4月25日 4
雨が降り出したらしく、先ほどから雨粒が窓をたたく小さな音が、暗く静かな病室内にリズミカルに響いている。
消灯時間を過ぎた病院内は、冷たい沈黙に満たされていた。枕元に据えられた常夜灯だけが、薄暗い病室にほんのり温かい色彩をそえている。
氷の入ったビニール袋を手にした寺崎は、そっと扉を開けて病室内に入った。
製氷機からもってきたその氷を、紺野の頭の下から抜き取った氷枕に詰め込む。何回も取り換えているのだが、すぐに水になってしまうのだ。
頭の下に氷枕を入れてやりながら、寺崎は紺野の顔を見た。あれ以来、全く目を覚まさない。うなされるようなこともない代わりに、まるで死んだように眠っている。ときどき本当に生きているか心配になるが、氷枕の氷があっという間に溶けるところをみると、とりあえず高熱を発する生命力はまだあるようだ。
その死んだような寝顔を見やりながら、寺崎はこの日何度目かの小さなため息をついた。
寺崎は、マンションを倒壊させた「東順也」という人物の情報を得たくて、図書館で妊婦惨殺事件に関する新聞記事を片っ端から読み漁った時期があった。
読者の興味をひきたいのだろう、新聞や雑誌の記事はどれも、東順也という「異常犯罪者」について、事件とは直接関係のないことまで根掘り葉掘り暴き立てていた。その中には当然、東京駅に遺棄され養護施設で育ってきた特異な生い立ちについても書かれていて、他の児童にたびたびケガをさせるなど、多くの問題行動を頻繁に起こして孤立し、職員とも児童ともかかわりを持とうとしなかった異常性ばかりが強調されていた。寺崎はそれらの記事を読み、東順也は特異な生まれや環境が原因で残虐な殺りくに快感を見いだす人格破綻者になり、そのせいであんな事件を起こし、マンション倒壊についても、敵に自分の力を誇示するために遊び半分に破壊したのだろう程度に思っていた。
だが、ここしばらく、紺野という人間をじっくり眺めるうちに、彼はそんなことができる人間ではないような気がしてきていた。特に今日、寺崎は改めてその思いを強くした。
寺崎の脳裏に、先ほどの紺野の言葉がよみがえる。
『子どもを、殺すと、言われて……』
――あのクマ野郎は周りに集めていた子どもを人質に、紺野を呼び出しやがったんだ。紺野はこんな体で、まともに歩ける状態じゃないのに、行った。無視しようと思えばできたはずなのに……。そしてあの時。壁にたたきつけられながら頭も鼻も歯も折れて、それでもシールドを続けようとした。あの子どもの顔を見る、ただそれだけのために……。
「俺が、もっと早くクマ野郎の頭をとってれば……!」
寺崎は、自分を殴りつけたいような衝動にかられ、拳を堅く握りしめた。
一般人より優れているとはいえ、混血の寺崎には義虎ら純血種のような強大な力はない。一族の一員として活動する中で、常に引け目を感じてきたのも事実だ。今回、紺野が重傷を負ったのは自分の力のなさが原因だと、寺崎はずっと自分を責めていた。病室に残ったのも、その罪滅ぼしがしたかったからかもしれない。
寺崎はぬるくなったタオルをとると、冷たい水で絞って紺野の額にそっとのせ直した。
その時だった。
「ありがとう……ございます」
小さな、かすれた声がした。
見ると、紺野が包帯の間からうっすらとその目を開けて寺崎を見ている。
「気がついたか、紺野」
寺崎はほっとして表情を緩めた。もしかしたら、このまま死んでしまうのではないか……そんな暗い予感に苛まれて、いてもたってもいられなかったのだ。
そんな寺崎の内心に気づく様子もなく、紺野はなにを思ったのか、唐突に謝罪の言葉を口にした。
「今日は、すみませんでした……」
「え?」
なんのことだかわからず、きょとんとして目を丸くする寺崎に向かって、紺野は荒い呼吸の合間から、かすれた声で言葉を重ねた。
「あなたを、巻き込むつもりはなかった。でも、あれ以上のことが、できなくて……あなたの姿が見えたので、ついあれこれと……本当に、すみません。ケガは、ありませんでしたか」
寺崎は目を丸くすると、慌てたように首を振ってみせる。
「ケガなんてしてねえよ。それより俺の方こそクマ野郎に手間取って、あんたにこんなケガをさせちまった。俺の方こそ、悪かったよ」
紺野は静かに首を振ると、しばらくは無言で白い天井をじっと見つめていた。が、やがて意を決したように口を開いた。
「寺崎さんと、おっしゃるんですか……」
「……そうだけど?」
「僕は、あなたに……言わなければならないことが、あります」
その言葉にハッとすると、寺崎は黙り込んだ。
「あなたは、この間……僕が他の皆さんにした話を、聞きましたか」
寺崎が無言で頷くと、紺野は白い天井に目を向けた。
「僕はあの時、話しませんでした……話せなかった。自分のしたこと、全てを……」
言葉を切り、耐えきれなくなったように目を閉じる。唇が、何かに怯えているかのように微かに震えている。
「話すべきだと言うことは、分かっていました。でも、だめだった……それがずっと、気になっていて……」
紺野は目を開くと、意を決したように寺崎をまっすぐに見た。
「あなたは僕に、どうしてあんなことをしたのかと、聞きましたね。その答えを、伝えなければならないと、ずっと思っていました」
訴えかけるようなまなざしに気圧されて、寺崎は紺野から目が離せなくなっていた。
「あなたになら、伝えられるかもしれない。自分のしたこと全てを……いえ、伝えなければならないんです」
シーツを堅く握りしめている紺野の右手が、かすかに震えている。
「……覚悟はできています」
寺崎はごくりと唾を飲み込んだ。
確かにそれは、自分も知りたかったことには違いない。あの送信の中にその場面が入っていなかったことには、少なからず不満を感じたのも確かだ。だが、本当に聞きたいかと改めて問われた時、即座に肯定できない自分がいることも、また事実だった。
寺崎は絞り出すようなため息をつくと、ゆっくりと頭を振った。
「……もう、いいんだ」
紺野は目を見開くと、困惑したような表情を浮かべた。
「でも……」
「本当にいいんだ。俺は多分、そんなことは知りたくない。もし知りたいものがあるとしたら、たとえばオヤジのしゃべってる声とか、今の俺にどんな言葉をかけてくれるかとか、そんなことだ」
まるで自分に言い聞かせるようにそう語る寺崎を、紺野は沈痛な面持ちで見つめた。自分の引き起こしてしまった罪の重さを、改めて思い知らされている風だった。
「ただ、おふくろは、……違うかもしれない。実際、自分の目の前でおやじの死ぬところを見て、自分の足もなくなって、いまだにそれで苦労してるわけだから。おふくろがもし、そのことを知りたいって言ったときは、教えてやってくれよ。……だからさ」
突然、寺崎が紺野の顔をのぞき込んだ。予想外の行動に目を丸くした紺野は、あわてて逃げるように目線をそらしたが、ややあって、おずおずと視線を戻す。寺崎はそんな紺野をまっすぐに見つめながら、真剣な表情で、こう言った。
「絶対、死ぬなよ」
よほど思いがけない言葉だったのだろう。紺野はあっけにとられたような表情で固まった。
その反応に、寺崎は笑った。
「何驚いてんだよ、当たり前のことだろ。おふくろに、その話を聞きたいかまだ聞いてもいねえんだからさ。もし、おふくろがその話を聞きたいって言ったとき、おまえが死んじゃってたらどうすんだよ」
紺野はまじろぎもせず寺崎を見つめたきり、何も言わなかった。
「……もう疲れただろ、少し休め。今晩は俺がいてやっから、死ぬとか何とか考えんじゃないぞ」
寺崎は紺野の額にのせてあったタオルを取り、立ち上がった。水道へ行くと、冷たい水でタオルを絞り直す。
「とにかく今は、熱下げねえと」
再び額にあてがわれたタオルのひんやりした心地よさを感じながら、紺野は微かに唇を震わせた。
「……ありがとうございます」
「気にすんなって」
「本当に、……ありがとうございます」
軽い調子でいなそうと口を開きかけたが、包帯の隙間から見える紺野の目がかすかな湿りを帯びているような気がして、寺崎は言葉を飲み込んだ。