4月27日 2
廊下を歩きながら、沙羅は腕時計に視線を走らせる。一時四十五分。診察が長引いて、随分と待たせてしまったようだ。
人のまばらな待合室の片隅に、みどりの姿はあった。みどりは沙羅の姿をみつけると、頭を下げて車いすをまわした。
「すみません、寺崎さん。診療が長引きまして」
沙羅が頭を下げると、みどりはとんでもないというように首を振ってみせた。
「こちらこそ、お忙しいのに申し訳ありません。お昼ごはんを食べながらで構いませんので、少しだけお時間をいただけるとありがたいです」
沙羅はお弁当を手に、みどりと連れ立って面会室に入った。車いすが止められるように椅子を外してスペースを空けてから、向かい側の窓際の席に座る。みどりは小さく会釈をすると、そのスペースに車いすをとめ、買ってきた飲み物をテーブルに置いた。
「で、ご用件というのは?」
お弁当の包みを開きながら沙羅が問うと、みどりはためらいがちに目線を泳がせてから、思い切ったように顔を上げた。
「この病院に、……紺野という男がいると聞きました」
ある程度予想していたのか、沙羅はうなずいた。
「ええ。息子さんからお聞きになりましたか」
みどりは頷くと、言葉を選んでいるのか、ゆっくりとあとを続けた。
「先日その男が、自分の過去について語ったそうですね。息子が、その内容を送信してもらったと教えてくれて……今日、こちらに伺ったのは、その内容を、ぜひ私にも送信していただきたいと思ったからなんです」
沙羅は箸を止めると、俯き加減のみどりの顔をまじまじと見つめた。
「あのことを、……ですか? いえ、お見せすること自体は問題ないと思いますが……」
みどりはその言葉にパッと顔を輝かせた。
「本当ですか? ありがとうございます」
「ですが、正直言って……見ない方がいい内容だと思いますよ」
みどりは口をつぐむと、じっと沙羅の顔を見つめる。沙羅はその目線から逃れるように机の右端に視線を流すと、言いにくそうに言葉を継いだ。
「映画で言えば、R18を超えているというか……裁判員裁判制度で、凄惨な事件概要を見せられて心身に悪影響を受けてしまう方がいらっしゃいますが、あれは、そういう内容を凝縮して煮詰めて凶悪さを十倍増ししたような感じです。ましてや、寺崎さんは倒壊事件の直接的な被害者です。受ける精神的悪影響は計り知れない」
「見せていただきたいんです。お願いします」
「でも、寺崎さんは確か能力をお持ちではない、普通……の方、なんですよね」
みどりが黙り込むと、沙羅は諭すように言葉をつづけた。
「あの内容を伝達するには送信能力を使用しなければなりませんが、普通の方が送信を受けとると、頭痛や吐き気、その他何らかの身体症状が出る恐れがあります。後遺症の心配もゼロではありません。わざわざそんな思いをしてまで、あんな内容をご覧にならなくても……」
みどりは一片の迷いも感じられない、決意のこもった目で真っすぐに沙羅を見た。
「あのとき何があったのか、私はどうしても知っておきたいんです。お願いします」
自分を見つめるみどりの強いまなざしに気おされたように黙りこむと、沙羅は観念したように鼻でため息をつき、頷いた。
「……分かりました。先日彼がわれわれに見せたこと、話したことを、割愛せずにそのままお伝えします」
そう言うと沙羅は、テーブルの上に置かれたみどりの右手に自分の左手を重ねた。皮膚を触れあわせて思念を伝える接触送信が、とりあえず体には一番負担の少ない方法だからだ。
沙羅は目を閉じると、静かに意識を集中し始めた。
☆☆☆
神代亨也は消毒を終えるとガーゼをあて、包帯を巻き直し始めた。
回診の時間だった。今のところ紺野には、看護師をつけていない。彼の正体がはっきりしていない以上、普通の人間を近寄らせるとどんな危険があるか分からないからだ。故に普段は看護師がやるような処置も、医師である沙羅か亨也が行わなければならない。脳外科や整形外科など、本来なら別の診療科が担当すべき外傷を全て心臓外科医の享也が担当しているのも、そういう理由だった。
包帯を巻きながら、亨也はふと、俯いている紺野の顔に目をとめた。
伏し目がちの目に際立つ長い睫毛。通った鼻筋に、こころもち白い肌。茶色い髪が包帯を巻く度にさらさらと亨也の手の甲をくすぐる。
自分たち一族の特徴がはっきりと見て取れるその容貌を眺めやりながら、亨也は昨日の京子の様子を思い出していた。
『あの男、私に似ていますね』
享也の言葉に、京子はほんの一瞬その手を止めたが、それだけだった。さしたる動揺もなく、すぐにいつも通りの冷静な京子に戻った。だが、享也にはそのほんの小さな変化が、彼女の内心の大きな動揺を示しているような気がして仕方がなかった。
――私以外の子ども、か。
改めて言葉にしてみても、笑えるほどの在り得なさだ。荒唐無稽すぎる。バカバカしい妄想に近い。第一、その可能性は十六年前に科学的に否定されている。もし仮にそんな者が存在したとして、神代一族の目を盗んで、いつ、どこで生まれたというのか。いくら考えても、「不可能」という結論しか見えてこない。
だが、こうして間近で彼の姿を見ていると、自分との共通性ばかりが目について頭の中がゴチャゴチャしてくる。だいいち、目の前にいるこの男は自分のことを「東順也の生まれ変わり」だなどと、享也の妄想をはるかにしのぐ異常な主張をし、今のところその主張が覆されるどころか、能力にしろ記憶にしろ、それが事実としか思えないような証拠ばかりが積みあがっているのだ。あり得ない現実を見せつけられるにつけ、「不可能」を可能にする何かがあるのではないか、そんな思いがムクムクと頭をもたげてくる。
亨也が完全に手を止めて考え込んでいたので、紺野は訝しげに顔を上げた。紺野を見つめていた亨也の目と、紺野の目がしっかりと合う。紺野は驚いたように目を丸くすると、慌てて目線を逸らした。
亨也はきまり悪そうに笑うと、頭を下げた。
「すみません。考え事をしていて」
再び包帯を巻き始めながらそう言った亨也に、紺野は小さく首を振ると再び足元に目線を落とした。
亨也は包帯を巻きながら、不意にこんなことを口にした。
「よかったですね、熱がだいぶ落ち着いてきて」
紺野は戸惑ったようにちらりと亨也に目線を流す。亨也が事務的な質問や体調を尋ねる以外のことで話しかけてきたのは、これが初めてだったからだ。紺野はおずおずと頷くと、遠慮がちに答えを返した。
「おかげ様で……。ありがとうございました」
亨也は首を振ると、くすっと笑う。
「寺崎さんも、これで安心するでしょう」
寺崎の名を聞いて、紺野はハッとしたような表情を浮かべた。亨也は包帯止めを手に取りながら、そんな紺野を探るように見やった。
「先日、鬼子に襲われた時……あなたは確か、呼び出されたんでしたよね、あの子どもに」
紺野は俯いたまま、小さく頷いた。
「どうしてあの時、寺崎さんがあなたと一緒にいたんですか? 聞こう聞こうと思っていたんですが」
紺野は微かに眉根を寄せて考え込むような表情をしていたが、ややあって、遠慮がちに口を開いた。
「……分かりません。急にあの人が二階から飛び降りてきたんです。僕はあの人に能力耐性があるのを知っていたので、思わず送信してしまったんですが……よく考えたら、どうしてあの人がああいう行動にでてくれたのか、不思議です」
紺野はそう言うと、膝の上で組んでいる手元を見つめた。
「あの人にとって、僕は加害者です。その加害者に対して、どうして……」
亨也は医療器具を片付けながら、頷いた。
「そう言われれば確かにそうですね。あの人は、あの事故で父親を亡くしている」
そう言うと、器具を片付ける手をとめて紺野を見やる。
肩をすぼめて縮こまり、じっとうつむいて動かない紺野。自らが犯した罪の重さに耐えきれず、今にもつぶされかけているようにも見える。
ややあって亨也は、苦笑めいた笑みを浮かべて肩をすくめた。
「寺崎さんにしても、沙羅くんにしても、あなたに興味があるんでしょうかね」
紺野は怪訝そうに顔を上げて亨也を見やる。亨也は紺野を見下ろしながら、いくぶん低い声で言葉を継いだ。
「私も、あなたにはかなり興味があります」
亨也は立ち上がると、ハッとしたように目を見開いた紺野に小さく頭を下げた。
「このあと手術が入ってますので、そろそろ失礼します」
「……ありがとうございました」
あわてて頭を下げた紺野に軽く手をあげると、享也は医療器具の載ったワゴンを押して部屋の扉に手をかけた。が、そこで再び振り返ると、なぜだかそのままの姿勢で紺野をじっと見つめている。
その視線の重さに耐え切れず、紺野が怖ず怖ずと口を開いた。
「……何ですか」
「いえ。……すみません」
亨也は小さく頭を下げると、病室を出て行った。
☆☆☆
夕食の買い物を済ませて外出先から帰宅した寺崎は、首をかしげた。もう夕方だというのに、家の中が暗いままだったからだ。雨戸も閉まっていない。
――おふくろ、出かけるとか言ってたっけか?
不審に思いつつ家に入って電気をつけた寺崎は、ドキッとして動きを止めた。
みどりがいたのだ。薄暗い居間の仏壇の前に車いすがとまっている。眠ってはいないようだが、なんだか様子がおかしい。寺崎は、恐る恐る声をかけた。
「おふくろ? 今帰ったけど……」
みどりは仏壇に目線を向けたまま、小さい声で答えを返す。
「おかえり……ごめんね、紘。今日、ちょっと夕飯の支度、できていないわ……」
「あ、ああ、いいよ。俺がするから。どうした? 具合でも悪いのか?」
こういうことは年に何回かある。外出で体が疲れたり、古傷が痛んだりなどすると、みどりは動けなくなるときがあるのだ。そういう時は寺崎が代わりに家事をしている。するとみどりは疲れたような表情で笑い、小さく頭を振った。
「具合が悪い訳じゃないんだけど、……あ、母さん、ご飯いらないわ。ちょっと食べられそうにないから」
その返答でぴんときた寺崎は、大きく目を見開いた。
「おふくろ、もしかして……送信してもらったのか?」
みどりはゆるゆると寺崎の方に顔を向けると、力なく笑ってみせる。
「やっぱり頭痛がするわね、結構……。沙羅先生、気をつけてくださってたんだけど」
寺崎はため息をつくと、食品庫を開けて食材を探し始めながら苦笑した。
「中身が中身だからな。送信の影響だけじゃないだろ。俺もその日は食欲、うせた」
みどりは頷くと、再び仏壇に顔を向けて黒光りする位牌見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「母さん、会ってみようと思うわ……その人に」
寺崎は食品庫を探る手を止めると、息をのんで母親を見つめた。
「会って、見せてもらおうと思う。あなたが見るのをやめたこと、全部」
「……大丈夫か?」
みどりは寺崎を見ると、深々とうなずいた。
「また、頭痛はすると思うけどね。母さんも会ってみたいの、あなたが悪いやつとは思えないって言ってた、その人に。そして……」
いったん言葉を切ると、再び仏壇に目線を向ける。
「そして、けりをつけたいの。あの日突然起こったこと、全てに」
寺崎は食品庫に片手を突っ込んだ姿勢のまま、かける言葉もなくそんな母親を見つめていた。