ると言ったが、まだ学校が終わっていないことを理由に紺野は断った。そのあと、痛む足を引きずりつつ延々と線路沿いに歩いて帰ってきたのだ。一銭も持っていなかったのである。
やっとのことで病室にたどり着き、横開きの重い扉を開けた紺野は、ベッド脇の丸椅子に座る男の姿に気づいて足を止めた。窓から差し込むオレンジ色の光が後光のようにその男を縁取っている。顔は逆光で黒ずんで見にくいが、白衣を羽織ったその姿に、紺野は見覚えがあった。
白衣姿のその男……神代亨也は、紺野のぶかぶかなジャージ姿を見て、少し笑った。
「随分変わった格好ですね」
紺野は何も言わず、入り口で足を止めて亨也を見ていた。
「礼を言わなければなりません」
亨也はそう言うと、ベッドに戻るよう促した。紺野は黙ってベッドに歩み寄ると、亨也から離れた位置に腰を下ろす。
「玲璃さんを守っていただいて、助かりました。私はちょうど手術の真っ最中で、病院を離れられませんでした」
紺野は小さく頭を振った。
「玲璃さんからも聞いているかもしれませんが、私たち、近々結婚するんです。生まれたときからそう決められていましてね」
紺野は目を見開くと、ゆるゆると顔を上げて享也を見た。亨也はそんな紺野に複雑な笑みを投げる。
「彼女は、私にとっても一族にとっても非常に重要な人物ですから、今日は本当に助かりました。感謝しています」
「……申し訳ありませんでした」
唐突に深々と頭を下げられて、亨也はきょとんとして動きを止めた。
「何がですか?」
紺野は目線を逸らすと、言いにくそうに言葉を継ぐ。
「あの時、遠隔遮断できれば良かったんですが、気づくのが遅れて間に合わなかった。それで、あんな状態に……」
どうやら紺野は、玲璃を抱え込んで守ったことを気にしているらしい。亨也はぽかんと口を開けて紺野の茶色い頭を見つめてから、クスクスと肩を揺らした。
「あなたって、まじめなんですね」
紺野は耳まで赤くなって下を向いている。亨也はそんな紺野を心なしか優しい目で見つめていたが、やがて丸椅子から立ち上がると窓辺に歩み寄り、外の風景に目を向けた。
夕日に彩られた町は温かなオレンジ色の光とくっきりとした濃い影に彩られ、町の真ん中をゆったりと流れる川は、日の光を反射してキラキラ輝いている。亨也はその穏やかな風景をしばらくは黙って眺めていたが、ややあって、おもむろに口を開いた。
「私はこういう職業柄、彼女に何かあっても即座に助けに行けないことが多い。今日はおそらくあなたより先に能力発動を感知していました。ですが、執刀中は気づいても病院を離れられないのです」
享也は紺野の方に向き直ると、噛みしめるように言葉を継いだ。
「玲璃さんには、もう一人護衛が必要です。神代側の」
発言の意図がつかめないのか、怪訝そうに首をかしげた紺野に、享也はより直接的でわかりやすい表現で、自身の意図を伝え直す。
「玲璃さんが高校に通う間、彼女の護衛をしていただけませんか」
それでも享也が何を言いたいのかわからなかったらしい。紺野はしばらくは眉根を寄せて考え込むような表情をしていたが、その意味が分かると、今度は目を丸くして、明らかな驚愕の表情を浮かべた。
「……僕が?」
「そうです」
亨也はにっこり笑って頷いてから、枕元の丸椅子に腰を下ろした。
「神代一族には現在、玲璃さんと同年代の異能力保持者がいません。だからこれまで玲璃さんには魁然から派遣された護衛しかつけることができなかった。今まではそれでも良かったんです。日常の危険から身を守るだけなら魁然側の護衛だけでも、極端な話、玲璃さん自身だけでも十分ですから。ですが、異能力者、しかも桁外れの異能を有する鬼子が関与するとなると、話は別です。神代側の護衛、しかも相当に高レベルの能力者による護衛が必要になります。玲璃さんは高校に通い続けることを強く希望している。私も彼女の願いは叶えてやりたい。そのために、玲璃さんと同年代であるあなたに、ぜひ協力していただきたいんです」
紺野は先日、病院に訪ねてきた玲璃が彼に語った言葉を思い出していた。
「数学が好きなんだ」そう言って目を輝かせていた、彼女の顔を。
「遺伝子検査の結果がまだ出ていませんが、致し方ありません。この際、あなたの出自は問いません。一族の中には反対する者もいるでしょうが、私の責任において状況を監視し、問題があればバグを作動させると言えば大丈夫でしょう。私は病院からでも、あなたや玲璃さんの動向は十分追跡できますので」
亨也はそう言うと、困惑した表情で固まっている紺野に、にっこり笑いかけた。
「この件はあさっての会合の際、一族の皆さんに提議しようと思っています。合意が取れた時点で再度意向を伺いにきますから、よく考えておいてください」
投げかけられてもなお、ひとことの言葉も返せずにいる紺野を見て、亨也はクスっと笑った。
「私も、あなたのことをもう少しよく見てみたいんです」
紺野はおずおずと顔を上げて亨也を見た。亨也は心持ち目線を落とすと、独り言のように言葉を継いだ。
「あなたは、出自不明の謎の能力者です。普通に考えれば危険ですし、私も当初は抹殺に異を唱えなかった。ですが、ここ数日あなたの様子を間近で見ていて、どうも危険な気がしない。それどころか、子どもを守るためにあんな体で鬼子の呼び出しに応じたり、頼みもしないのに玲璃さんを守ったり……」
そう言うと、紺野にもう一度にっこりとほほ笑みかける。
「だから、ちょっと様子を見てみたいと思いましてね」
紺野は困惑しきった表情でそんな亨也を見つめていたが、やがて目線を落とすと、言いにくそうに口を開いた。
「僕は多分、あの子どもに狙われている。能力もろくろく使えない。僕では、お役にたてるかどうか……」
「少なくとも、今日は役に立ちましたよ」
亨也はそう言って立ち上がった。
「まあ、よく考えてみてください。お返事は、数日後にまたうかがいにきます」
部屋を出ていく亨也の後ろ姿に向かって、紺野はもの言いたげに口を開きかけたが、入り口の戸が閉まると、その口を閉じて俯いた。
紺野にとっては相当に厳しい提案だった。経済的な理由から、紺野は高校に通うことを諦めていた。退院後に住む場所もない。入院費の返済もしなければならない。護衛うんぬん以前に、この先生活していけるのかどうかさえ怪しい状況だったのだ。
紺野はふと、自分が履いているぶかぶかの体育館履きに目を留めた。
『昔のおまえは死んだんだ。俺にとってのおまえは、紺野秀明でしかない』
『私たちにとって、おまえはおまえでしかないんだ』
あの二人は、あのとき既に全てを知っていた。全てを知った上で、自分を受け入れてくれた。その一人である彼女が、高校に通うことを切望している。そのために、自分にできることがあるのかもしれない。自分が存在することに、意味が見いだせるのかもしれない。
紺野はしばらくの間、ぶかぶかの体育館履きを見つめて、動かなかった。