4月26日 1
4月26日(金)
「ただいま……」
寺崎はアパートの扉をそっと開くと、おそるおそる室内をのぞき見た。夕べは結局無断外泊。みどりには、朝方に学校へ行くと短いメッセージを伝えたきりだったのだ。
廊下から台所をそっとのぞくと、みどりが車いすに座り、台所で夕食の下ごしらえをしている姿が見える。みどりは皮膚が弱く、義足の装着によるトラブルが絶えないので、ほとんど義足を使わない。このアパートは魁然一族の関係者の持ち物で、みどりのために部屋をバリアフリーに改築してくれているため、車いすでも生活にあまり支障はないのだ。
多分、寺崎が帰宅した気配も感じているし、先ほどの声も聞こえているはずだ。だが、彼女は流しの方を向いたきり、黙ってジャガイモの皮をむいている。
――怒ってるな……。
寺崎は気配を消し、足音を忍ばせて廊下を進み始めた。
「おかえり」
ふいにみどりが言葉を発したので、寺崎は思わず呼吸すら止めた。
みどりは寺崎の父親である魁然行紘と、大恋愛の末周囲の反対を押し切って結婚した。行紘は魁然家の名を捨て、寺崎家に婿入りする形でみどりと一緒になったのだ。故に、みどりには魁然家の血は一滴も流れていない。まるっきり普通の人間である。それなのに時折、寺崎の気配をいやに鋭く察知することがあり、いつもドキッとさせられるのだ。
「何か言うことはないの?」
みどりはジャガイモを剥く手を止めて包丁を置くと、車いすをくるりと彼の方に向ける。観念した寺崎は、素直に頭を下げた。
「いや、あの……ごめんなさい」
「何があったのか、説明しなさい」
淡々と言われるとかえってすごみがあるなと思いつつ、寺崎は昨日の出来事を話そうと口を開きかけた。だがそのためには、彼……紺野秀明のことを伝えなければならない。寺崎は開きかけた口をいったん閉じると、黙ってダイニングテーブルの椅子に座り、改まった様子で口を開いた。
「おふくろ、今まで言ってなかったんだけど……実は俺、たいへんな人物とかかわってるんだ」
みどりはやれやれとでも言いたげにため息をついた。
「知ってるわよ。鬼子でしょう。月曜日にそのせいで学校がたいへんなことになって、あなたがその第一発見者だったって話は、あのとき魁然のえらい人や警察から何回も連絡をもらって知ってる。ただまあ、あなたの方からもちゃんと話は聞きたかったけど、月曜日はあなたの様子もおかしかったし、とんでもない事態に巻き込まれてショックを受けてるんだろうと思ったから、いきなり突っ込んだ話をするのもどうかと思って時間を空けてたんだけど……」
そう言うと、厳しい表情で寺崎を見つめる。
「昨夜もやっぱりその件がらみだったのね。明らかに危険度が高くなってるわけで、護衛の仕事をこのまま続けるかどうか、あなたとも一度ちゃんと話し合わなきゃなって思ってた。正直に言って、未成年が請け負う仕事の域を超えてると母さんは思う。お金がどうのという話じゃなく、続けるかどうかは……」
「たいへんな人物ってのは、鬼子のことじゃない」
みどりは言いかけた言葉を飲み込むと、目をぱちくりさせて寺崎を見た。
「……鬼子以外にたいへんな人物なんているの? 魁然の方からは何の連絡ももらってないけど……」
「そいつのことはまだ確定事項じゃないから、たぶん一族の中でも上層部の人たちにしか知らされてないんだと思う。ていうか、まだ上層部の人たちも訳が分からなくてガタガタしてる状況だから。実を言うと、俺もこの件に関してはやんわり口止めされてる。保護者であるおふくろにまで話すなって言われたわけじゃなかったけど……だから、このことはあまり口外はしないでほしい」
息子の様子にただならぬ気配を感じたのか、みどりは車いすを寺崎の方に寄せた。
「そいつは、あの……マンション倒壊事件に関わってる可能性がある」
みどりはハッとしたような顔をすると、真剣な目で息子の顔を見つめた。
「そいつは神代の病院に入院してるんだけど、昨日、病院で鬼子に襲われてたいへんなことになって……俺、そいつの様子が心配だったんで、神代の病院に一晩泊まってきたんだ。このことは神代の病院に聞いてもらってもいい」
みどりは幾分緊張した面持ちで寺崎の言葉を聞いている。寺崎は一呼吸おくと、おもむろに口を開いた。
「そいつは、東順也の生まれ変わりらしい」
あまりにも思いがけないその言葉に、みどりは数刻目を丸くして固まってから、困惑しきった表情を浮かべた。
「……深刻な顔で何を言うかと思ったら……生まれ変わりとか、そんな訳の分からないこと、あるわけがないでしょう」
「上層部も訳が分からないからこそガタガタしてる。普通に考えたらこんな話、作り話にもならないから。でも、そいつのあの時の記憶を見せてもらったけど、とてもウソとは思えないんだ。よく考えれば、俺ら一族の能力自体が荒唐無稽だし、もしかしたら本当に、ああいう能力を持ってる連中には起こりうることなのかもしれない。どうやって生まれ変わったかとかは本人もよくわかってないみたいだし、本人は生まれ変わりたくもなかったらしいんだけど……」
みどりはまじろぎもせず寺崎を見つめていたが、ややあって、震える声で問いを発した。
「あの時の記憶って、まさか……」
「あいつが起こした、あの事件に関わる記憶だ。あいつは上層部の人たちに要請されて、あの事件の時に何があったかを伝えてる。実は俺も、昨日その内容を、病院で神代沙羅先生に送信してもらった。総代を護衛する上で必要な情報だからって言って」
みどりは絞り出すように、かすれた声で問いかける。
「……どんな話だったの?」
寺崎は目線を落とすと、小さく首を横に振ってみせる。
「ごめん。一言じゃとても言えない。もしおふくろにその気があるなら、神代先生に頼んで見せてもらうといいと思う。おふくろはあの事件の被害者だ。あの時のことを知る権利はある。もっと言うと……」
言葉を切って目線を上げると、寺崎は思い切ったようにこう言った。
「そいつに直接聞いてもいいと思う」
みどりはその言葉にうたれたように、まじろぎもせず寺崎をみつめている。寺崎はその視線から逃れるように目線を落とすと、言いにくそうに言葉をつづけた。
「実は俺……そいつに直接聞いてみたんだ。おまえは東順也なのか、なんであのマンションをぶっ壊したんだって……そしたらそいつ、病院の廊下で、申し訳ないって土下座した。許してもらえるとは思ってないって言って……もちろん、あいつの罪はそんな程度で許されるもんじゃないし、俺も許した訳じゃない。ただ……」
言いにくそうに言葉を切ってから、ややあって、遠慮がちにこう付け加える。
「ただ、なんかそいつ、そこまで悪いやつには思えなくて……」
そう言うと、寺崎は顔を上げてみどりを見た。
「あいつ、鬼子に狙われてるらしくて何回も襲われてるし、危険だからってんで上層部に消される可能性もある。そうなったら、あの時のことをあいつの口から直接聞くチャンスは永遠になくなる。だから、そういうやつが今神代の病院にいて、その気になればあの時のいきさつを直接聞けるってことだけ、頭の片隅においておいてもらえればと思ったんだ。もちろん、おふくろに聞く気があったらの話だけど。実を言えば、具体的な話は俺も聞いてない。なんか怖いというか、知りたくなかった。でも、おふくろは違うかもしれない。だから……」
そこまで言って、寺崎はハッとして言葉を飲み込んだ。黙って寺崎の話を聞いていたみどりの目から涙があふれ、瞬きとともにその頬を伝い落ちたのだ。
「おふくろ……」
寺崎はそれ以上何を言うこともできずに、ただ黙って涙を落とすみどりを見つめるしかなかった。