4月30日 2
一時過ぎの学食は静かで、食事をとる生徒の姿ももうまばらだ。まもなく、午後の授業が始まろうという時刻である。
薄日が差し込む窓際の席に、寺崎はミニ丼定食ランチ+弁当箱の載った盆を置いた。
「ここに座……」
振り返って紺野を一瞥し、言いかけた言葉を止める。
「しっかし……」
そう呟いて俯くと、こみ上げてくる笑いを必死で喉の奥に押し込む。
寺崎から借りたジャージとTシャツ姿の紺野は、おにぎりセットをちんまりと載せた盆を手に持ち、黙って下を向いていた。
寺崎は体格のいい方で背もかなり高い。紺野は背はそう高くなく細身である。寺崎の借り着は、必然的にちょっとだぶだぶになってしまうのである。
肩はずり落ち手も半分隠れて、ズボンは腰が落ち裾も折り上げてある。体育館履きもぶかぶかで、しかも頭には解けかけた包帯。なんだか間の抜けたその姿が、寺崎はおかしくてしょうがなかった。とてもじゃないが、あんな過去をしょっている実質三十過ぎの男には見えない。
それは玲璃も同じらしかった。スパゲティランチを手に、紺野を横目でちらっと見てはくすくす肩を揺らしている。
紺野はそんな二人の様子が分かるのか、恥ずかしそうに下を向いたまま、ぽつりと言った。
「……やっぱりお返しします。ジャージ」
「いや、悪い、悪かった! そう言わないで着ててくれよ。あんな格好じゃ目立ってしょうがねえから」
寺崎は慌てて両手を振り回すと、立ち止まっている紺野を強引に促して、自分の隣の席に座らせる。玲璃は二人の様子をほほ笑ましく眺めやりながら、向かい合わせの位置に腰を下ろした。
「あー、おなかすいた。じゃ、ここ、ほんとに寺崎のおごりでいいのか?」
「もうすぐ給料入りますから、当然です!」
誇らしげに胸を張った寺崎は、紺野の困惑したような視線に気づくと、にっと笑った。
「俺、これでも働いてんだ。総代のガード役ってことで、日給一万円! 結構いい額だろ」
それから、こう付け足す。
「ま、あんま役には立ってねえけど」
玲璃は苦笑しながら首を振った。
「そんなことはないぞ、こうしておごってもらえるしな」
「でも金の出所は総帥なんすけどね」
寺崎は笑ってそう言うと、「いっただっきまーす」と早速ミニ丼ランチのふたを開ける。紺野も、寺崎に頭を下げて小さなおにぎりを手に取った。
「さっきの男、簡単な催眠がかけられてたって言ってたな」
寺崎が口いっぱいに丼のご飯を頬張りながらくぐもった声でこう聞くと、紺野は小さく頷いた。
「本当に簡単な……多分、ほんのすれ違いざまにでもかけられる程度のものです」
「どうしてそんな簡単な催眠だったんだろうな」
玲璃もスパゲティをフォークにくるくると巻き付けながら眉根を寄せる。
「そうだな。滝川の時はあれだけしっかりやっておいて、落差がありすぎる」
紺野はおにぎりを右手に持ったまま、目の前に置かれているお盆の滑らかな表面をじっと見つめていたが、ややあって、ポツリと口を開いた。
「それしか、できなかった状況があるのかもしれません」
目線をお盆に落としたままで、独り言のように言葉を継ぐ。
「この間、あいつ自らが現れたときもそんな気がしたんです。自分が出てくるしか、方法がなかった。今回も、すれ違いざまの催眠をかけるほか、方法がなかったのでは……」
寺崎はどんぶりを置くと眉をひそめた。
「いったい、どういう理由で?」
「それは、よく分からないのですが……」
遠慮がちにそう答えてから、紺野は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、いい加減な憶測です」
寺崎は口の中のご飯を慌てて飲み込むと、首を振って笑う。
「でも、それっておまえの直感だろ。案外あたってるかもな」
玲璃は口に運びかけたフォークを止めて、そんな二人の様子をぼんやりと眺めていた。
高校の学食。こんな日常的な場所で、当たり前に紺野と食事なんかしている。信じられない気分だった。もちろん紺野は寺崎から借りたぶかぶかのジャージ姿で少々風変わりなのだが、そんなことはどうでも良かった。
先日知った紺野の凄まじい過去。あんな過去を知ったあとで、まともに紺野と会話できるのか正直言って不安だった。でも、思いがけずこんな形で同じテーブルを囲んでいることが、なんだか不思議で、嬉しかった。
と、玲璃の目線に気づいたのか、紺野がちらりと玲璃に目を向けた。必然的に、しっかりと目があってしまう。
「……あ、あのさ」
玲璃はあわてて取り繕うような笑顔を浮かべた。
「紺野、今日はありがとう。助かったよ」
「そうだ、俺もそれ言うの忘れてました。ありがとう!」
寺崎も早口でこう言うと、玲璃に倣って頭を下げる。
いきなり二人に頭を下げられて、紺野は逆にどうしていいか分からなくなったらしい。右に左に視線を泳がせて焦りまくっている。
「い、いえ、そんな、別に……」
紺野の様子に、玲璃も寺崎も笑ってしまった。
「ほんっとおまえ、感謝され慣れてねえだろ」
笑いながらそう言ってから、寺崎はふっとまじめな表情になった。
「過去は過去、今は今だ。関係ねえよ」
紺野は動きを止めて寺崎を見つめた。寺崎は紺野の視線をかわすように目線を窓の外に向けると、アイスコーヒーをかき回しながらボソッと口を開いた。
「俺さ、おまえのこと、紺野としか呼ぶつもりねえから」
何のことだか分からなかったらしく、紺野は困惑したような表情を浮かべた。
寺崎はグラスを手に椅子の背もたれに寄りかかると、そんな紺野の視線を避けるように窓の外に目を向けながら、独り言のように続けた。
「昔のおまえは死んだんだ。俺にとってのおまえは、紺野秀明でしかない」
紺野は大きく目を見開いた。
アイスコーヒーを片手に窓の外を眺めている寺崎を、玲璃もスパゲティを口に運ぶ手を止めてまじまじと見つめた。
――あのことだ。寺崎も、紺野の過去を知っているんだ。確か寺崎の父親は、あのマンション倒壊事故で亡くなっている被害者だ。それなのに……。
「……寺崎」
「あ、はい。何すか? 総代」
「私、おまえのこと、見直した」
「は?」
突然の発言に面食らっていた寺崎だったが、それが紺野の過去に関係していると気づくと、照れたような笑みを浮かべた。
「やですよ総代。てことは、今まではなんだと思ってたんすか」
「いや、以前も別に変だとは思っていなかったが、今日は改めて感心した」
二人が軽口を言い合っている間、紺野は黙っていた。硬い表情で、テーブルに置かれた昼食の盆をじっと見つめていた。
そんな紺野に優しい目を向けると、今度は玲璃が口を開いた。
「私も同じだ。紺野」
玲璃は慎重に言葉を選びながら、自分の思いを言葉にのせた。
「おまえはいろいろあったから……本当に、苦しいと思う。その苦しさは申し訳ない、たぶん私たちには理解しきれない。ただ、私たちにとって、おまえはおまえでしかないんだ。おまえの過去をどうこういうつもりはないし、普通にしゃべりもするし、私たちを助けてくれれば感謝もする。……そんな、当たり前のことしかできなくて、申し訳ないんだけれど」
しばらくの間、紺野の反応はなかった。先ほど同様、昼食の盆に目線を落として動かなかった。
「……ありがとうございます」
ややあって、小さな声でぽつりと、これだけ言った。それからまたしばらくは、無言で下を向いていた。