4月29日 2
病院の最上階に位置している院長室の大きな窓からは、都心の町並みがぐるりと一望できる。義虎はその広い院長室の一角に置かれた革張りの立派な椅子に、神代京子と向き合って座っていた。
三十代とおぼしき品のいい女性事務員がコーヒーを出して部屋を出ると、義虎はおもむろに口を開いた。
「神代総帥、お忙しいところ申し訳ありませんでした。私も、時間がとれる日があまりないものですから」
京子はコーヒーに口をつけると、柔和にほほ笑んだ。
「構いません。五月二日の会合までに、ある程度結婚の段取りを決めておかなければならないのは確かですから。ただ、玲璃さんの卒業までにはまだ間がありますが、本当に進めてしまってよろしいのですか?」
「大丈夫です。その点については本人も了承しています。ただ……」
「ただ?」
義虎は苦笑混じりに肩をすくめた。
「粘られましてな。懐妊までの間は、結婚後もどうしても高校に通い続けたいと言い張りまして。それを神代家の方に、了承していただきたいのです。いかがですか?」
京子は優しい笑みを浮かべた。
「玲璃さんらしい条件ですこと。あの子なりに譲歩してくれたのですね」
「そう言っていただけると助かります。誰に似たのか頑固なところがありまして」
「分かりました。おそらく、亨也も異存はないと思います。あの人はもういい大人ですから、おおらかに見てくれるでしょう」
義虎は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。亨也さんにばかり甘えてしまって、申し訳ないのですが……そうしますと、結納の方は」
「そうですね。六月中には執り行いたいですね。それから準備を含めて考えると、式は九月あたりが一番早いでしょう」
「わかりました。その方向で日程を調整します。……忙しくなりますな」
義虎の言葉に、京子もうなずいた。
「なんと言っても、われわれ一族の三百年来の夢が実現するわけですからね」
義虎は頷くと、コーヒーカップ片手にふうとため息をついた。
「三百年……長いようで短いですな」
「そうですね。われわれが血の純化……同族結婚を繰り返すこと三百年。血の濃度が最高レベルに高まり、不純物が一切ない状態になると、能力の現出する性が反転する。その時、魁然神代両家が交われば、両家の特性を有する神子が誕生する……文献に書かれていた「反転」が起きているのが、まさに亨也と玲璃さん、というわけですから」
義虎は頷くと、暗い表情でテーブルを見つめた。
「もし、純化の途上で両族が交われば、一族の終焉をもたらす「鬼子」が生まれる……文献には、そうも書かれていました。一族の終焉、それがもし本当なら、その前に何としても玲璃に神子を産んでもらわねば……」
その言葉に、京子も目線を落とした。
「そうですね。その子が文献の通り『神子』、神の力を持つ偉大な子どもとなるのなら、鬼子がたとえわが一族の抹殺をもくろんだとしても、実現を阻むことができるかもしれません。なんとか間に合わせたいものです」
「神代の異能力と、魁然の身体能力を併せ持つ、神子。神子の誕生は、われわれ一族に課せられた使命でもあります。その誕生を見ずして、われわれは死ねませんからな」
義虎の言葉に京子はうなずくと、コーヒーに口をつける。義虎はそんな京子を底光りする目で見つめていたが、ややあって、おもむろに口を開いた。
「ところで、話は変わりますが」
「なんでしょう?」
「あの男……紺野、もとい東順也のことです」
京子は表情を変えず、黙って義虎を見つめている。義虎はそんな京子をどこか探るような目で見つめながら、しかし、平静に言葉を継いだ。
「実は、お恥ずかしい話なんですが、玲璃があの男に興味を持っているらしく、無防備に近づいて危険な状態でしたので、昨日、神代沙羅医師にご協力をいただいて、あの男の供述内容を玲璃に送信していただきました」
「そうだったんですか」
「事前通告をせず、私の一存で沙羅医師をお借りして、申し訳ありませんでした。一応、ご報告をしておかねばと思いまして」
京子は頭を振った。
「構いません。そういうときはどんどん使っていただいて結構です」
「ありがとうございます」
義虎は頭を下げたが、その目は上目遣いに京子の表情を盗み見ていた。
「……あの男の処遇も、考えなければなりませんな」
「そうですね」
「五月二日の会合で、それについて話し合う予定にはなっているのですが……どうお考えですか、神代総帥は」
「……と、仰いますと?」
「血液成分は完全に神代一族と同一です。にもかかわらず、本来なら男には発現しないはずの異能が発現している」
京子は黙ったまま、再びコーヒーを口にする。
「十六年前の検査では、一般人能力者との混血だったために能力の反転のような状態に見えただけだと……そういう結論に落ち着きました。ですが、実際にあの男の能力を目の当たりにして、その論は、どうにも無理があるように思えて仕方がありません」
義虎はそこまで言うと言葉を止め、京子の反応をうかがう。京子はコーヒーカップから口を離すと、刃のようなまなざしを義虎に投げた。
「……無理があるのだとして、魁然総帥は、どういう可能性をお考えなのですか」
「私は、あの男は能力の反転が起きていると考えます」
院長室に、重い沈黙が流れる。
神代京子は、まじろぎもせず義虎を見つめている。義虎は彼女の反応をうかがいながら、言葉をつづけた。
「能力の反転の可能性を持つのは総代、もしくは裕子の腹からはい出したあの子ども以外に考えられません。私は、あの紺野という男が例の子どもであるという可能性を捨ててはいません。実際に裕子の腹からはい出したあの子どもも、順当に育っていれば紺野と同じ十六歳。自分の出自を隠すために、もう一人の能力者の存在をにおわせながら、死んだ東順也になりすましている可能性は十分にあると、私は考えます」
その言葉に、京子の目に宿っていた、殺意に近い鋭い光が和らぐ。義虎はその反応を注意深く見とりながら、言葉を継いだ。
「あの男は殺すべきです。地下の会議室で見せたあの弱々しい態度も、全ては自分の素性を隠すための演技でしょうが、本人が殺してほしいというなら望み通り殺してやるべきです。私はずっとそう思っていました」
義虎を黙って見つめていた京子は、そこにきておもむろに口を開いた。
「彼が鬼子であるなら、魁然の血の成分も検出されてしかるべきです。それは全く見られませんでした。それについては、どうお考えですか」
「実際に、純化途上の交わりが起きたのはあれが初めてです。そういう結果になるのかもしれません」
「確かに、先例はありませんからね」
小さく頷いた京子の反応に勢いを得た義虎は、さらに語気を強めた。
「あの男をこのまま生かしておいても、われわれ一族には何の益もありません。五月二日の会合で、私は抹殺を提案するつもりです」
手元を見つめて黙っていた京子は、数刻の間ののち、静かに口を開いた。
「魁然総帥の仰ることも、確かに理があります。賛同する一族の者も多いでしょう。ただ、もし万が一彼の言うとおり、彼が東順也の生まれ変わりだったとしたら、われわれ神代一族は、不祥事に巻き込まれて不運な死に方をした同胞を、またも見捨てて見殺しにしてしまうことになる。それだけは、何としても避けたいと私は思っています」
京子が強調するように口にした「不祥事」という言葉に、義虎の頬がぴくりと震える。その不祥事を起こした第一義的責任は、裕子――魁然一族の側にあるのだ。痛いところを突かれて言葉を見失っている義虎をしり目に、京子は畳みかけるように言葉を継いだ。
「私が気になっているのは、あの男が二度も玲璃さんを助けたということです。しかも一度は、玲璃さんだけでなく、滝川という一般人も助けています。その時、彼は瀕死の重傷を負っている。あの行動の意味は何なのでしょう」
義虎は鼻で笑うと、馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに首を振ってみせる。
「そのくらいしないと、われわれや玲璃に信用されないと思っているのでは? 実際、私は信用していない」
「玲璃さんに取り入るためであれば、滝川という男など放っておけばいいはずです」
京子はゆっくりと顔を上げ、言葉に詰まった義虎をまっすぐに見据える。
「私は、もう少し時間をかけて見極めるべきと思っています。少なくとも、遺伝子検査の結果が出るまでは性急に粛清などするべきではない。バグも仕掛けてあることですし、あの男の命はすでにこちらが握っています。であれば、あの高い能力をこちらに都合よく利用ことだって可能なのですから」
「……利用?」
その言葉の意味するところが理解できず、怪訝そうに眉根を寄せる義虎を尻目に、京子は言葉を継いだ。
「エレベーター事故の時、それから生徒会室の時、どちらも相当に強力な遮断がかけられていました。それを突き破るほどのエネルギーは、亨也さんでも持っているかどうか。あの人は微細な念動力は得意ですが、大きな能力発動は苦手ですから。加えて、鬼子の出現を敏感に感じ取ることもできる。魁然さんの言うとおり、紺野が鬼子自身であったら確かにそれも当然なのですが、先日の病院での騒動……あの時も紺野は重傷を負いましたが、自分で自分をやったとはとうてい思えない傷でしたね。寺崎さんも、クマの中には確かに誰か別の人間がいたと証言しています。私は、彼が鬼子ではない可能性の方がはるかに高いと思います」
京子は言葉を切ると、もの言いたげに唇を震わせている義虎をまっすぐに見つめた。
「そして、鬼子でないとするなら、彼は東順也の可能性が高い。東順也は、過去に事件に巻き込まれて不幸な死に方はしましたが、れっきとした神代一族の一員です。であれば、生まれ変わった経緯や出自ははっきりしないまでも、神代側の護衛として、玲璃さんの身の安全を守らせることもできるのではありませんか?」
思ってもみなかったその提案に、義虎は血走った目を大きく見開き、しばしぼうぜんと京子を見つめていた。
「……あの男を玲璃の護衛に? ご冗談を!」
震える声で絞り出すように呟いた義虎を尻目に、京子は席を立った。
「私は五月二日の会合で、その提案を皆さんにするつもりでいます。玲璃さんと亨也の結納、結婚の見通しに関しては、先ほど話した内容で進めていくことで構いません。具体的な日程に関しては、後日改めて相談いたしましょう。実は、もう会議の時間になっておりますので、急いでそちらに行かなければなりません。申し訳ありませんが、これで失礼させていただきます。……では」
義虎の返答を待たずに一礼すると、京子は扉を開け、振り返りもせず院長室を出て行った。
ぼうぜんとその扉を見つめていた義虎は、落ち着こうとでも思ったのだろう、コーヒーカップに手を伸ばした。だが、その右手は怒りでわなわなと震え、とてもカップを持てる状態ではない。
義虎は震える右手を黒檀のテーブル上に置くと、何を思ったのか突然左手の拳を振り上げ、それを右手に思い切り叩きつけた。テーブルが真っ二つに割れるかと思うほどの音が、応接室の静寂を切り裂いて響く。
真っ赤に腫れ上がったものの何とか震えが収まった右手でカップを持つと、義虎はすっかり冷めたコーヒーをすすった。
――あの男を玲璃の護衛に? 冗談じゃない!
沸き上がる憤怒を抑えきれず、肩で息をしながら奥歯をきつく噛みしめる。
義虎も、紺野が鬼子だとは思っていない。彼は東順也だと確信している。だが、だからこそ許せなかった。義虎にとって東順也は、裕子を抱き、あんな化け物を孕ませ、殺した犯人でしかない。どんな経緯があろうが、どんな出自であろうが、絶対に許せなかった。この手で息の根を止めてやりたい。紺野が東順也だと分かったときから、義虎はずっとそう思っていた。
あの地下室で、殺してほしいと紺野が懇願したあのとき。義虎は本当に殺してしまいたい衝動を抑えるのに必死だった。玲璃が紺野に近づくのを止めたのも、あの男がまた裕子のように玲璃を奪っていくのではないか……そんな不安をぬぐい去れなかったからだ。
義虎はいつも玲璃の中に、裕子の面影を見ている。初めて抱いた夜の、彼女の震える、白い躰を思い出す。本当に愛した女だった。だからこそ、彼女の悲しみをくみ取りきれなかった自分が歯がゆく、そして、彼女を奪った東順也が憎かった。
絶対に、あの男を玲璃には近づかせない。そのために、一刻も早くあの男の出自を暴かなければ。義虎は堅く心に誓うと、また一口、冷めたコーヒーをすすった。