4月30日 1
4月30日(火)
この日は、曇り空だった。
今にも雨滴が落ちてきそうな、重い空。連休合間の憂鬱な、平日。
だが、玲璃の心はすっきりと晴れていた。
昨日は義虎の指導の下、無酸素行動訓練を含む八時間におよぶトレーニングを実施した。久々の過酷な戦闘訓練に体は悲鳴を上げたが、無酸素状態で数分行動することが可能になるなど、目に見える効果があった。今朝も早朝から二時間みっちり訓練を行ったが、それだけで気持ちの落ち着きが違う。この調子で訓練を続けていけば、もしまたなにかあっても落ち着いて対処できるに違いないと、玲璃は自信を深めていた。
自分を取り巻く特異な状況から逃げずに主体的に向き合っているせいか、教室での、友だちとのたわいない談笑や授業など、これまで何気なく過ごしてきた当たり前の毎日が、なんだかとてつもなく貴重で愛おしいものに思えてくる。これからは、興味のない授業ももっと真剣に取り組んだり、友だちとのかかわりのひとつひとつを大事にしたり、毎日を大切に過ごしていこうと思いを新たにする玲璃であった。
ただ時折、ふと思い出しては胸が苦しくなることがあった。紺野秀明のことだ。義虎にののしられながら、何かに耐えるように俯いていたあのときの彼の憔悴しきった姿が、ふとした拍子に脳裏をよぎるのだ。
――大丈夫だろうか。
レポートを提出した玲璃は、職員室前の廊下を歩きながら小さくため息をついた。
玲璃は紺野に感謝こそすれ、恐れたりさげすんだりする気持ちは全く起きなかった。彼のことを思うと、胸が苦しいような、いたたまれない気持ちになるだけだった。
確かに彼女は一昨日、沙羅の送信により自分の母親である裕子という人物と、紺野……東順也が関係を持ち、あの化け物が生み出されたという事実を知った。だが、あの送信で見た裕子という人物を母親として認識し、自分との繋がりを実感することなど、彼女には到底不可能だった。実感するにはあまりにも現実離れしすぎていたし、あそこまで悲惨な死に方をしたあの女性を自分の母と認めることは、ヘタをすれば精神の崩壊につながりかねないからだ。それを防ぐために、玲璃の脳はあの事実の明確な認識を拒んだ。無意識の自己防衛と言えるだろう。
それゆえ、あの事実を見せられた今でも、玲璃にとっての紺野のイメージは、出会った当初と何ら変わらない。どころかそれに加えて、重い過去にとらわれて苦しむ彼に同情する気持ちまで生まれているのだった。
あれこれ考えながら玲璃は早足に学食へ向かう。ランチタイムに、クラスの友人たちと学食で待ち合わせをしているのだ。
廊下を曲がり、あと数十メートルで学食というところで、玲璃はピタリと足を止めた。
背中の毛が逆立つようなこの感覚は、確かに殺気だ。振り返らず、五感をフル稼働して対象との距離を計算する。
――左斜め後方、二十メートル。職員玄関の前あたりだ。
血の気が引くような感覚にとらわれながらも、玲璃は呼吸を整えると、昨日、義虎と行った危険回避の段取りを思い出す。
背後で、対象が一歩を踏み出す。
左耳の皮膚がその気配を察すると同時に、玲璃は走り出した。
『学校ではまず第一に、他の生徒の安全を確保することを考えろ。敵を認識したら攻撃される前に、できるだけ早く人気のない、広い場所に誘い出せ』
義虎の言葉を思い返しながら、一気にスピードを上げ、談笑する生徒の脇を風のように駆け抜ける。
すれ違う生徒は、自分の脇を何かが駆け抜けた気配を感じて怪訝そうに振り返るが、既にそこには何もない。人間の動体視力でとらえられるスピードを超えて移動しているため、全速力の玲璃の姿は普通の人間にはとらえられない。ただし、この状態で歩いている生徒と衝突しようものなら、その生徒は間違いなく病院送りになってしまう。玲璃は驚異的な反射神経で歩いている生徒たちを避けつつ、中央階段を一気に駆け上がった。
今は昼時、一階は学食があり人が多い。攻撃されれば大きな影響が出てしまうのは必至だ。玲璃は二階、三階を通り越し、あっという間に屋上へ出た。外へ走り出て、屋上階段の屋根にひらりと飛び上がる。そこで、追跡者を待とうというわけだ。
入り口は一カ所。転移してこなければここで捕まえられるし、転移してくれば能力感知できる。人気もない。対応に一番適した場所だった。
呼吸を最低限に落とし、全神経を集中して待っていると、何者かが階段を上がってくる気配を感じた。敵も然る者、足音も気配もほとんど感じさせないその動きを、玲璃は空気のわずかな動きと体温による微細な温度変化で感知したのだ。
空気の揺れが徐々に大きくなり、体温による気温の上昇もはっきり感じられるようになってくる。
――来た!
屋上の出入り口に何者かが足を一歩踏み入れた、刹那。玲璃はその背後に音もなく飛び降り、首を右腕で絞め上げた。
絞め上げながら、背の高いその男の後ろ姿を見やる。
この高校の制服を着ているところを見ると、どうやらここの生徒らしい。ピアスだろうか? 屋上を照らす日の光を反射して、黒髪の間からのぞく耳の辺りで時折何かがキラリと光る。
玲璃はその後ろ姿に見覚えがあるような気がして違和感を覚え……ハッと息をのんだ。
「寺崎⁉」
玲璃はあわてて首を締め上げていた腕を外すと、一歩飛び退った。
男……寺崎はいきなりの攻撃に面食らった様子で、けほけほと空咳をしている。
「総代……ひどいっすよ。いきなりびっくりしました」
「すまない。どうしたんだ、こんなところに……」
「いや、なんかヘンなやつがいたんで追ってきたんすけど、途中で見失ったんです。でも、確かこっちへ来たはずなんですけど……総代は?」
「私もだ。ヘンなやつに追われてここまで来たんだ。屋上にきたら捕まえようと思ってたら、おまえが来て……」
二人が思わず顔を見合わせた時だった。
その禍々しい「気」の存在に、先に気づいたのは玲璃だった。
「危ない!」
叫ぶと同時に、玲璃は寺崎に覆い被さった。玲璃の下になり目を丸くした寺崎がその「気」の存在を感知した瞬間、衝撃波が空間を歪ませながら二人の頭上スレスレを駆け抜ける。それは屋上の柵を吹き飛ばし、遙か遠方までまっすぐに飛び去った。
あわてて振り返った二人の目に、屋上階段の屋根……さっきまで玲璃が潜んでいたところにウサギの着ぐるみが腰かけているさまが映り込んだ。小首をかしげてこちらを見ている、愛くるしいその表情がかえって不気味だった。
「こいつ、いつの間に……!」
呟く玲璃の隣で、寺崎が顔色を変えた。
「おまえ、あの時のクマ野郎だろ!」
「何だ? クマ野郎って……」
「先日、紺野を襲ったやつです。紺野は、あの子どもだと言ってました」
寺崎の言葉に、玲璃は息をのむ。あの時に産まれた、あの恐ろしい子ども⁉
「性懲りもなく、着ぐるみ着替えやがって……」
呟くと、寺崎は立ち上がった。屋根からふわりと飛び降りて屋上出入り口前に立ったウサギを、まるで予告ホームランのようにまっすぐに指さしながら大声で叫ぶ。
「おい、クマ野郎……っていうか、ウサギ野郎! 今度こそつかまえて、おまえの顔を見せてもらうからな!」
言うなり寺崎は屋上の床を蹴り、ウサギを目がけてダッシュする。
同時に集積する、濃厚な気の気配。玲璃ははっとした。
「伏せろ、寺崎!」
その声に反応し、即座に床に伏せた寺崎の前髪をかすめて衝撃波が駆け抜ける。黒髪が数本、風に舞い散る。
「こいつは異能力者だ、攻撃をよく考えないとやられるぞ!」
玲璃や寺崎は、異能による攻撃は効きにくい体質だ。だが、ある程度の影響は受けざるを得ない。例えば衝撃波なら、普通の人間が木っ端みじんになる程のものを受けても、二,三十m吹き飛ばされる程度ですむ。が、三十mも吹き飛ばされれば何らかの影響は受ける。そういうことだ。
寺崎が立ち上がろうとした、刹那。玲璃は第二波の集積を感じた。寺崎とウサギの距離が近すぎる。彼のスピードでは恐らく逃げ切れない。
玲璃は屋上の床を力いっぱい蹴りつけた。衝撃で屋上のコンクリートがはじけ飛び、その姿がかき消える。ロケットさながらの瞬発力だ。
「総代⁉」
度肝を抜かれた寺崎が叫んだ時にはすでに、玲璃はウサギの眼前に肉薄していた。
突然眼前に現れた新たな敵に標的を移すと、ウサギは集積していた赤い気を玲璃めがけて放つ。
凝縮した赤い「気」が、弾けるように玲璃に襲い掛かった、瞬間。弾丸の前にあったはずの玲璃の姿がかき消えた。気の弾丸は、なにもない中空を切り裂きながらはるかかなたへ飛び去っていく。ウサギはハッと上方に目を向けた。ウサギの頭上十mほどの地点に、玲璃の姿があった。上昇から下降に転じた玲璃は、ウサギの首もとに飛びついて抑え込もうと身構える。
刹那。
ウサギの周囲一帯に無数の気の弾丸が瞬時に凝縮したかと思うと、上空の玲璃めがけて機銃掃射さながらに一斉に発射されたのだ。
一弾一弾が細かい分、先ほどより集積時間が短くて済むのだろう。かまいたちのような細かい気が、玲璃めがけて一斉に空を切り裂く。
空中には足場がなく、いかに玲璃でも避けようがない。寺崎が走り出したが、間に合う距離ではない。
――しまった!
たった数日の戦闘訓練では、やはり実戦に対応することなど不可能なのだ。自分の甘さと力のなさに絶望しつつ、せめて頭部だけでも被弾から守ろうと体を丸め、両腕で頭を抱えた、その時だった。
玲璃は、何か温かいものが自分を包み込むのを感じた。
「……⁉」
ハッとして目を開けた玲璃が見たのは、白く輝く防壁に吸収されて消えていく無数の赤い弾丸だった。
――誰?
玲璃は恐る恐る首を巡らせて、自分を抱きかかえているその人物に目を向ける。
その人物は、白い服を着ていた。頭には包帯だろうか、白い布が巻かれているが、取れかけて先がひらひらと揺れている。その隙間からはみ出すようにして風になびいている、サラサラした茶色い髪。
玲璃は大きくその目を見開いた。
「……紺野⁉」
玲璃がその人物の名を口にしたのと、二人が屋上のコンクリートに着地したのは同時だった。
「すみません」
着地と同時に小声でこう言うと、紺野はぱっと玲璃から離れた。
玲璃は状況を忘れ果ててぼうぜんとその場に立ち尽くしてしまった。
一方、突然の紺野の出現に対し玲璃同様に面食らったとはいえ、さすがに寺崎は状況を覚えていたらしい。ウサギを睨み付けたまま、叫ぶ。
「紺野! こいつ、あの時のクマ野郎なんだろ? やっちまおうぜ!」
言うが早いか、またもウサギに向かってダッシュする。紺野が何か言いかけるように口を開いたが、寺崎はウサギの動向に全神経を集中していた。ウサギに能力発動の気配はなく、屋上出入り口の前に突っ立っているだけだ。
――チャンスだ!
寺崎が拳を振り上げようとした、刹那。
「だめです!」
寺崎は息をのんだ。振り下ろしかけた拳との距離あと一センチというところに、突然紺野が割り込んだのだ。まるで背後に立っているウサギをかばうかのように。寺崎はあわてて拳を振り下ろす動作を急停止した。
「何すんだ、紺野! こいつ……」
「これはあいつじゃ……」
言いかけたその時。紺野の背後に立つウサギが、紺野を羽交い絞めにしたのだ。寺崎は言葉を飲み込んだ。
「紺野!」
「いいんです!」
目を丸くしてウサギにとびかかろうとした寺崎の動きを、即座に紺野が制する。
同時に、紺野の体から白い輝きが放出され始める。
紺野はウサギと接触することで、先日滝川に対して行ったのと同様、伝達能力でウサギの意識をさぐっているらしい。紺野と接触していないため、寺崎にはこの間のような意識世界までは感知できなかったが、恐らくあれと同様のことが繰り広げられているのだろう。
ふいに、紺野の首を絞めていたウサギの手が、だらんと力なく垂れ下がった。
解放された紺野は、息を乱しながら床に膝をつく。
紺野の体から離れたウサギは、重い音を響かせて屋上の床に仰向けに倒れた。
「紺野! 大丈夫か?」
あわてて駆け寄った寺崎の問いかけに、紺野は小さく頷いた。
「こいつは?」
言いながら、寺崎は床にへばっているウサギの頭を掴んで引っ張り始める。
紺野はその様子を見ながら、立ち上がって息をついた。
「先日の、あの人よりはずっと簡単な催眠でした。きっとすぐ目が覚めます」
ウサギの頭は簡単に外れた。中に入っていたのは、無精ヒゲを生やした四十代とおぼしき中年男性だった。
「おい! 起きろ、おいってば!」
寺崎が頬をたたきながら呼びかけると、男はうーんとうなって目を覚ました。
「あ、……あれ? ここは? 俺、確か駅前でティッシュを……」
「駅前にいたんすか?」
寺崎が言うと、男は驚いたように寺崎を見た。状況が掴めていないので中途半端な表情で頷く。
「ティッシュ配りをしてたんだが……どこだ? ……俺、倒れたのか?」
「何があったんすか?」
「いや、ティッシュを配ってたんだ。その時なんかふらーっとして、気がついたらここに……」
その時、無言で歩み寄ってきた紺野が、男の傍らにひざまずいた。そしてやはり無言で右手で男の手を取り、左手をその上に重ねる。男は面食らったように紺野を見た。
「? 何だ?」
「すみません。ちょっと、見せてください」
短くそう言ったきり目を閉じて集中している紺野を、男は薄気味悪そうに見たが、とりあえずそのまま手を預けている。
寺崎と玲璃の目にはその時、白く輝く紺野の気がはっきりと見えていた。
紺野の頭の中に、先刻、男が見た風景が蘇ってくる。
駅前の雑踏。
行き交う人の群れ。
タクシープールを出入りする車のクラクション。停車中の大型バス。
ティッシュを受け取ってくれる人、無言で立ち去る人、うるさそうに手を振る人……。
その時突然、男の視界がぼやけた。倒れたのだろうか、風景がひっくり返り、配っていたティッシュが散乱する。
暗転していく視界の隅に映る、銀色の、……車輪?
男の記憶は、そこで途切れた。紺野に手を預けていた男が、振り払うようにその手を引いたのだ。さすがに薄気味悪く思ったらしい。慌てたように立ち上がり、外れたウサギの首を掴んでそそくさと屋上を後にする。
紺野は小さく息をつくと、立ち上がった。
「何が見えたんだ?」
勢い込んで寺崎が聞いてきたが、紺野は小さく首を振った。
「関係があるかどうかは……駒江駅前と、銀色の車輪が」
「駒江駅は、さっきのオヤジがティッシュ配りをしてた所だろ。……銀色の車輪?」
そう言って首をかしげた寺崎に、紺野は頭を下げた。
「すみません、気づくのが遅れて……もう少し早ければ、能力発動の状況で出所を探ることができたんですが」
寺崎は慌ててぶんぶん首を振った。
「そんなことねえよ。おまえが来てくれたから総代は無傷だし。……おまえ、熱、下がったのか」
紺野が小さく頷いたので、寺崎は「そっか」と言ってちょっと笑った。
「しっかし、よく感知できんな。病院結構遠いのに」
「一度、相対してますから……。あの気は忘れようがない」
紺野は遠い目をした。ウサギのおじさんは既に階下に降り、屋上にいるのは寺崎と紺野、そして玲璃の三人だけになっていた。
玲璃は紺野をぼうっと見つめながら、動作も思考も停止したままだった。さっきの、あの感覚が忘れられなかった。自分を包み込む、あたたかなぬくもり。頬をなでる柔らかい髪。かすかに感じた、紺野のにおい……。なんだか胸がどきどきしてし方がなかった。
その時突然、寺崎が叫んだ。
「紺野、おまえ……また裸足だろ!」
「え?」
言われて足元に目をやる紺野。やっぱり裸足だった。
「……あ、そうですね」
「そうですね、じゃねえよ。待ってろ、俺の体育館履き貸してやる。それとも、転移して戻るから、いらねえか?」
「いえ、転移はしませんが……いいですよ。別に大丈夫です」
「大丈夫って、そういうわけにはいかねえだろ。あと、その病院服も、目立つじゃねえか」
寺崎はしばらくの間腕を組んで何か考えていたが、突然紺野の右腕をぐっと掴んだ。
「昼飯、食ったか?」
「? ……いえ、まだ」
「じゃあ、こいよ。飯、食おうぜ」
戸惑ったような表情の紺野を強引に引っ張って歩き始めた寺崎は、ふと立ち止まると、ぼうぜんと立ち尽くしている玲璃の方を振り返った。
「総代は、どうしますか?」
急にふられて何のことだか分からず寸刻きょとんとした表情で二人を見つめた玲璃だったが、すぐにハッとしたような表情になると、「私も行く!」と叫んで屋上出入り口の方へ走り出した。