4月25日 5
あれこれと残務を終えて義虎が帰宅したのは、夜の十時過ぎだった。
「おかえりなさいませ。お食事の用意はできております」
珠子の言葉には応えず、義虎はネクタイを外しながら短く問う。
「玲璃は、帰っているか?」
「はい。もうお食事を済まされて、お部屋に行かれております」
「私の部屋に来るように、言ってくれ。食事は、そのあとにする」
珠子は一礼すると、玲璃を呼びに奥へ入っていった。着替えを済ませた義虎が自室の文机の前に腰を下ろすと、程なく、私服姿の玲璃がやってきた。入り口で正座し、そっと襖を開けて恭しく一礼する。
「お帰りなさいませ、父様」
義虎は頷くと、玲璃に中に入るように促した。玲璃は畳の縁を踏まずに義虎の前まで行くと、きちんと正座をして居住まいを正す。
「何でしょうか」
義虎は無言で開け放った障子の向こうに目を向けていたが、やがて重々しく口を開いた。
「今日、鬼子本体が現れた」
玲璃は驚いて目を見張る。
「本当ですか? どこに……」
「神代の病院だ」
義虎はそれ以上あまり詳しくは語らず、短くそう言うとすぐに本題に入った。
「これだけ頻繁に鬼子が現れる状況は前代未聞だ。この先、何が起きるか予測ができない。これ以上待つのは不可能だ」
「……え?」
玲璃は最初、義虎が何を言いたいのかがよく分からない様子だった。
「おまえたちの結婚を、早めようと思う」
玲璃は完全に動きを止め、ぼうぜんと父親の顔を見つめた。
「……父様、約束が違います。高校だけは出させていただけるはずです」
「状況が変わった。在学中のおまえの身の安全が保証できん。分かっているとは思うが、おまえと同年代の魁然、神代の血を汲む人間は非常に少ない。今までのように日常の危険からおまえを守るだけなら、今配置されている混血の護衛だけで十分だが、今起こっていることはこれまでとは次元が違う。強力な異能力者による攻撃が予想される事態なのだ。神代側の護衛がついているのなら話は別だが、あいにく神代側にはおまえと同年代の者がおらん。しかも、相手は神代総代レベルの能力者だ。混血の護衛がついたとしても全く意味をなさないのだ。同等かそれ以上の能力者が必要だが、そんな者は神代総帥や神代総代くらいなものだ」
「大丈夫です、護衛なんていなくても、私は自分の身くらい自分で守って……」
義虎は厳しい顔で首を横に振った。
「この間のエレベーター事件、そして生徒会室での事件、おまえは自分で自分の身を守り切れたのか?」
玲璃は口ごもった。
「それに、これはおまえだけの問題ではない。無関係な生徒も危険に巻き込むことになる。それでもいいのか?」
玲璃は返す言葉もなく、黙って下を向いた。
「亨也さんは、いつでもいいとおっしゃってくれている。連休中に、結婚の段取りを進めよう」
じっとうつむいて畳の縁を見つめていた玲璃は、ようやく口を開いた。
「結婚すると、高校は……」
「退学という手続きをとることになるだろう」
平然と言い放たれたその言葉に玲璃は息をのむと、激しく首を横に振った。
「退学だけは、したくありません!」
「学校に行くこと自体が危険なのだ。今だって本当は、ずっとうちにいてもらいたいくらいなんだぞ」
「ですが……」
玲璃の言葉を遮るように、義虎は強い口調で言い放つ。
「いつも言っているだろう。おまえの肩には、先代たちが連綿と紡いできた一族の三百年来の望みがかかっているのだ。そのことを考えれば、高校などと甘えたことは言っていられないはずだ」
玲璃はもう何も言わなかった。膝の上で握りしめた手の甲に、ぽとぽとと涙の滴が滴り落ちる。
「……失礼します」
玲璃は涙声でそれだけ言うと立ち上がり、早足で部屋を出て行った。
義虎は腹の底から絞り出すようなため息をつくと、窓の外に目を向けた。暗く静かな和風庭園には、筧の音だけがときおり夜の空気を震わせて響いていた。