4月26日 2
病院経営会議を終えた京子が院長室に戻り、外部機関での運営会議に出席するために外出の支度を始めていると、扉がノックされる音が響いた。
「どうぞ」
「失礼します。配布用資料を印刷してお持ちしました」
扉を開けて入ってきたのは享也だった。彼が差し出した大判の茶封筒を手に取ると、京子は手早く中身を確認する。
「ありがとう。助かりました」
京子はそう言って資料をカバンにしまったが、享也はなぜかそこから立ち去ろうとせず、外出準備を進める京子をじっと見つめている。京子はちらりと享也に目線を流した。
「まだなにか用ですか?」
「いえ、用というほどでもないのですが……」
享也はひと呼吸おくと、おもむろに口を開く。
「あの、紺野とかいう男のことです」
京子は支度の手を止めずに、何気ない調子で言葉を返す。
「紺野……ああ、例の患者ですね。どうしました? 容体に急変でもありましたか?」
「いえ、容体は今のところは落ち着いているようです。熱がいくぶん下がってきたと、沙羅くんからの報告もありました」
「それはようございました。しっかり証言もとれないうちに逝かれてしまっては神代の名折れですからね」
京子は言いながら羽織っていた白衣を脱いでハンガーにかけ、代わりに外出用のジャケットを着る。京子の様子を探るように見つめながら、亨也はぽつりと口を開いた。
「あの男、私に似ていますね」
京子はほんの一瞬、支度の手を止めた。が、すぐに支度を再開すると、首をかしげた。
「そうですか?」
「院長はそう思いませんでしたか? 先日の会合で彼を見た時」
京子は鏡で着こなしを整えながら、なおざりに言葉を返す。
「さあ……私は特には。神代一族はどの人も、多かれ少なかれ似たりよったりの容姿をしていますから」
「そうですか? 今度、私の高校時代の写真でもお見せしましょうか。びっくりすると思いますよ」
「だとしたら、興味深い偶然もあるものですね」
外出の支度を整え終えた京子は、資料の入った大きなカバンを手にすると、享也に向きなおった。
「話というのはそれだけですか? そろそろ出かけなければいけないのですが」
「すみません、あと一つだけ。十六年前、東順也に対して行われた遺伝子検査の結果をお持ちでしたら、コピーしていただきたいのです。詳しく知りたくて探したのですが、みあたらなかったもので」
その言葉に、京子は眉を上げた。
「記録はきちんと保全されているはずです。見当たらないなどという事があるわけが」
「それがどういうわけか見当たらなかったのです。情報管理担当者に問い合わせても首をかしげるばかりで」
「……それは管理の不備ですね。わかりました。あとで担当者に話を聞きに行きます」
享也はなぜだか探るような目で京子を見やりながら、淡々と言葉をつづけた。
「担当者への聴取についてはお任せしますが、とりあえず私は早急に結果が知りたいので、お忙しいところお手数ですが、院長がもし個人的に結果をお持ちでしたら、コピーして送っていただけるとありがたいのですが」
「……わかりました。探してみましょう。ただ、なにぶん十六年前の資料ですし、個人情報に関わるものですから、ちょっと探すのに手間取るとは思います。最近は特に多忙なので、少し時間がかかることは理解してください」
京子はやんわりとそう言ってから、強い目線で享也を見据える。
「それと、十六年前の件については、科学的に結論が出ていることです。あなたも覚えているかもしれませんが、当時もあれこれと不愉快な詮索をされました。その愚を、血縁であるあなたが再びくり返すことはないと信じています」
「もちろんです。私はただ、その結果をもう一度確認しておきたいと思っているだけです。ご理解ください。ご不快にさせてしまったのでしたら謝罪します」
そう言って享也が腰を折り曲げると、京子は表情を和らげた。
「……まあ、不穏な事件が相次いでいますからね。不安になっていろいろと心配したくなる気持ちはわかります。なにかあれば遠慮なく言いにきてください。なにぶん忙しいので、ゆっくり時間が取れるときはあまりないかもしれませんが。では、行ってまいります」
「行ってらっしゃいませ、お気をつけて」
享也はそう言って頭を下げたが、院長室を出ていく京子の後姿を、鋭いまなざしでじっと見つめていた。
☆☆☆
「失礼します。ご連絡を差し上げていた魁然珠洲と申します。看護師長の水野幸恵さんと、四時から面会のお約束をしているのですが……」
珠洲が受付の女性スタッフにそう告げると、確認に行ったスタッフはすぐに珠洲を奥の部屋に通してくれた。
珠洲が訪ねたのは、千葉県にある、とある産婦人科病院だ。
三十三年前に妊娠していた神代一族の情報を探していた珠洲だったが、なにぶん神代側に調査の事実を知られてはならない関係上、病院側に情報を問い合わせることもできず、調査は難航していた。ここから迫るのは無理かと諦めかけていた時、彼女は偶然にも、ある興味深い人物に行き当たったのだった。
その人物の名は、水野幸恵。神代京子の出産に際し、病棟で世話にあたった看護師だ。彼女は三十五年前に神代総合病院の産婦人科に看護師として採用され、神代京子の出産時も産婦人科病棟で勤務していた。その後転職し、現在は千葉にある産婦人科病院で看護師長として働いている。
神代の内部事情は知らないまでも、当時、外科医長として輝かしいキャリアを築き、次期院長の椅子は確実だろうとうわさされていた神代京子の出産は、一般人の彼女でも印象深く記憶に残っているに違いない。他にたどれる糸がない以上、とりあえず、京子の出産の状況から洗い出してみようと連絡をとった珠洲の申し出を、水野は二つ返事で了承してくれたのだった。
「それにしても、本当なんですか。あの神代京子先生に、浮気疑惑がささやかれてるって……」
椅子に座るや否や、水野はでっぷりした上半身をずずいと乗り出して声を潜める。この申し出をするにあたり、珠洲は「神代京子院長に浮気疑惑が持ち上がっており、夫の方から調査依頼を極秘に受けている」という虚偽のシチュエーションを提示していたのだ。珠洲はわざとらしく周囲に目線を走らせると、口元に人差し指を当ててみせる。
「はい、その通りなんですが……その関係で、極秘に調査を進めなければなりません。メールでお伝えしました通り、この件に関しては、くれぐれもご内密によろしくお願いします」
そう言って珠洲は、おもおむろに机の下から分厚く膨らんだ封筒を差し出す。水野は目を丸くすると、その封筒を受け取りながら深々と頷いた。
「わかりました。絶対に口外はいたしません。……で、何からお話すればよろしいでしょうか?」
「なんでも結構です、当時、神代京子先生が出産した際の様子や、お見舞いに誰が来たかとか、体調はどうだったかとか、……思い出せることがあれば、なんでも」
水野は目線を上げて考え込んだ。
「そうですねえ……お見舞いは、まあとにかくいろんな方がいらっしゃいましたよ。なにしろ、京子先生はあの神代財閥の一人娘でしたからね。旦那様の神代順平さんはもちろん、警視総監のお偉い方とか、経団連の会長さんとか、政治家の方もいらっしゃったかな……ただ、みなさん既婚者でらっしゃったし、お年を召した方が多かった印象しかなくて……担当医だった神代亮介先生も、当時すでに今の私と同じくらいの年齢で、確かもう鬼籍に入られてるはず……」
珠洲はここぞとばかりに大げさに眉を上げ、ポンと手をうって見せる。
「亮介先生! ああ、懐かしいですね。私、一度だけお会いしたことがあります。とても優しい、でも腕のいい先生だったんですよね」
珠洲の言葉にうなずくと、水野は昔を懐かしむように目を細めた。
「そうそう。たびたび雑誌の取材なんかもされていたくらいものすごい人気の先生で、神代財閥の関係者の方はみなさん神代先生に取り上げてもらいたがって……そうか、確かにお年ではあったけど亮介先生はステキでしたからね。不倫関係になってもおかしくはないかも……」
「なるほど、例えば、亮介先生が関わった出産時に、なにか変わったこととかはありませんでしたか? 印象に残るような……」
水野は腕を組んで考え込んだ。
「うーん……私は病室担当で、分娩には立ち会ってないからなあ……二人の様子がどうだったかはちょっとわからないかも……」
「分娩に立ち会った看護師さんが何か言っていた記憶とかはないですか?」
「それも特に……京子先生はかなりギリギリの飛び込み出産だったんで、それまでかかっていた他院からの情報が届くのが遅くなって、それでものすごくたいへんだったって担当者がボヤいてた記憶があるくらいで」
その言葉に、珠洲は大きく目を見開いた。
「……飛び込み出産?」
「あれ、ご存じなかったですか? 亮介先生はとにかく人気で、検診を受けられないのにせめて出産だけでもって無理やり飛び込みでくる方、けっこういたんですよ。ただまあ、京子先生の場合、かかりつけが遠方の個人医院で、突然産気づいて間に合わず、仕方なく……みたいな流れだったと思いますけど」
「遠方の、個人医院……」
真剣な顔で呟く珠洲を見て、水野はハッとしたように動きを止めると、目をキラキラ輝かせ始めた。
「……そうか、出会いは神代総合病院に限りませんよね。というか、検診でずっと通ってたんだから、そっちの方が確かに可能性は高いかも」
「その個人病院の名前、覚えていらっしゃいませんか」
珠洲に問われて、水野は頭を抱えた。
「うーん……いくら印象深いと言っても、三十年以上前の話ですからね……私もさすがに、病院の名前までは……」
「……まあ、当然ですよね」
珠洲ががっくりと肩を落としかけた時、水野がハッと顔を上げた。
「ちょっと待って。そういえばその病院、確か啓ちゃんが不妊治療で通っていたところじゃなかったかな」
「啓ちゃん?」
「私の神代病院時代の同期です。京子先生の病院の名前を聞いた時、ああ、啓ちゃんと同じところだって意外に思った覚えがあって……ちょっとお待ちくださいね。どこの病院だったか電話して聞いてみます」
水野は携帯を取り出し、通話をするために部屋の奥に駆け込んだ。しばらく何やら話し声が聞こえた後、満面の笑顔で奥から走り出てくる。
「わかりましたよ! 藤代産婦人科という横浜の個人病院です!」
「横浜……」
珠洲の隣に腰掛けると、水野は携帯で何やら検索しながら説明をつづけた。
「ホームページはないみたいなんですけど、神奈川の産婦人科の紹介ページに名前と住所と電話番号が載ってるって、啓ちゃんが……ああ、これです。なんか、すごく小さな個人病院だけど、不妊治療をする人の間ではけっこう噂になるくらい腕のいい病院だったって。ただ、今はもう当時のお医者さんは残ってないかもって言ってました。なにせ、三十三年前ですからねえ……すみません、私がわかるのはこのくらいですね。なにかのお役に立つといいんですけれど」
水野が携帯画面を示して見せると、珠洲はそこに載っている情報を手早く控え、自分の携帯で検索し、同じ情報の載っているページをブックマークする。それから勢いよく立ち上がると、深々と頭を下げた。
「何かのお役どころか、たいへん有用な情報をいただけたと思います。本日は、お時間をとっていただいて、本当にありがとうございました。感謝いたします!」