4月28日 2
「三十七度四分。たいぶ下がったわね」
回診でやって来た沙羅が、記録を見てほほ笑んだ。
窓の外はまだ薄明るいが、病院は既に夕食の時間である。紺野はベッドを起こして夕食をとっている最中だった。熱が下がったとはいえ本調子とは程遠く、食欲も今ひとつで、まだ三分の一ほどしか食べ終わっていない。が、頬には健康的な赤みが差し、顔の腫れも引き、青あざもずいぶん薄くなって、体調の好転が感じられた。
「足の方も、ここのところずっと安静にしていたからだいぶいいようね」
沙羅は食事の手が止まっている紺野の箸を取ると、野菜の煮物をひとつとって「はい」と紺野の口もとに差し出した。それがあまりに自然だったため、思わず素直に口を開ける紺野。
「あとはできるだけ食べられるものを食べて、体力を回復しなさい」
沙羅は天使のような笑顔でそう言うと、煮物をほおばっている紺野を残し、病室を出て行った。
紺野はやっとのことで口の中の煮物を飲み下すと、息をついた。が、確かに沙羅の言うとおり、早く体力を回復しないことには入院が長引いてしまう。日に日にかさむ入院費用のことはずっと気になっていたため、言われたとおり、食べられるものは食べようと素直にがんばる紺野であった。
とはいえ、半分くらいまでがんばったところで吐き気が出てきてしまった。これ以上は無理だと判断し、お膳を下げに廊下に出る。松葉杖なしでも短い距離ならなんとか歩けるようになった。が、まだ痛みはあるので、ゆっくりと進む。
下膳車に食器を置こうとした紺野は、ふと、エレベーターホールの前あたりに立ち、じっとこちらを見ている人物の姿に気がついた。何気ない私服姿の、ナチュラルなウェーブを生かしたショートボブがよく似合う、すらりとした女性……。
紺野はすぐに誰だか分かった。息を飲むと、あわてて目線をそらす。彼女と接触することは禁じられているのだ。紺野は食器を置いて踵をかえすと、自分の病室にできるだけ急いで戻ろうと足を速める。が、なにぶん負傷中の身ゆえ、たいしたスピードは出せない。
「紺野」
焦る紺野の背後から、彼女の声が追いかけてくる。聞こえないふりで足を速め、病室の扉に手をかけた。刹那、背中に追いすがるように、彼女の声が響いてきた。
「……紺野」
その声がかすかに湿りを帯びている気がして、違和感を覚えた紺野は思わず振り返り……目を見開いて動きを止めた。
廊下の真ん中に立ち尽くしている彼女――玲璃の目から、涙がこぼれ落ちていたのだ。彼女が瞬きをするたび、長いまつげに押し出された涙が、つややかな頬を転がり落ちていく。
予想外の事態にどうしていいかわからず、扉に右手を伸ばした姿勢で固まっている紺野に、玲璃はゆっくりと歩み寄ってきた。紺野の目の前に立つと、玲璃は震える声を絞り出す。
「……聞きたいことがある」
紺野は観念したのかドアを開けようとした手を離し、玲璃に向き直った。
伏し目がちな紺野の長い睫毛を見おろしながら、玲璃はささやくように問いかける。
「おまえは……やりたいことは、あるか?」
紺野は顔を上げると、そう言ったきりしゃくり上げている玲璃の顔を、困惑しきったような表情を浮かべて見つめた。
☆☆☆
夕刻の面会室には低い角度からオレンジ色の斜光が差し込み、長椅子の端に腰かけている玲璃の足元を温かく照らしている。
紺野はその長いすのもう一方の端に、玲璃と相当に距離を置いて座っていた。
紺野は自分の膝のあたりに目線を落としているのだが、ときどきちらりと横目で反対側の端に座る玲璃に視線を送る。玲璃は相変わらず、肩を震わせてしゃくり上げて続けている。そうしてもうずいぶん長い間、二人は椅子の両端に黙って座っていた。
――いったい、何があったんだろう。
戸惑いながら、紺野は涙を落とす玲璃をちらりと見やる。
玲璃はしゃくり上げながら、しきりに目元を細い指で拭っている。長い睫毛についた涙の滴が、夕刻の斜光を反射して小さな光を放っている。形のよい唇が、しゃくり上げる度に微かに震える。
『あの男は、わたしのことなんか愛していなかった! わたしはあの男に、子どもを産む道具として利用されただけだったのよ!』
突然その横顔に、そう叫んで泣き崩れたあの時の裕子の顔が重なり、紺野は心臓が縮み上がる心地がして息をのんだ。あわてて玲璃の顔から目をそむけ、足元に目線を落とす。
と、紺野の視線を感じたのか、玲璃がしゃくり上げながらぽつりと口を開いた。
「悪かったな……」
戸惑いがちに目線を上げた紺野に、申し訳なさそうに頭を下げる。
「私と会っていることがわかると、おまえもまずいことになるかもしれない。すまない。迷惑をかけてしまうかもしれない」
紺野は小さく首を横に振ると、遠慮がちに口を開いた。
「どうしたんですか」
玲璃は勢いよく顔を上げると、目を丸くして紺野を見つめた。
「……初めて聞いた」
「え?」
「おまえの、声」
きょとんとしている紺野に、玲璃はようやく笑顔を見せた。
「私に話しかけてくれたの、初めてだろ」
「……そうでしたか?」
「そうだ。いつも私ばっかり話してて……よかった。おまえ、話せるんじゃないか」
紺野もいくぶん柔らかい表情になる。
「すみませんでした」
「謝らなくていい。しゃべってくれて、嬉しいんだ。ありがとう」
そう言って頭を下げ、にっこりと笑った玲璃と目があった瞬間。つま先から頭頂まで一気に駆け上がる戦慄めいたあの感覚。顔にこそ出さなかったが、紺野は思わず息を詰めた。
――何だろう、この人は……。
裕子の時に感じたあの感覚と、それはとてもよく似ていた。どころか、感覚の強さはそれ以上かもしれない。紺野はあわてて玲璃から目を逸らすと、呼吸を整えた。
そんな紺野の様子に気づくこともなく、玲璃は目線を落として語り始めた。
「実は私、もうすぐ結婚するんだ」
「え……」
あまりに唐突なその発言に、紺野は目を丸くして言葉を失った。玲璃は独り言のように言葉をつづける。
「生まれたときからそう決められていたから、納得はしていた。高校卒業までは待ってもらえる約束だったしな。でもこのところ、変なことがたて続けに起きているせいで、結婚の時期を早めたほうがいい、高校も、辞めた方がいいだろうって……」
玲璃は声を詰まらせると、にじんできた涙をぬぐった。
「私は、もっと数学を学びたい。大学にだって行ってみたい。でも、この結婚は私に課せられた使命だから、最優先しなきゃならない。この使命が重いことはわかっているし、従わなきゃならないのもわかってる。でも、どうにも、やりきれなくて……せめて高校だけでも、卒業できたらって……」
紺野はかける言葉が見つからなかった。彼女の言った「変なこと」の原因は、もしかしたら自分にあるのかも知れないのだ。
と、玲璃がふいに顔を上げて紺野を見た。紺野は慌てて顔をそむけて目線を逸らす。
「紺野、おまえのやりたいことって、なんだ?」
唐突に投げかけられた異次元の問いに、紺野は目を丸くして固まるしかなかった。今まで一度たりとも、そんなことは考えたこともなかった。自分は存在していていいのか、生きていても許されるのか、考えるのはそんなことばかりだったのだ。
――やりたいことがあったとして、それをやってもいいんだろうか? そんなことが許されるのだろうか? 自分のような犯罪者に……。
紺野は目線を彷徨わせながら、呟くように言葉を返す。
「それは、まだ……」
「そうか、そうだよな。まだ一年生だもんな。見つからなくて当然だよな。私は、数学なんだ。もっと数学を学びたい。数学の知識が生かせる技術職でも、研究職でも、そういう職業につければ最高なんだ。まあ、それはかなわぬ夢だったとしても、せめて高校の内容くらいは学び終えたい。そのために、私にできることがあるなら、なんだってするつもりだ」
玲璃は独り言のように言葉を継いだ。改めて言葉にすることで、自分の考えをまとめているふうだった。夕日を受けてきらきらと輝くそんな玲璃の横顔を、紺野はまぶしそうに見つめていた。
「私にできること……今の私に、足りていないこと……」
なにを思いついたのか目を見開くと、玲璃は長椅子から立ち上がった。両手を頭の上に高く差し上げ、「うーん」と思い切り体を伸ばす。
「よかった。何をすべきか見えた気がする」
あっけにとられたように自分を見上げている紺野にくるりと向き直ると、玲璃は吹っ切れたような笑顔でにっこりと笑いかけた。
「ありがとう、紺野」
有益な助言をしたわけでもなく、ただ隣に座っていただけの紺野的には、何に対して礼を言われているのかさっぱりわからないらしく、困惑したような表情を浮かべている。玲璃は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「ごめん、勝手に自己解決して。でも、たぶん、誰かに話を聞いてほしかったんだ。一人で考えていても、グルグル同じところを巡ってるだけで、なかなか先に進まなかったから」
紺野がおずおずと口を開きかけた、その時だった。
「玲璃!」
静かな病院の廊下中に響き渡る、深いバリトン。聞き覚えのあるその声に、玲璃ははっと廊下の方に顔を向けた。
「……父様!」
そこに立っていたのは、魁然義虎だった。自宅を飛び出して探し回っていたのだろうか、彼にしては珍しくラフなポロシャツ姿に、サンダルを突っかけた状態だった。
「突然、家から姿が見えなくなって、まさかと思って来てみれば……こんなところで何をしている⁉」
義虎は病院中に響き渡るような大声で言うと、長椅子の端に座っている紺野に気付き、驚いたようにその目を見開いた。見る見るうちにその表情が強ばり、引きつるように頬がピクピクと痙攣する。玲璃は慌てて長椅子から立ち上がると、紺野をかばうように義虎の前に立った。
「すみませんでした、父様。彼は私が呼び出したんです。悪いのは私です」
義虎は、寺を守る仁王像さながらの恐ろしい目で玲璃を睨み下ろす。
「この男に会ってはならないと、あれほど言っておいたはずだぞ。いったい何の用があったというのだ? この男がどういう人間だかわかっているのか!?」
玲璃は義虎の視線の圧力から逃れるように目線を落とした。
「どういうって……彼は私を助けてくれました。悪い人だとは……」
怒りに震える義虎の頬の内側から、奥歯が軋む鈍い音が響く。玲璃は言葉を飲み込んだ。
義虎は、長椅子の端で黙って俯いている紺野を真っすぐに指さすと、爆発する感情を抑えきれないように叫んだ。
「こいつは人殺しだ!」
玲璃は驚きのあまり目を見はり、呼吸を止めて義虎を見た。それから、その目をおずおずと長椅子の端に座る紺野に移す。
紺野は何も言わなかった。身動きひとつしなかった。ただ、膝のところで堅く握りしめている手が、微かに震えているようだった。
「……うそ」
「本当だ。ウソだと思うのなら、こいつの記憶、話したことをすべて、沙羅くんに送信してもらおう。子どもに見せる内容ではないし、おまえに知らせるべきではないと思って伏せていたのだが、こんなに無防備に近づいているとなると危険だ。……しかも」
義虎は唇を震わせながら、憎悪の滾る血走った目で紺野を睨み付けた。
「しかもこいつは魁然の女と関係して、その女を死に至らしめたんだ!」
そう叫ぶと、義虎は唇の端を引きつらせながら玲璃の方に向き直る。
「その女が誰だと思う?」
玲璃は瞬きすら忘れ、凍り付いたように義虎を見ている。義虎は、吐き捨てるように叫んだ。
「魁然裕子……おまえの産みの母親だ!」
薄暗い廊下に反響するその名を、玲璃はぼうぜんと聞いていた。