4月29日 1
4月29日(月)
「おはようございます、父様」
義虎は驚いたように読んでいた新聞から顔を上げた。
今日は祝日だ。昨日はあんなこともあったことだし、朝が弱い玲璃のこと、十時過ぎくらいまでは寝ているだろうと思っていたのに、時計の針はまだ七時をさしている。義虎は玲璃の顔をまじまじと見つめた。うっすらと目の下にはくまができている。背筋を伸ばして正座しているその姿にも、思い詰めているような雰囲気が漂っている。
「休日だというのに珍しく早いな。昨夜はちゃんと眠れたのか?」
玲璃は、静かに口を開いた。
「一晩じっくり考えたことがあります。聞いていただけますか?」
義虎は新聞をたたんで脇に置くと、玲璃に向き直った。
「退学のことです」
義虎は黙って玲璃の目をじっと見つめる。玲璃はそんな義虎のまなざしをまっすぐに受け止めながら言葉を継いだ。
「結婚を早めること自体は、構いません。実際に危険なことが起きていますし、一族が必要と考えるのであれば、私は従います。ですが、学校に通い続けることだけは認めていただきたいです。お願いします」
義虎は深いため息をつくと、首を横に振った。
「その話は、すでに結論がでていたはずだ。学校で、おまえの身の安全を守れる護衛をつけることが……」
「新たな護衛の必要はありません。自分の身は、自分で守ります」
「それも言ったはずだ。おまえは実際……」
「訓練を再開します」
義虎は言いかけた言葉を飲み込むと、まじまじと玲璃の顔を見つめた。
「幼少時に拒否した無酸素行動訓練を含め、学業に集中するために停止した武術と身体機能向上に関わる全ての訓練を再開します。平日は早朝と帰宅後、各二時間ずつ。これを勉強と両立します。食事量も徐々に増やして、能力のキャパを上げます。コントロールのための触覚機能向上訓練は、学校の休み時間などを利用して行います。こうした訓練を再開することで、自身の能力を高め、護衛がなくとも十分に身を守れる体力と技術を身に着けるつもりです」
とうとうと玲璃が説明する間中、義虎は目を丸くして言葉を失っていた。
玲璃は幼い頃こそは、武闘訓練や身体機能向上訓練にそれなりに意欲的に取り組んでいた。大人の男性にまじって稽古を行っていたせいか、彼らの話す言葉を耳で覚え、男言葉を話すようにもなった。しかし、長ずるにつれ、自分が他の女の子たちと明らかに違う生活を送っていることに気づき、それを恥ずかしく思うようになった。身に染みついた男言葉は結局最後まで抜けなかったが、中学に上がる際、「勉強に集中したい」という理由で全ての武道の稽古を辞め、食事量を限界まで減らし、能力のキャパを可能な限り小さくして、「普通の女の子」を目指すようになった。稽古を行わない代わりに始めた勉強の面白さに夢中になり、数学が好きになりもした。
そんな玲璃の意向を、義虎はできるだけ尊重して育ててきた。彼自身は男だったため、能力にも稽古にも忌避感を覚えることはなかったが、玲璃は女の子だから荒々しい稽古を嫌がるのも仕方がないと姉である珠洲に言われれば、そういうものかとその意向を汲んできた。複雑な出生と重い宿命を背負わせてしまっている負い目もあり、せめてそのこと以外の部分では自身の意向に沿った生き方をさせてやりたいという、義虎のささやかな親心だった。
そんな玲璃が、訓練を再開するという。自分の身を守るために食事量も上げ、コントロール訓練も再開すると。何が起きても対処できるよう自身の能力を研ぎ澄ましてほしいということは、義虎がずっと心ひそかに抱き続けてきた願いでもある。義虎は興奮を落ち着けつつ、できるだけ平静を装って問いを発した。
「……訓練を始めても、身体機能が向上するまでにはいくらおまえでもタイムラグがあるはずだ。能力の向上が十分でない間は、どうするつもりだ?」
「数日は仰る通り能力が低い状態で通学せざるを得ないと思います。ただ、今日から連休が始まりますから、早速、必要な訓練を始めるつもりです。連休中に集中的に多くの訓練をこなせば、それだけ能力向上も速いでしょう。連休を有効活用して、連休明けには通学に最低限必要な能力を身に着けられるよう、最大限努力します」
前向きで意欲あふれるその回答には、十分に説得力がある。驚きを覚えつつ、義虎は玲璃の顔を探るように見つめた。
「……おまえは、女の身でありながら高い戦闘能力を保持することをあれほど嫌がっていたはずだ。なぜ、突然宗旨替えをした?」
「学校に行き続けたいからです」
玲璃はにっこり笑ってそう言うと、少しだけ目線を落とした。
「私はこれまで、自分自身の運命から目をそらし、見ないようにして逃げ続けてきました。でも、そういう体に生まれ、そういう運命を背負って生まれてしまったことからは、どんなに目をそらそうとも逃げようがない。どうせ逃げられない運命なら、目をそらさずに向き合って、それを可能な限り手中に収め、自分の目的のために存分に利用するべきだと考え直したんです。幸い、私には魁然一族が培ってきた能力制御のノウハウも、父様という最高の師もあります。このアドバンテージを生かさない手はありません。私は、これからは使えるものは何でも使って自身の能力を伸ばし、手に入れたいものは自分自身の力で貪欲に手に入れていきたいと思っています」
義虎はしばらく、娘の意思のこもった瞳をじっと見つめていたが、ややあって、満足げにうなずいた。
「……おまえの要求を認めよう」
玲璃は目を大きく見開いて顔を上げると、優しくほほ笑む父親の顔を見つめた。
「それにしても、ここまでしっかり対処を練り上げてくるとはな。先ほどおまえが私に言ったことを全て完璧に実行するのなら、おまえの要望通り、高校への通学は認めよう。ただし、懐妊するまでの間だ。高校に行きたいがために、懐妊を遅らせるようなこともしてはならん。いいな」
大きく見開かれた玲璃の目は見る見るうちに輝きを増し、やがてまばたきとともに大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとうございます、父様!」
「終わりではないぞ。これが始まりだ。取り組みの様子は常にチェックをするし、どれだけの成果が出せたか、通学を続けても大丈夫なレベルに達したかどうかは私が判断する。訓練メニューも、一度私にチェックをさせろ。無駄な訓練に時間を割いても仕方がないからな」
「はい、もちろんです。チェックしていただくつもりでいました。よろしくお願いします!」
義虎に深々と頭を下げながら、玲璃は心の中で、あの男にも礼を言っていた。そう、……紺野秀明に。
紺野の壮絶な過去。あれに比べれば、自分ははるかに幸せな境遇にあると思い知った。確かに他者に比べれば複雑で窮屈な環境でも、自分の意志次第で十分に新たなチャンスを切り開くこともできるし、自分の力を生かすこともできる。それに気づけたおかげで、これだけの提案を行い、通学のチャンスを手に入れることもできたのだ。
――ありがとう、紺野。
だが、思い出して少し胸が苦しくなった。彼は今頃、どうしているのだろう……。
☆☆☆
「まったくもう、ほんっとに、なんてことをしてくれたんだか……」
丸椅子に腰かけた沙羅はブツブツ呟きながら、血みどろの室内にちらりと目線を流した。
蒼い輝きに包まれた沙羅の手に包まれているのは、ざっくり切れて骨と腱が露出した紺野の左手だ。血だらけの病院服もそのままにベッドに横になっている紺野は、その言葉に申し訳なさそうに身を縮めた。
「本当に、申し訳ありません……」
「謝ってすむなら警察も医者もいらないっての。全く、朝の回診で病室に来てみたら、部屋の真ん中に血みどろの患者がぶっ倒れてた医者の身にもなってよ。マジで死んじゃったかと思って、寿命が三年は縮んだわ」
「すみません……部屋がすごい事になってるのに気が付いて、掃除をしようと思ったんです。そうしたら、そこで意識がとんでしまって……」
「あー、だからそこにモップが転がってるわけね。全く……リスカじゃ死ねないなんてこと、あんたならわかってるでしょ。この病院で余計なことはしないで。他にもたんまり仕事があるのに、面倒くさいったらありゃしない」
プンプン怒りながらも、沙羅の蒼い気は緩やかならせんを描きながら紺野の傷を修復し続けているらしい。もう内部の修復は終えているらしく、出血は完全に止まっていた。
「すみません。本当に、なんとお詫びをしたらいいか……」
恐縮しきった様子で身を縮める紺野の様子にため息をつくと、沙羅は苦笑混じりに肩をすくめた。
「……まあ、そういう悪い癖があるってわかっていながら、病室にカッターなんか置き忘れた私も悪かったから痛み分けってことで、後遺症が残らないようにきっちり治してあげる。神経もきれいにつないであげたから安心して」
「あ……いえ、別に、動かなくてもいいので……」
「そういう訳にはいかないの。あんたが病室で自殺未遂したなんて総代に知れたら、私の方がヤバいんだから。今回の件は絶対に他の誰かに言っちゃダメ。いいわね」
高圧的な物言いに押されて紺野がおずおずと頷くと、沙羅はあらためて傷に目をやり、表情を曇らせた。
「しっかし……ここまで思い切って切ったら、確かにマジで死んでた可能性はあったかもね。動脈も傷ついてるし、左手首が飛ぶ勢い。何かあったかは聞かないけど、相当出血したみたいなんで、血圧も下がってるし頻拍にもなってる。あとで輸液はするけど、血は大切にしなさいよ。あんたはとりあえずわれわれ一族にとってはまだ味方でも仲間でもない。あんたがもし輸血が必要な状態になったとしても、輸血できないんだから」
怪訝そうな表情で自分を見た紺野を、沙羅はちらりと横目で見た。
「われわれ一族の血液って特殊でね。一般人には絶対に輸血できないの。もっと言うと、結婚もできないんだけどね。血族内でも、近い親等……そうだな、だいたい五親等くらいの血族の間でないと拒否反応を起こして死んじゃう場合があるの。その原因はずっと科学的に探ってて、どうやらわれわれの血に特有のある成分の濃さが関係しているらしいんだけど、正確なことはまだ研究途上で、完全にはわかっていない。だから今のところは、輸血なんかを行うときは、五親等以内の血族が協力するならわしになってる。でも、あんたがどこの血統に属しているかは十六年前の遺伝子検査では明らかにされなかった。今回、新たに行った検査も、二カ月後でなければ結果は出ない。つまり、あんたが今大出血したとしても、輸血が可能な相手が誰だかわからないから、放置されることになるよって言ってるの。了解?」
何のことだか理解しきれない様子で固まっている紺野を見て困ったように笑うと、沙羅は紺野の左手首を包み込んでいた手を離した。
「はい、できあがり。どう? 問題なく動くでしょ」
紺野は左手を握ったり開いたりしてみてから、感心しきったようにため息をついた。
「……すごいです。ありがとうございます」
「じゃあ、あとはお部屋の掃除かな」
沙羅がそう言って丸椅子から立ち上がると、紺野は慌てた様子で起き上がろうとした。
「あ、大丈夫です。掃除は、僕が……」
紺野がそう言いかけた、刹那。
軽く差し上げた沙羅の人差し指から流れ出した蒼い気が部屋全体に満ちたかと思うと、次の瞬間、床や壁に飛び散っていた血痕が、一瞬で全て消失したのだ。
「……!」
何事もなかったように白く清潔な輝きを放つ病室内をあっけにとられて眺めている紺野に、沙羅はつかつかと歩み寄ると、今度はその襟首をつかんだ。
「じゃあ次はこっちね」
沙羅がそう言った途端。紺野の体全体を蒼い輝きが包み込んだ。思わず目を閉じた紺野が恐る恐る目を開くと、病院服に飛び散っていた血痕も、シーツについた血痕も、全てがきれいさっぱり消えている。紺野は息を飲み、大きく目を見開いた。
「はい、これで完了。なにごともありませんでしたということで」
放心したように自分を見上げている紺野に気づくと、沙羅は困ったように笑った。
「なに? このくらい、やろうと思えばあなただってできるはずでしょ」
紺野は慌てたように首を振る。
「……いえ、僕は、こんな使い方をしたことは」
沙羅は小さく息をついて肩をすくめた。
「この能力が破壊とか殺りくのためだけにしか使えないと思ってるとしたら、とんでもない思い違いだからね。実際、私たちはこの力を医療と併せて人の命を救うために使ってる。バカとハサミは使いようって言うけど、能力も同じ。有効に使おうと思えばいくらだって使えるし、悪用しようと思えばいくらだってできる。要は、「どう使うか」。目的さえしっかりしていれば、この力は案外便利だし有用なのよ。覚えておきなさい。じゃあね」
そう言って笑顔で手を上げて病室を出ていく沙羅を、紺野は半ばぼうぜんと見送っていた。