4月27日 1
4月27日(土)
沙羅は早足で病院の廊下を歩く。仕事中はいつも早足だ。今日は午前中のみの診療だが、連休前と言うこともありあとからあとから仕事がやってくる。仕事に追いかけられている感じだ。
診察室の前まできた時、ふと、患者で混み合う廊下の向こうから、車いすの女性がやってくるのが見えた。沙羅はその女性に、何となく見覚えがあるような気がして目を凝らした。
――あの人、一族の集会で見かけたことがある。
沙羅は何となく、彼女が近づいてくるのを待つように足を止めていた。
その女性は予想通り沙羅の前まで来ると、丁寧に頭を下げた。
「神代沙羅先生でいらっしゃいますか?」
「はい、神代沙羅です。……失礼ですが、あなたは?」
「申し遅れました。私、魁然総代の護衛をやらせていただいている寺崎紘の母親の、寺崎みどりと申します。先日は息子がお世話になったそうで、ありがとうございました」
聞き覚えのあるその名に、沙羅は目を見開いた。
――……この人が。そうか、だから車椅子なのね。
沙羅はみどりに会釈すると、にこやかにこたえる。
「とんでもないです。息子さんも、護衛のお仕事を頑張っておられるようですね。今日はどうされましたか? 診療ですか?」
「いえ、あの……実は、沙羅先生にお聞きしたいことがあって参りました。今日、どこかでお時間をいただけないでしょうか。いくらでも待ちますし、三十分程度で構いませんので……」
沙羅はちらっと時計に目をやった。
「かなりお待ちいただくことになりますが、よろしいですか? このあと、十二時まで診療の予定になっていますが、恐らく一時過ぎくらいまではかかってしまうと思うので」
「もちろんです。ありがとうございます。待合室におりますので、先生の手が空いた時にお声をかけてください」
みどりはほっとしたような、それでいて微かな緊張を含んだ笑顔を浮かべると、沙羅に深々と一礼した。
☆☆☆
神代総合病院から電車で一時間ほどのところに、「藤代産婦人科」はあった。
駅から閑静な住宅街を抜けて十五分ほど坂道を上ると、昭和のものと思われる古びた看板がかかった個人病院が見えてくる。そこが、水野に紹介された産婦人科だった。
診察の終了した静かな待合室で待っていると、ややあって初老の女性医師が出てきた。珠洲は立ち上がって居住まいをただし、頭を下げる。
「お忙しいところ申し訳ありません。私は、魁然珠洲と申します」
女性医師は「魁然」の名を聞いた途端、ハッとしたように顔をこわばらせた。
「こんなところまで、わざわざご苦労さまです。私はこの病院の院長をつとめる、藤代加代と申します。……本家筋の方ですか?」
心なしか怯えたようなその物言いに、珠洲は目を見開いた。この人は、魁然神代の内部事情を知っている。となれば、適当なウソは使えないだろう。珠洲も緊張した表情で頷いた。
「はい。私は魁然総帥……魁然義虎の娘です。実は今、神代総帥……神代京子先生に関して極秘に調査の必要がありまして……お忙しいところ申し訳ありませんが、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
加代は不安げな表情を浮かべながらも、断る理由も見当たらないらしく、小さくうなずいた。待合室の古びたソファに向かい合って座ると、珠洲は早速切り出した。
「こちらに三十三年前、神代京子先生が通っていたとお聞きしました。当時のお話をぜひお聞かせ願いたいのです」
加代は目線を落とすと、ボソボソとささやくように答えを返す。
「さあ……どうだったでしょう。父の代のことですからね、私は何も存じ上げないのですが」
やはりいきなり本題から入るのは難しいようだ。珠洲は少し話を横道にそらした。
「そうですか、残念です。ところで、先生は、私の名を聞いて「本家筋」と仰いましたが、われわれ一族の事情をご存じということですよね。ひょっとして、藤代先生のお父様も、神代か魁然の血筋でいらっしゃったのですか?」
「え?……ええ、まあ。薄いですけれど」
加代は少しだけ顔を上げると、小さくうなずいた。
「父はもともと神代総合病院で働いていた産婦人科医で、神代の血が半分入っていたんです。だから、私もこう見えてクォーターです。あの不思議な能力はほとんど持っていませんけれど」
そう言うと、加代は昔を懐かしむような、遠い目をした。
「父は不妊治療でそれなりのキャリアがありましたから、独立して、院長としてこの病院を始めた頃は、活気がありました。あの一族の事情を知っていることもあって、一族の関係者が治療を求めてくることも多かったですね」
珠洲は身を乗り出すと、いくぶん声を潜める。
「つまり、神代京子先生が神代総合病院ではなく、あえてこちらの病院……不妊治療の専門病院に通院していたという事は、彼女も極秘に不妊治療を受けていたと……そういう理解でよろしいのですよね?」
加代は黙り込むと、じっと暗い目で珠洲を見つめていたが、ややあって、重い口を開いた。
「私は何も知りません。知っていたのは父ですが、父は十五年前に自殺しました。十六年前にあの事件が起きて、神代京子先生の周辺に疑惑がもたれ、うちにも何度も関係者が話を聞きに来て、ヤクザのどう喝のようなマネをされたり、仕事の妨害をされたり……父は、患者の個人情報を提供するわけにはいかないと厳しく突っぱねていたのですが、精神的に追い詰められたんでしょうね。首をつって死にました」
珠洲は目を見開いた。十六年前の事件の調書には、藤代産婦人科の名前など一言も書かれていなかったからだ。つまり、その調査は明らかに魁然側の手によるものではない。
――神代側は、この病院の存在も、神代京子の事情も知っていた?
「私は詳しいことは何も知りません。ですが、父の自殺があの一族の……神代京子氏の事情に深く関与していたことは確かです。私は、あなたがた一族に関わりたくはないのです。お話できることは何もありませんので、もう帰っていただけますか」
そう言って椅子から立ち上がった加代を珠洲はじっと見上げていたが、おもむろに口を開いた。
「……藤代先生のお父様の死が、自殺ではなかったとしたら」
加代はハッと息を飲むと、食い入るように珠洲を見つめる。珠洲は低い声で言葉をつづけた。
「今のお話からすると、神代側が口封じのためにお父様を自殺に見せかけて殺した……そういう可能性が十分に考えられるシチュエーションだと、私は感じたのですけれど」
「それは……」
加代は左右に落ち着きなく目線を彷徨わせる。珠洲はここぞとばかりに畳みかけた。
「実は、そういう可能性も含めて、われわれは今、ある件に関する捜査を神代側には内密に進めています。神代と魁然は決して一枚岩ではありませんし、少なくとも私は、あなたの味方です」
その言葉にごくりと唾を飲み込むと、加代は凍り付いたように動きを止めていたが、ややあって、戸棚の方から一冊のファイルを取り出してくると、テーブルに置いた。
「……それは?」
「三十三年前、うちにかかっていた患者のカルテです。私はあなた方に協力できませんし、私からこの記録についてなにか申し上げることもできません。ただ……」
「ただ?」
「何かの拍子に、偶然見えてしまったということにしていただけるのなら、あとはお任せします」
それだけ言うと加代はファイルを珠洲の前にある机の上に置き、小さく頭を下げた。
「私はこれから会合に出かける予定が入っています。外出の準備をしたいのでここで失礼しますが、よろしいですね」
珠洲は加代に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「私は何も……ただ、父の死の真相を誰かが明らかにしてくれるのなら、それに越したことはないとは思っています」
そう言い置くと、加代は部屋を出て行った。
珠洲はファイルを手に取り、急いでページをめくった。三十三年前の記録にひととおり目を通し、三十四年前の記録に移り……。
彼女は、ページを繰る手を止めて、じっとその文字を見つめた。
それは神代京子のカルテだった。珠洲の想像通り、不妊治療の記録がなされている。カルテによれば、彼女は排卵誘発剤を数年にわたり複数回投与されていたようだ。
「排卵誘発剤……」
まだ子をなしていない彼女も、友人や知人に不妊治療をしている者がおり、情報として知ってはいる。それを投与して妊娠した場合、確か、多胎妊娠になる可能性が多くなるのではなかったか。
珠洲は緊張を覚えながら、さらにページを繰った。神代、魁然の人間で、この時期に藤代産婦人科にかかっていた患者はもう一人、城崎梓という人物がいたようだ。彼女なら知っている。魁然総帥のいとこで、珠洲のおばにあたる人だ。高齢出産でようやく子をなし、一人息子は現在中学校に通っているはずだ。
珠洲は手早く必要なページをスクショすると、お礼のメモを走り書きして藤代産婦人科をあとにした。